第2話

 「やる気あんのか!ないんだったらとっとと辞めちまえ!」


 ああじゃあ辞めてやりますよ!


 なんてカッコよく啖呵が切れる性格ではない私はトイレでひっそりと赤く腫らした目で先輩づてに退職の意思を伝えるとこそこそと後ろめたい気持ちのままバイト先のビヤホールを後にした。


 あのくそマネージャーはうんこだけども私に言えた義理などないことは分かってる。


 だって注文は間違って取る。注文を取ったことを忘れる。器はしょっちゅう割る。挙句ピークタイムにジャッキに入ったビールをスーツ着たおじさんにぶっかける。在籍期間はたったの三週間足らずだというのに私がやらかしたことといえば惨憺たる有り様だった。


 あのオーダーをとる機械の使い方は最後までわからなかった。というか持たせてすらもらえなかった。ちょっとだけ憧れてたあの機械…名前も知らないけど…。


 私は駅のエスカレーターに乗り、赤く腫れぼったい目で初夏なのに曇った空を虚ろに見上げた。


 バイトを始めたらこの内向的な性格もちょっとはましになるのかもなんて淡い期待は脆くも崩れ去ったのだ。私にとってキラキラした“向こう側”の世界はまだまだ余りにも遠いままだ。


 四月に入学した大学の新歓の飲み会で年上の先輩方から繰り出されるボールのように弾む会話とそれに喰い付いていけるノリの良い女の子たちを私は遠く雲上の神々の遊びを見るような気持ちで眺めていた。


 “向こう側”の世界はとてもキラキラとしていて楽しそうなのに、眼前で繰り広げられる新しい世界の前に立った私は未だその一歩が踏み出せず、そんな臆病が沁みついた心はひえびえと固まったままだった。


 何者にもなれないこんな私にどこにも居場所がないことなんて分かってたはずなのに改めて眼前に突きつけられるとやっぱりへこむ。


 マスターの喫茶店は、私の下宿先の駅前にこじんまりと存在していた。


 そこは何もかも中途半端で宙ぶらりんな私が偶然にして唯一自分で見つけた居場所だった。


 『いそしぎ』という木目の看板を掲げた喫茶店の扉をおっかなびっくり開けた時のことを今でも覚えてる。まるでそこだけ色鮮やかな水彩画の世界を切り取ったみたいだった。


 コーヒーを煎る芳ばしい香り。不思議と退屈に聞こえないジャズの音色。


 マスターの品の良い微笑み。居心地の良い距離感。


 常連のおじさんやおばさんがいるお店の中でも私は不思議とここに居てもいいような安心感を感じた。


 他にも雑誌で紹介されているような喫茶店にも足を運んでみたこともあるけれど、どれもマスターのお店とはちょっと違う。


 素敵なカップとソーサーのコレクション。古めかしいのにいつも清潔な店内。マスターの選曲するジャズのレコードたち。


 マスターの喫茶店には私にとって余りにも沢山の「特別」が詰まっている。


 それにしてもなんでこんなに特別なんだろうとお店の中を眺めていると後ろから落ち着きのある声がかけられた。


「お待ちどうさま」


 振り返るとコーヒーの芳ばしい香りに包まれ、微笑むマスターとふと目が合った。


 その時私はその「特別」の理由を、一目でひどく納得させられてしまったのだった。


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