第3話

 いつのまにやらなんの益体もないまま大学二年生になった私は性懲りもなく書店で新刊を買ってはマスターの喫茶店にコーヒー一杯で長く居座る生態の生物になっていた。


「今日も砂糖二つにミルク入りですね」


 急にマスターに声をかけられてびっくりした。


 といってもよく考えてみるとこれだけ足繁く通っているのに一年近く会話もない方が奇特なのかも知れない。


「…えっ、だ………ダメ……でした…か……??」


 私は喫茶店のマナーなんて詳しくないし、コーヒーについても毎回ブレンドを頼んでるだけのずぶの素人だった。(しかも一番安いからというだけの理由で)


 この店が好きなだけでコーヒーのことなんて全然知らない自分が急に恥ずかしい存在に思えてきた。でもマスターは黙ってしまった私に逆に微笑みを深くして言ってくれた。


「いえ、好きなように飲んでいいんですよ。今日もゆっくりしていってくださいね」


 それだけ言うとマスターはカウンターへ戻っていった。


 私はしばらくわたわたとしながら、まるで最後の会話のチャンスを逃してしまったような気がして内心がっくり来ていた。


 私は目の前の砂糖二つ入れたミルク入りコーヒーには中々手をつける気にはなれなくなってしまった。


 でも、そんな私の気持ちとは裏腹にマスターは来店のたびにちょくちょく話しかけてくれるようになった。


 人見知りなはずの私だけれどそれが苦痛だと感じることはほとんどなかった。


 私はよく本を読むふりをして、カウンターでカップを拭くマスターを好きなように眺めていた。


 マスターの整えられた白髪。老眼鏡。四季折々の品のいいベストやシャツ。広い肩幅。カップを拭く大きな手。


 それらを眺めるときはまるでこの店のコーヒーやジャズみたいに、私にとっては大人で密やかな楽しみの時間だった。


・ ・ ・


 『いそしぎ』で働かせてもらうようになったことは臆病な私にしては思えば遠くへ来たものだというくらい誉れ高い出来事だった。


 いつの間にか私も常連の人からも存在を認知され、たまに話しかけてもらえるくらいになっていた。


 三浦さんというおじさんと話していた時のことだった。特に考えもなく自分にあった仕事やバイトを探しているという話をしていた時、三浦さんはいつもの開けっ広げな様子でなんのてらいもなくマスターに言った。


「それならここで働かせてもらえば?ねえ、マスター?」


「えっ!」


 『いそしぎ』で…働かせてもらえる?この私が?


 私は突然のことに驚きながらもマスターの方をぐりんと向いた。


 ここにいますよ!こんなにも貴方のお役に立ちたい人間が!私が!


 そう言って挙手したいぐらいの気持ちだった。


 でもマスターはいつもの品の良い笑顔を少し俯かせ何も言わなかった。


 ああ、きっとマスターは私に気を遣ってくれてるのかな、と私はすとんと思った。


 …でも本当は見るからに要領の悪い私を雇うのは気が引けるのかも。


 それに働くということはお客さんと店長からバイトと店長という関係に変わることなのだ。私のひどい働きぶりを見せていたく失望させてしまったら今までの居心地の良い関係も崩れてしまうかもしれない。


 そんな色々を考えると見る見る気持ちはしぼんでいった。


 それでもなお三浦さんは食い下がってくれた。


「そうは言ってもマスター、今奥さんの介護で大変なんだろ?若い子雇って教えておけば色々と負担も減るだろう。千春ちゃんも家近いんだし、先ずは都合のいい時間だけでも働いてもらってさ、ねえ?」


 おじさん特有の押しの強さにこの時ほど感謝したことはない。


 ありがとう三浦さん!


 私は再び勇気を取り戻して期待のこもった眼差しでマスターを見た。


「それは……ご本人のご都合もあられますから私からはなんとも…」


「私は!全然大丈夫です!」


 私は食い気味に全力で返答した。


 ほら、千春ちゃんもこう言ってるんだからという三浦さんの再度の押しもあって私は無事『いそしぎ』で働けることになった。


 私はマスターに迷惑をかけたくない気持ちと、今度こそはという想いでオーダー表を持ち帰り毎日見るところに貼っては何度も読み込んだ。レジの打ち方、コーヒーの淹れ方、教えてもらうことは丹念にノートにして仕事が終わるごとに店に居残って更新し続けた。


 バイトを始めるようになってもマスターは相変わらず優しかったし常連さんもみんな温かく見守ってくれた。


 落ち着いた店内ではオーダーもはっきり聞きとれるし、注文の抜け漏れもほとんどしなかった。働いてて前みたいなぐじゃぐじゃな気持ちになることもなくなった。ビヤホールであれだけミスを多発していた過去がまるで嘘みたいだった。とても順調だ。


 でもそんなこんなで私も大学三年生になった。5月の梅雨の季節。周囲も就活やら説明会やらで慌ただしくなり始める。そんな中私は一応ちゃんとバイトできるようになったという成長はあったものの、将来に向けては何一つ具体化できず何かをしなければならないという焦りはあってものんべんだらりと家と大学と『いそしぎ』を往復するという相変わらずの日々を送っていた。


 その日ものそのそと遅く起き出して顔を洗い、コーヒーを淹れると窓の外をぼーっと眺めていた。しとしとと雨が降り出しアスファルトを鈍色に染めていく。


 なにやら見覚えのある人影が軒先に佇んでいた。来ている服は濡れており途方に暮れている様子だった。


 私は急いで部屋着の上からパーカーを羽織って傘を二本持って駆けつけた。


「マスター!?こんなところでどうしたんですか!?」


「千春さん?ああ、千春さんはこの近くなんでしたね。買い出しに来たのですが急に降られてしまって参りました」


 見るとマスターのシャツはびしょ濡れで乾いている箇所が見当たらないほどだった。初夏とは言えまだまだ肌寒い日が続く季節。初老のマスターを濡れねずみのまま放置することはできない。


 私はのほほんと笑うマスターの濡れた袖を半ば強引に掴んだ。


「私の家!すぐそこですから!」


 私は傘を差したまま自分のアパートに向かった。


 チャンスだとか、そうゆう下心がなかったとは言えないかもしれない。


 だって心がこんなにもうれしそうに弾んでいるんだから。


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