第16話 カイ(上)

【106年】


 思い返せば父から教わったことはたくさんあった。罠の仕掛け方、植物の育て方、木の斬り倒し方。

 危険な動物に出会ったときの立ち回り、武器の使い方について、実践はまだだがやれる自信があった、両親がドラゴンに殺されるまでは。

 身体能力は高い方だ。反射神経もそれなりに。だがあのドラゴンの前では、そんなものは路傍に転がる石ころ同然に無意味だった。

 心が落ち着きを取り戻しても、クロスボウだけは触ることができなくなった。あの時握っていたこの武器を見ると、全身が粟立ち、言い様のない恐怖と罪悪感が込み上げてくる。


 あの日、気が付くとカイはベッドの上にいた。あまりの現実に精神が追い付かず気を失ってしまったのだ。介抱してくれた兵士が言うには、自分達が狼煙(のろし)を見つけて向かったときには、もうドラゴンは去った後だったと言うことだった。

 残酷な爪痕と倒れたカイだけをそこに残して。


「本来なら、君も殺されているはずだったのに、どうしてか君だけが見逃されたんだな。不幸中の幸いだ。もしかするとご両親がドラゴンに致命傷を与えたのかもしれない」


 幸い? ふざけんな。こんなの地獄だ。

 自分だけ生き残ったって……。

 あのまま殺されていた方がずっと良かった。


 カイはこの話を聞いてすぐにそう思った。

 だが両親が命を懸けて自分を守ってくれた事を思うと、その考えを持ち続けることは裏切りに思え、それからは吐くほど泣いた。






 苔むした森をゆっくりと歩く。時は早朝、まだ湿り気のある風と、緑の青臭さが混ざったこの香り、澄んだみずみずしい空気が好きだった。

 カイの両親が死んでから数ヶ月が過ぎていた。悲しみはまだ消えないが、徐々に落ち着きは取り戻している。何と言っても周りの人達の暖かさがカイの心に少しずつ安定をもたらした。中でも一際ミーケルとマチルダの存在は大きい。

 両親が管理していたこの森は、城の領地だった。この職に危険は付き物で、二人が亡くなった後も国からカイにはそれなりの支援が約束された。カイは随分落ち込んでいたが、両親の生きた証を残すためこの森を守ることが自分の使命だと考えるようになった。それがいては自分を励ましてくれた人達への恩返しにもなる。それに両親と同じように生きてみれば、また彼らを感じられるかもしれない。今は二人の温もりを忘れたくないと思う程に、カイはまだ若かった。



 聞き慣れない音に、カイは歩みを止める。何か動物の声だった。声と言っても、掠れていて音がわからない。ただ悲痛な叫びだということだけが感じられる。そんなに大きな動物ではなさそうだ。

 カイは声のする方に進んでいく。

 声無き叫び。太い幹を持つ木の下にあった――いつか父親が仕掛けたものだと思う――動物用の罠、それに何かが掛かっている。黒くて小さいもの。一瞬カイはそれがコウモリに見えた。翼らしきものがある。

 つらそうに叫ぶその顔を見てぎょっとする。大きく開いた口から見えたのは、小さいながらも生え揃った鋭い牙。目眩がした。


 こいつ、ドラゴンの子供じゃないか。


 カイの父親がもし生きてここに居たなら、迷わずこれを殺すだろう。自分達の脅威になり得るものを力のない内に始末しておくのは当然のこと。


 だがカイにはそれができなかった。

 どうしてか涙が溢れる。

 自分の不甲斐なさに泣いているのか? この小さな生き物を哀れに思ったのか? それともまた別の理由か? 

 自分でもわからなかった。


 罠を外し小さなドラゴンを腕の中へ納めてカイは走った。ドラゴンは抵抗もせず体を縮こまらせていたが、時々爪がカイの服に引っ掛かり、それが気に入らないのか左足だけを激しく揺らした。家に帰って観察すると、右足は深く傷付いていた。怪我をしたときに母親が手当てをしてくれたように、同じ事をその小さなドラゴンにしてやった。人間の薬が効くのか知らないけど。

 思いの外ドラゴンは警戒をしなかった。あまりにも小さいので常にテーブルの上に置いておいた。そうしないと蹴ってしまいそうだったからだ。

 テーブルにつくと、くりくりとしたつぶらな瞳で首をかしげながらカイの顔を見つめてくる。たまに小刻みに体を震わせる仕草がとても愛らしい。

 カイが食事をしようとテーブルに皿を置いたとき、ドラゴンが脇目も振らずにスープの中に頭を突っ込んだのを見て思わず笑ってしまった。


「ごめんごめん、腹減ってたんだな」


 皿から顔を上げたドラゴンは口から尖った舌を出して素早く自分の顔を舐め回す。

 カイは薫製くんせいの肉をなるべく小さく切ってからスープに入れてやった。

 翼を大きく広げて無心でその肉を食べるドラゴンを見ていると、カイの心に一点の黒いシミが広がっていく。それは不安であり心苦しさだった。


 自分は今、とんでもないことをしているんじゃないのか。


 だがこの小さなドラゴンを見捨てたとしても恐らく同じ気持ちになっていただろう、それだけはわかった。


「お前、チビの癖によく食べるな」


 自分の前にあった肉をすべて平らげたのに、カイの皿に照準を定めているドラゴンを見て思わずそう呟く。スプーンに入ったニンジンを|ドラゴン(チビ)の目の前に差し出すと、間髪入れずに食い付かれた。チビは目をパチクリさせながら、その塊を飲み込んだ。




 テーブルの上に適当な箱を置いて、その中に温かな布を入れて小さなベッドを作ったのに、真夜中にチビはそこが気に入らないと鳴いてカイを呼んだ。


「どうしたんだよ」


 眠い目を擦りながらベッドから降りたカイは、チビの様子を見に行く。


「寒いのか?」


 カイがチビを抱くと、安心したように瞳をゆっくりと閉じる。しばらくして起こさないように箱に戻そうとすると、それを察知してチビは怒るのだった。


「どうしろってんだ?」


 カイはチビを抱いたまま自分のベッドへと戻った。チビは目を閉じて眠る準備を始めているが、一方でカイが自分を離せば、すぐに鳴きわめく準備も整えている。

 カイは渋々チビを自分の胸の上に置いて寝た。

 寝返りだけは打たないように気を付けたが、チビの方は、カイの胸に爪で引っ掻き傷を付けないように気を付けてはくれなかった。

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