第21話 冷たく優しい手

 淑女の部屋に居座るには非常識な時間帯になったことに気が付き、ヴィダルは窓を閉めてからその部屋を後にした。

 少しだけ欠けた月の回りに、スープに落とした卵白のような雲がまとわりついている。

 ついにカイは戻ってこなかった。彼の家に明かりがついていない所を見ると、まだ帰っていないのだろう。

 ヴィダルは迷うことなく森へ向かった。




  ・





「帰らないか? 私はベッドで寝たい」


 ヴィダルは、平たい岩に腰を掛けて俯いているカイの隣に座った。

 掛けられた声に上げる顔は憔悴しきっている。ヴィダルはこれに見覚えがあった。まるで食べられる前の希望を失ったウサギだ。


「俺のせいで、契約者にしちまったせいで……ルシアはあんな所に閉じ込められたんだ」


 震える声のカイにヴィダルは答える。


「一体彼女は誰に閉じ込められたんだ」

「……母親の側近……」


「なら君のせいではない」

「……原因を作ったのは俺だ」

「終わったことを嘆いても仕方がなかろう」


 そんなことは分かっていた。

 終わったことなら仕方がない、明日から頑張るぞ。と思えればどんなに楽か。それができないからここでうじうじと悔やんでいるのだ。


「そのような従者ならば彼女が契約者にならずとも遅かれ早かれ裏切りを起こしていただろう。彼女は王家の人間か? ……そうか、国の中心には城があったな。王位継承の揉め事にでも巻き込まれたんじゃないのか。知らんけど。気の毒に」


 カイはヴィダルの話を聞きながら自分のボロボロの靴を見つめた。次にルシアの事を思い浮かべた。きっと彼女は口にしないだけで、もっと様々な苦しい思いを抱え込んでいる。今のヴィダルの言葉を聞いただけでも、数々の辛い事実が見え隠れしていることに、自分の鈍い頭でも気付いた。


「どうやって償えば良いんだろう。彼女に何をしてやれるだろう……」


 カイの顔を見ていたヴィダルは自分まで暗い顔になっているのに気が付いた。

 人間の表情というのはなぜこうも感情が分かりやすくできているのだろうと不思議に思い、額に力を入れると唇を結ぶ。


「……ルシアは、いま幸せだと言っていた」


「え……」


「君のおかげだそうだ」


「笑えない冗談言うな。……帰ろう」


 ようやく立ち上がったカイを見てヴィダルは少し安心した。まだ話があったのだが、今日はもうやめておこうと決める。



「あの粗悪な小屋は君が作ったんだって? 固い窓を開けるのに苦労したよ」


 夜道を歩きながらヴィダルは言う。


「粗悪で悪かったな」

「だがルシアは喜んでいた。カイが一生懸命に作ってくれたんだと」


 カイの返事はない。


「君が思っているほど彼女は弱くない。でも、彼女が君を惹き付けるのがよくわかった。私が人間でなくてよかったな? カイ」

「は? どういう意味……」


「私が恋敵なら勝ち目がないだろ」


 ヴィダルの不敵な笑みを見て、カイは目を丸くする。


「……チビのくせに生意気言ってんな」


 一体どこでそんな言葉を覚えてくるのだろうとカイは思った。

 こうして人間の姿のヴィダルと話していると、自分は人間で、彼はドラゴンだと言うことを時々忘れそうになる。いや、むしろヴィダルが人間じゃないということを、時々しか思い出さない。

