CALL2 シン・シンデレラ

 私は激怒と困惑に酔いながら、止まらない吐き気に苦しんでいた。男は「お前はなぜ信号に従うのか」という観念論のような問いで、私という存在の採点をしつつ、喉が異界につながっているような声で続けた。


「さて君がいかに可能性に満ちているか、という前提を踏まえたところで、本題に進もう。そのような貧弱な意志でかろじて立っている段階で、まだ神の評価を恐れることなどない。神は現事象であり全事象そのものと考えればよろしい、今のところはな」


 この男は私をどこに誘導したいのだろう。私の意見などまったく興味のない様子で、とにかく演説をやめようとしない。間違いなく深刻なトラウマになるだろう。

 私は向こうの道に渡りたいのだ。しかし、この男の手品か、信号機の故障か、あるいは時間が引き伸ばされたか知らないが、信号の色は冒頭からずっと赤色を示している。回り道をしなかったのは、私の意地である。その対決姿勢が男に伝わってしまったのか、男は趣味のお説教を私にぶつけてくる。次に男は、さらに奇妙なことを告げた。


「さて、特別に機会を与えられた運のいい弱者よ。物語の本文はここからだ。君がすでに平均的青年ではないということを。当局は君の依頼を請け負う」


 男は向かいの歩道を指さした。指先の信号は念願の青に変わっていた。このまま男に従って歩いてたまるかと一瞬ためらったが、決心して横断歩道を渡った。男の従う通りに歩いているのではない、私の家はこっちにあるんだ。

 筋力が発揮できる限りの早足で男から逃げるように歩いていると、後ろからおぞましい声が追いかけてきた。


「本日、午前1時37分。『コール』を受け取ったではないか。覚えていないのか」

「知りませんね」私は風に消えるような小さな空返事で反撃した。

「今までの君は世界にただ一人であった。しかし同時にもう一人が現時空において確実に存在している。もう見たかね、当局による奇跡を。見事に再現されたもう一人の自分を」

「私のそっくりさんが学校にいたのは、あんたの仕業ですか」


 私は歩みのペースを落としながら、『私の異常』を知る灰色SF手品野郎を横目で睨んだ。

 こいつの言う『コール』とは何だろうか。察するに、こいつは現代女学生の心の隙に付けこんで破滅に導き、闇の世界に引き込むべく、勧誘電話をかけまくっているのだろう。私は今、この男のとんでもない趣味に付き合わされている。最悪の日だ。じゃあその魔法みたいなことを信じたとしたら、何もない空間に私もう一人分の質量を発生させたということだろう、地球がぶっ壊れるんじゃないのかと適当に反論したくなったが、しかし反論すれば趣味に付き合うことになる。誰か理系の人がいたら、この黒ずくめの変なおっさんを論破してほしい、ついで、交番まで連れて行ってほしい。当局ってなんだよ、秘密結社かなにかか。そうするとこいつは何か私に売りつけてくるんじゃないだろうな。しかし何かを売りつけたい人間ってのはもっと低姿勢にくるのが常識じゃないのか。威圧的な押し売りに負けてしまうのか、私は。次々に沸き立つ疑問に、内心泣きながら打ちのめされていた。


 なぜ私が目をつけられなければならないのか。


「当局の『CQコール』に応じたのは君ではないかと言っているのだ。君が主たる精神世界の、夢の中で」

「そんなものは頼んでいない、覚えていない。取り消せ。そしてこれ以上しゃべるな」

「君が夢の中での『コール』を覚えていなくとも、自我の深層というものは得てして気づかないものだ、君の思考はいたって平均的だ。『もし世界に、自分が二人いれば』と、そんな甘い夢をもつのも君らしさなのだと、この際、互いに認めようではないか」


『……Q』


 突然、耳が千切れるようなサイレンと、男の声が私の頭をグチャグチャに走り回った。

『CQ..CQ..calling...CQ...CQ.CQ....こちら JC04RXO ジュリエットチャーリー04ロメオエックスレイオスカー,CQ.CQ...』


 例えるなら落雷と電子ノイズのビームで頭を沸騰させられて料理されている感覚だった。最悪の記憶が頭をがんがんと釘をうちつけている。つまり壊れそうだ。脳裏の光がシャボンの虹色と雷光とで、神経を圧倒した。


「思い出したかね。それが『コール』だ。バチでもタタリでもない。当局の御業であり寵愛ちょうあいだ。思し召しだ。君が心で望んだ世界だ。善意と意向だ。なぜ受け入れないのだ」

 私は絶え絶えに、崖の淵を踏みしめるように立っていた。

「私は言わば、夢の領域からの使者である」


 頭が割れそうだった。車からトンネルの光を見るように、断片的な記憶が脳を駆け巡っている。もう一人の私も、使者も、私は何も頼んでない。あの『もう一人の私』をどうにかしてください。この男をどっかにやってください。私は頭を押さえながら神に祈った。そうするしかなかった。

 男はさらに私に突き付けた。


「何も信仰心を試しにきたのではない。我々が望むのは対価であり、与えるのはそれに相応する奇跡だ。奇跡を受け入れる心境としては君の精神は軟弱なようだが。しかし時間は限られている。君は明日の0時までに、分裂した自分との接触を果たさなければ――この世から消えることになるだろう」


 私はしばらく混乱という鐘が脳内で反響したまま呆然としていた。私の解釈の限界を試すかのように、その非常識な論理がイナゴの群れのごとく脳内を飛び回り、次いで呆れて悲しくなった。夢の使者を名乗り、勝手に話をすすめ、追い込み、偉そうにする、あげく私をこの世から消す、という。信じがたい理不尽な悪魔である。


「あと15時間、その間に受け入れることだ。その時計が0を刻む前に君が選びたまえ。君の望み通りに二人で世界を生きるか、君の存在の消滅か」


 男はそう宣言し、懐から銀の鎖のついた時計を私に手渡した。その蓋には深緑の鉱物が埋め込まれている。その淀んだ色はブラックホールに翡翠が混ざったような深い色で、未来を暗示するように不気味に漂っている。

 男はそのまま去っていった。


「……」言葉もでない。


 私は今日、望まざるシンデレラになった。


 ――午前9時 あと15時間

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