CALL1 私との出会い

 なぜそれどころではなくなったのか、朝からの行動を振り返る。


 朝日が雲を炙る様子は、遠い日に見た夢の懐かしさのような温かみがある。その淡い紅色で今日は昨日と同じだよ、と世界が自らその証明をしているのを、私は通学路で受け取っていた。

 あらゆる道の中で、特別な意味をもつもの、それがこの道である。木々と温度によって季節の移り気づき、変わらないもの、変わるものを敏感に発見しながら、同じその空間をぐるぐると往来する。それが通学路である。そのただひとつの道を知っていることが、私の証明でもあった。朝を宣言する世界と、その答え合わせを毎朝するのが、私であった。

 

 蒸した夏を乾かせる心地いい風が私を包んだ。

 ここまでは、間違いなく世界は普通であった。


 グラウンドを横切り、早朝の静かな玄関へ向かった。

 シューズロッカーの扉を開けた瞬間、嫌な異変に立ち会ってしまったのだ。


 すでに私が登校している……?


 私の靴とまったくそっくりな靴が、ロッカーに堂々と陣取っていたのである。そこにあるべきではない私の気配が堂々とそこにあったので、驚かずにはいられなかった。世界が遠ざかっていき、澄み切っていた水面を踏み荒らされるような、そんな感覚を覚えた。


 私は不気味な面持ちで、眉がくっつくほどに眉間にしわを寄せながら、”私の靴”と、すでに下駄箱に置かれていた『私の靴』とを見比べてみた。しかし落ち着いてみればみるほど私の靴と私の靴は同じであった。細かなキズ、汚れ具合、サイズ、紐の通し方、何をどうすればここまで複製できるのか。吐き気がするほどそっくりであった。

 どうやら世界が私に気味の悪い嫌がらせをしている。身に覚えのない何か巻き込まれている気がした。このようなホラー状態の当事者になってしまいそうな場合、どうすればいいのだろうか。ただ、言いようのない混沌が私の思考を止めている。体中の神経が異常を訴えている。


 私は来賓用スリッパで、この気味の悪い戦場に足を踏み入れることにした。私の校内用シューズは何者かに奪われているから仕方がない。

 しかしすでに見てはいけないものを見た私の足取りは重い。

 私は普通に登校しにきたつもりだったが、侵入する気持ちになっていた。心拍が危険を知らせる血を全身に送っていく気がした。

 きっと大きな誤解をしているにきまっている、と言い聞かせながら自分のクラスへの廊下を歩いていた。世界が普通か異常になってしまったかの確認をしなければならないのは、他でもない私だった。誰か代わってほしい。


 結局、自分の教室に直行できなかった私は、トイレに籠城することにした。

 息の整え方を忘れたようで、苦しくなり、同時に淋しさにくじけそうだった。

 扉の音がしんとした空間に響き、覚えのある友人の姦しい会話が聞こえた。


 どうやら、その会話の中に『私』が存在している……


 私はここにいるのに?


 私は唸りながら最悪の気持ちで推理を始めた。靴の犯人はそっちにいる私なのだろう。それはいいが、私の立場を勝手に代役してもらっては行き場がないではないか。もしや私は行き場を失った魂で、実体のない幽体になってしまったのだろうか、いやこんな実感のある幽霊がいてたまるか、そっちの私は誰だ。


 彼女らはトイレの鏡の前で髪を整えながら、朝からしょうもないヤモリ談義をしている。

 友よ、爬虫類などどうでもいいだろう、もっと気持ちの悪い状況に気づいてくれ。そっちの私は私ではない。

 私の願いは届かず、予鈴と同時にトイレを後にした少女らは、私を一人取り残した。

 あっちが幽霊の可能性もあるか、とぶつぶつ推理を続けながら解決策を探った。

 静かに震える足をおさながら、脳内の狂気領域から流れ込む毒々しい笑いをこらえて、ただ息を荒くするしかなかった。私は不安を押し殺しながら、校舎の裏門から逃げ出した。


 あれは誰なの?


  私の代わりに勝手に登校していた私、という呪いに苦しみながら、長い坂を下っていた。紅葉していく桜が余計に虚しく見える。登校早々に家に引き返すことになり、オール赤点をとった人生の敗者のような足取りで、電柱に寄りかかり、信号をぼんやり眺めていた。

 赤だ。止まっていたい。ずっと赤でいい。もう歩きたくない。

 取り返しのつかない世界に絶望している私の後方から声が聞こえた。


「動物に信号の概念などない」


 もう、勘弁してほしい。


 ここで私は静かに激怒することになる。

 信号云々、お前は犬ころ云々と好き勝手言い放って、私を煽っている。

 ふざけるな。

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