 こんな風に、ドラゴンと人間が仲良くやっていくというのは難しいことなんだろうか。


「ヴィダル、お前は俺を食べたいと思わないのか?」


 薄暗い森の中、ヴィダルが持つランプと彼の瞳だけが僅かに光を放っている。

 前を向いていたヴィダルが少しだけ顔をこちらに向けて答えた。


「君は可愛がっていたペットが実は最高に美味いと知ったら、食べるのか? ……それと同じことだ」

「俺はペットか?」


 ヴィダルは涼しい顔で笑いをこらえている。


「……けど、無神経なことを聞いた、ごめん」

「いいさ。犬に噛まれたと思って忘れるから」

「……本当に賢いドラゴンだな」


 カイには少しだけ分かっていた。

 ヴィダルが自分を元気付けるために、わざと憎まれ口を叩いているのが。

 むしろそうでなければ腹が立つばかりだ。



 ようやく自分の家が見えてくると、カイは今日一日ルシアの顔を見ていないことに気がつく。


「さき、帰ってて」

 ヴィダルにそれだけ告げるとカイの足はルシアの小屋へ向かい始めた。毎日顔を会わせているにもかかわらず、今このときでさえルシアの顔を見たくてたまらなかった。


 軽くノックしてから扉を開ける。中は暗く静かだった。もう寝ているのかもしれない。

 カイはランプを手で覆って明かりを少し落とし、檻の方へと近づいた。やわらかなオレンジ色のわずかな光が、ルシアの顔へ落ちる。


「……」


 カイはしばらくの間、その寝顔を見入っていた。ほとんど白色に近い肌はうっすらと青い血管が透けている部分があり、壊れ物のように脆く感じた。こんな所に閉じ込められているというのに、肌は健やかで傷ひとつない。あまりにも美しく、作り物のようだとカイは思った。カイが渡した毛布を掛けて、静かに寝ている。寝息は小さすぎてこの距離からでは感じられない。


 こんなに美しい人が誰の目に触れることもなく、暗い地下に閉じ込められていたんだ。

 それに、大切な人まで殺されて。

 カイはその辛さを嫌というほど分かっていた。あんなに辛いことはない。それでいて自分はどうすることもできない。


 じわじわと体の水分が瞼に集まってくるのを感じた。次にまばたきをすれば確実に溢れる。




 ――俺のせいで。




 ヴィダルには違うと言われたが、自分ではどうしてもその思いを捨てることができなかった。

 下を向いたまま、まばたきをした。

 大きな水滴がいくつか靴の上に落ちる。


「ごめん……」


 カイは何度も呟く。溢れ出るのは涙とその言葉ばかり。いま時間を巻き戻せるなら、きっと何でもすると誓うだろう。


 一度溢れた涙が止まる気配もなく、このままでは声を漏らしてしまいそうになるほどの勢いをつけ始めた。カイが小屋を出ようと檻に背を向けたとき、その足はルシアの声によって歩みを止められる。


「カイ」


 カイはぎくりとして一瞬動きを止めた。


「体はもういいの?」


 労るような声が聞こえる。

 カイは急いで涙を拭った。


「起こしてごめん。じゃあ、おやすみ」


 作り笑顔を貼りつけて、早急に別れの台詞を言い放った。早くここを去らなくては。いまルシアを見ると罪悪感と嗚咽が込み上げてくる。とてもじゃないが目を合わせて会話をする自信がない。

 ルシアはそれを見逃さなかった。


「どうしたの。何か悲しいことがあったのですか?」


 立ち上がったルシアは檻のすぐ傍により、カイを不安げに見つめている。


「この世の終わりみたいな顔をしてるわ」


 その声と眼差しがあまりにも穏やかに、カイの心のすき間を流れていった。それも、すれ違いざまに優しく心臓を撫でて。

 カイは思わずルシアの視線を受け止める。案の定涙は溢れてしまった。


「ごめん……」


 ルシアは驚いてカイの涙を見つめた。


「なぜ泣いてるの」


 苦しかった。

 ただ辛かった。

 罪悪感を上回るのは、ルシアが悲しんだという事実に対する心苦しさ。それを思うと押し潰されそうなほどの悲しみがカイを襲った。


「ルシアがそこに閉じ込められた原因を作ったのは、俺だ」


 彼女の顔を見られない。


「どうして……あなたのせいじゃないわ、本当よ」


「違う、俺は」


 涙でつかえて言葉がうまく出てこない。

 拭っても拭っても止まらない涙を忌々しく思う。


「万が一そうだったとしても、そんなことはどうでもいいことだわ。私にとっては、あなたが今心を痛めてこんなにも苦しんでいることの方が問題だもの」


 カイの目の前を青白い光が閃(ひらめ)く。自分の頬を包むのはルシアの白い手だった。



「悲しまないでカイ。あなたの笑った顔が見たい」


 カイは驚いて、その手を咄嗟に掴んだ。

 このとき初めてルシアの手に触れた。

 冷たくて、少し震えている。

 触れあう瞬間にまた閃光が走った。カイは彼女の細い手を強く握りしめると、急いで檻の中へ押し戻した。


「大丈夫か!? 痛かったろ、ごめん」


「ちっとも」



 いたずらっぽく笑うルシアの顔は少し赤く見えた。ランプの色でそう見えただけかもしれない。


 カイの悲しい気分は徐々に静まりを見せていた。

 まだ手にはルシアの冷たい温度が残っている。カイはその感覚を忘れないようにもう一度拳を握ってみる。

 爪が手のひらに食い込んだが、痛みを感じない。


 カイはもしこの檻がなければ、ルシアを抱き締めていたかもしれないと思った。

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