後編 下ネタの真髄

 前編では、下ネタ全体を包括して表現する「エロい」という形容詞がどのような立ち位置にいるのかを分析することによって下ネタ全体がどのような価値体系を持つのか捉えることができた。


その結果、「エロい」という形容詞は【主観的評価】を多く含むものだという結論に至った。この【主観的評価】は、主に文化や個人の経験、価値観などによって構成され、そのような概念と同義であるといえる。


 では、「エロい」という概念が文化や個人の経験、価値観で構成されるとは実際にはどういうことだろうか。


例えば、日本でノーブラ乳首ポッチを見た場合、多くの男性はその1点を凝視し、ムラムラとすることは間違いない。しかし、海外ではノーブラが一般的な地域があり、その場で乳首が注目されることはほとんどない。その地域では乳首ポッチが「エロい」とされない文化なのである。


もうひとつ例をあげると、姉妹がいる男性や、兄弟がいる女性がその手のジャンルの「エロい」作品などを鑑賞した際、その設定のために背徳感を感じ「エロ」さを感じなくなってしまう場合や、その背徳感に快感を感じて「エロい」と感じる場合がある。これは個人の経験、価値観が「エロ」さを構成している場合であろう。


 だとしても、【主観的評価】を構成する文化や個人の経験、価値観は具体的な形において、どのように個人に影響を与えているのだろうか。


三大欲求のうち食欲、睡眠欲の二つは物質的、現実的な点に重きが置かれる。一方で、性欲は性質を異にし、物質的•現実的要素がなくても満たされることは可能である。性欲は男女間で感じ方に差があり、「男は目、女はムードでセックスをする」とも言われている。これは男は視覚的情報により興奮し、女は「守られてる、安心する」という満足感を満たすムードなどで興奮するということである。しかし、いずれの場合にも《イメージ》に頼る部分が多くを占める。


また、男性に限ることだが、夢精という現象が存在する。夢精とは、男性が睡眠中に射精に至る現象である(Wikipediaより引用)が、睡眠中に人は視覚を持っていないはずである。にも関わらず、夢という視覚、聴覚、触覚などの情報を含む《イメージ》によって射精をする。また、ある人は「エロい」ことを想像しただけでオーガズムに達することができるそうだ。


乳首ポッチや兄弟持ちにとっての兄弟モノが「エロ」くないのはそれに対して「エロい」と評価した《イメージ》を持ちあわせていないからである。


 このような現象がなぜ起きるか考えると【主観的評価】を支える文化や、個人の経験、価値観が各個人に直接的、具体的に影響を与える場合、上記のようにそれが個人の《イメージ》に反映されているからである。


 そう、まさに下ネタの真髄は《イメージ》にある。バナナや棒が男性器に見え、アワビや穴が女性器に見えるのは《イメージ》によってすべての事物を下ネタに関する何かに写し取ることができるからである。男性器の《イメージ》を「細長いもの」と定義した場合、バスやビルですら男性器に見たてることも充分可能だし、阿蘇山を女性器に見たてることも不可能ではない。


こうした場合、下ネタは限りない事物を比喩的に表すことができる。下ネタは《イメージ》により構成されているし、《イメージ》が性欲を支配するために《イメージ》そのものが下ネタである。これが下ネタの汎用性の高さを実現しているのである。


以上!読んでいただきありがとうございました!これにて下ネタの汎用性についての考察はしまいであります。ちんちん侍!

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下ネタの汎用性についての考察 コアラ師匠 @koara_sisho

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