Another one

恵本正雪

CALL0 止レ

 私は激怒した。


「動物に信号の概念などない。疑うことからも考える機会からも逃げ、ただ赤が光ったら止まり、青が光れば進む。光の色や質によって進退を決める操られ人形に、一体いつまで甘んじているのか。無根拠な制約に従い手を挙げ、道を横切る前に、その上げた手を、君に制約を押し付けた大人達に向けられたならば、その真意について突き詰められたならば、あるいは君は、君にとって、世界にとっての真の解答に近づけたであろう。反思考主義的、あるいは反出生主義的に虚無な人形であった君は、その状態から逃げる発想がない。君は、あの信号機の光が『イマスグシネ』という命を下したら、それに従って死ぬのかね。あるいはそのように従属的に死んだ人形の方が、まだ輝きを帯びているかもしれないが、運よく君はまだどちらでもない。下された命から背き、命の真意を求めようともしない君は、人間工場から逃げ出した君は、その外で何ができる」


――湿った秋風が私の素足に絡みついた。

 私はじっと7メートル先の信号を黙って見つめていた。

 そう、ただ私は信号を待って、立っていただけなのだ。

 なぜならそれが普通だからだ。

 

 しかし、初対面のこの男は、この私がこの世の何よりも気に入らないような口調で攻め立てている。信号を待っていただけの私に対して、その積もり積もった私への不満を無防備な私にぶつけてくる。会ってから3秒も経っていない私の存在意義を根本から否定してくる。

 前向きにとらえるならば、暇を持て余しすぎた女学生好きでおしゃべり好きで説教好きなオジサマに見つかってしまってグダグダ一人語りを聞かされている、ということだろう。きっとこの男は私のような気の抜けた女学生に会うたびに議論を持ちかけ、否、議論より支配と論破のみを目的とした人生を送っているのだろう。その標的に私がされたということだ。

 この男の風貌といえば、灰色の大きな上着を纏って、その上着で裕福な腹を隠している。この腹の中に私への不満がつまっているのか、と考えれば可愛いものだが、しかし私の腹の虫の居所も悪かった。

 朝から不満をため込んでいる私に向かって、冒頭から信号機云々とぶつぶつと語りかけてきたのだ。寛容な私でも許すことはできない。しかし関わりたくもない。その様子は、私の専属の校長先生にでもなったかのように、先程からぶつぶつぶつぶつと倫理の授業のような形而上学的な話題をぶつけてくる。

 男はしばらく間をおいて、私の答えを待っているようだったが、私はそれに答えないという懸命な選択をとった。場を独裁する人間にろくな奴はいないからだ。

 というか早く青信号代にわれよ。もしくはお巡りさん、はやく来て助けてください。

 心の貧乏ゆすりをBPM400で震わせていると、男はまた語り始めた。


「世界が君に命じれば、君はいかようにも操作できる。流れ作業に従う工場の、そのひとつの部品。なぜそうなってしまったかといえば、君が世界という権威に酔わされ怖れているからだ。自我の限界を定め、その引かれた限界の円から出てはいけないと調教された犬人間。もちろん、何も知らされていない者が、真実らしいものに気づける理由もないが。いくらか心当たりを推理してみるのが知性というものだが、君は実に堂々と、世界という常識に従うのだな。これまで普通の定義すら考えていなかった姿は、哀れでもあるが、いやこの状況では、自然ともいえなくもないが。しかし、もう状況は差し迫っている。その当事者となった君の番だ。君からは世界に『止まれ』と命じることができない。これは超越的事実だ。何度でも言おう、君は世界を止めることはできない。そう、君は世界に条件を何も提示できない。じつに不公平ではないか。世界は君に命じられるが、君は世界に従うだけである。公平ではないのに、なぜ君は世界側に無条件に伏する犬なのか。自分を救おうともせず、そして世界の構造も救おうともしない。君は君の使命を何度考えたことがある。答えられないことを知っていても、私はあえて聞こう。君が何度諦めたか、心当たりがあるだろう」


「……」


「本来なら君という動物は、信号の色という制約に縛られて生きる必要はなかったはずだ。あの信号を無視できる今この瞬間、誰も見ていない、何も通らないこの瞬間、野性、すなわち自然権を行使し、普段の抑圧という服を脱ぎ、自由意志を解き放てる、今、この瞬間なれども、なお、君の足は地面に縫い付けられている。何も高速道路を歩いて横切れと言っているのではない。ただ、アレは止まれという意味をもたせた光にすぎないという前提を知っていてもだ」


「…………」


「のみならず、その事実に君は嘆かない。君は信号に従う自我を正しいと思っている。考える事をやめ、死んだ感覚のまま、ただ待ちぼうける。平均的に生き、平均に近づこうとする。自我を封印し、その賢い台本をもとに平均点を稼ぐ。偉くも悪くもない人生こそが最善であると刷り込まれた犬人間よ。君の人生における評価点など、誰も見ていない」


「………………」


「路傍に歩みを止めた君の時間に対して、誰が『優』という判を押すのかね。もしや君は神の目を畏れている。違うかね」


「……………………うるさい」


 人形だと言われ、部品だと言われ、犬だと貶されながら絡まれている哀れな少女、それがこの物語の主人公たる私である。

 しかもまだ信号は変わらない。私が何をしたというのか……朝からウンザリである。

 私は今それどころではない。




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