第15話 ヴィダルの秘密(下)
カイの心臓は普段より随分動きを早めていた。最近は心臓によく負担をかけている。
それにしても不思議な光景だ。カイの左右に見える大きな翼は、時折ゆっくりと上下に動いて風を切る。カイは落ちないようにしっかりとその背にしがみついた。
ゆっくりとドラゴンは下降を始めた。顔に当たる風が止み始めると、カイは大きく深呼吸をした。自分の手が震えているのがわかった。
このドラゴンは一体どこから現れた? 俺をどうしようというんだろう。俺はこれからこいつに食べられちまうのか?
カイは先に一度は死を覚悟したはずだったが、これから起こるかもしれない恐怖までは予想していなかった。
もう一度覚悟を決める暇もなく、ズシンと鈍い振動が響く。
着陸したのだ。
カイは、ここから飛び降りてすぐに逃げようかとも思った。それなのにそうしなかったのは、このドラゴンがカイが降りるまで、身動きひとつ取らず静かに頭を地面につけていたからだ。それに、崖から落ちた自分を背にのせて、まるで助けてくれたようにも感じる。
カイを食べる気なら、乱暴に振り落として即座に息の根を止めていただろう。
カイはゆっくりとその背から降りるとドラゴンの頭の方へと回り込む。とは言ってもやはり恐ろしいので距離は保ったまま。
カイが近くに来たことを感じ取ったドラゴンは、ゆっくりと頭をもたげた。
カイは思わず後ずさった。こうして距離をとっていても感じられるほどの高い体温。鋭い牙が閉じられた口からいくつも覗いている。その牙の隙間から時折漏れる息吹と共に、小さな火の粉がカイの鼻先を掠めた。
ふと脳裏によぎるのは、百年前に契約を交わしたドラゴンだ。本当によく似ている。
だけどあれはもっと、大きかった。
頭を上げたドラゴンの視線がカイの瞳をとらえる。お互いの視線が交差したとき、またヴィダルの声が頭に響いた。
――怪我はないか?
カイは辺りを見渡した。だが彼は見えない。
「ヴィダル!? どこにいるんだ」
――君の目の前にいる。わからないか? 私が……。
カイは目の前を見る。
そこには微動だにしないドラゴンがいる。
自分の目をじっと見ている、紅い瞳のドラゴンが。
「……お前が? ヴィダル……?」
ドラゴンはゆっくりと頷く。
「本当に……?」
どこか浮世離れした人間だとは思っていたが、これでは浮世どころか人間を離れているではないか。
今思えば、スプーンやツルハシを彼が手にしたときに起こった反応は、アレルギーなんかではなく、ズーライトを嫌うドラゴンそのものの反応だったのだ。
――結果的に騙したことになってしまった。
私は怖かった、君に拒まれるのが。それに君が経験した苦しい過去を思うとなかなか正体を話せなかった。すまない……。
カイはまだ信じられない気持ちで、まばたきも出来ずにヴィダルの燃えるような瞳を見ていた。
――これで君に救われたのは二度目だ。思えば、はじめからわかっていたのだ。君が、自分の命をなげうってまで、他人をかばってしまうような善人だと言うことを。
「……二度目?」
――思い出してくれないか? 百年前に君が助けた小さな命を。
カイはそのときの事をよく覚えていた。
忘れたことはなかった。
ただそれが、今目の前にいるドラゴンとあまりにもかけ離れていたので結び付かなかったのだ。
「お前、あのときのチビか?」
黒く刺々しい表皮の真ん中に、ネズミ色の大きな傷が痛々しい跡として刻まれていた。
もう一度ヴィダルの瞳を見る。カイにはやっとわかった。この恐ろしいドラゴンが、百年前に自分が助けた小さな子供のドラゴンだったということが。そして、自分と契約したあの大きなドラゴンの息子だったということが。
思わず傍に駆け寄り、その体に手を伸ばした。ヴィダルは頭をカイに寄せる。カイは、とても大切なものを扱うように、ヴィダルの鼻先を撫でた。とても温かくて、そして湿っていた。
「……大きくなったな、見違えた」
カイはヴィダルの顔を抱き締めた。ヴィダルは目を細めて、息を止めた。そうしないと火の粉が口から出てしまうからだ。
「まさかお前が来てくれるなんて……」
カイはヴィダルの頭を離すと、嬉しそうにその顔を見つめた。
息が止められなくなったヴィダルは、急いで首を伸ばして空に向かって呼吸をした。勢い余って口から火の粉どころか炎を吐き出してしまう。
「熱いよお前!」
カイは声をあげて笑った。
――この体では、君の傍にいるのに勝手が悪いな。
ヴィダルがそう言った次の瞬間には、その大きな身体はたちまち今朝までの、人間のヴィダルに姿を変えていた。
カイはそれを不思議な気持ちで眺めていた。
「早速だがカイ、話をしようと思う」
「え? まだ続きがあるの?」
この少年がさっきまであのドラゴンだったことがまだ信じがたい。カイはヴィダルの顔をまじまじと見つめながらそう思った。
「君と契約を行った、私の母が死んだ。君の気持ちによっては、この先の事を私と考えなければいけない。君にとっては少し辛い話になるが、私は必ず話さねばならない。聞いてくれるか?」
いくつかの疑問を抱いたカイだったが、ひとまず話を聞こうと心を決め、深く頷いた。
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