第11話 温もり

 最初はずっと泣いていたんです。もうこれ以上は涙がなくなってしまう、という位に。それはもう毎日毎日泣いていました。私が一番気がかりだったのは、侍女ビルギットの事でした。アールクヴィストが言ったように、私のために本当に殺されてしまったのか。辛くて仕方ありませんでした。それに父のこと。病気の父はどうしているか。それだけが気掛かりで……。でもある日突然涙が出なくなってしまったのです。何も考えられなくなって、心が乾いたみたいでした。それからずっと、何も考えずに、ただ暗闇の中で座っていました。もう完全に人の心を失ってしまったのです。アールクヴィストが言うように、私は悪魔になってしまったんだとそう思っていました。

 それから何年もたって、今日こうしてあなたが私を見つけてくれました。外からの光がいっぺんに降り注いできました。あなたのあの驚いた顔を見た途端、自分でも気がつかないうちに百年止まっていた涙が溢れ出していました。きっと声を出したのも本当に久しぶりで……。そのとき、まだ涙が残っていたんだ、自分にもまだ人間らしい心が残っていたんだ、と思えました。そう思ってから、ますます泣いてしまいました。

 あなたが私を見つけてくださって本当に嬉しく思います。ありがとう、カイ。



 眠りに落ちる間際に聞いたルシアの話を、カイは夢にまで見た。まっ暗闇の中でルシアの声だけが光る。

 朝起きてもその話が頭から離れなかった。



「ここにさ、壁と屋根と扉を……つまり家を作ろうって思うんだ、どうかな?」


 朝食を一緒にとりながらカイが話す。今日は目玉焼きと木苺、酸っぱいリンゴを添えて。どうやらルシアはこの酸っぱいのがお気に召したようだ。


「でも俺家なんか作ったことないから、そんなに上手くできるかわかんないけどさ」


 ルシアは目を丸くして口の中のまだ大きな何かの塊を飲み込んだ。


「だってこのままじゃ風が入ってきて寒いだろ? それにこないだみたいに雨が降ったら濡れちゃうし、虫とかも入ってくるかもしれないよ。嫌だろ?」


 カイは檻の外の石畳を見渡しながら言った。ここも少し段差を作って、水捌けをよくした方がいいかもしれない。


「でも、そんなの……悪いわ。私はここから出られないのに」


 ルシアは不思議に思っていた。

 どうしてこの人は、自分のためにこんなにいろいろと優しくしてくれるのだろうと。


 自分がまだ城に居た頃、何度か貴族の男性が訪ねてきたことがある。彼らはルシアとの婚姻を目的に、彼女のご機嫌をとっていた。

 ただ彼らの目に彼女自身は映っていなかった。彼らが見ていたのは彼女のその向こうにある、地位と名誉だ。

 なのにカイと来たら、もう何も持っていない、あまつさえここから出ることすら叶わない自分にどうしてこんなに構うのか。完全に何も見返りがないというのに。


「気にすんなって。俺、何か作るのが好きなんだ」

 そう言い残してカイは家に道具を取りに走った。




 次の日も、その次の日も次の日もカイは家を作りにルシアの元へ通った。もちろん食事の用意も一日三度きちんと怠らない。

 ルシアには段々と申し訳なさが込み上げてくる。何か手伝えることがないかと提案してみたものの、野菜の皮剥きは人生で初めての事で手は血だらけになるし、カイはそれを見て顔が青ざめ、すぐにナイフを取り上げた。無駄に人生を浪費している割には野菜の皮すら満足に剥けない自分を心底恥ずかしく思った。檻の中に住み、やることと言えば食べるだけ。これでは家畜と同じだ。いや、乳も肉も卵すら提供できないのだからそれ以下だった。


 頬に伝う汗をぬぐいながら昼食を持ってきたカイを見ると、とうとう居たたまれなくなり、ルシアは告げる。

「何もできなくてごめんなさい。私は何も食べなくても死なないし、もう大丈夫だから、これからは何もしてくださらなくて結構です」

「え?」

 カイはキョトンとしている。


「もうこのスープ飽きちゃった?」

「いえ……飽きたとかそういう事ではなく。あなたの負担になりたくないのです。私はただ何もせずいつもあなたが用意してくれる食事を食べているだけ……。申し訳無くて……」


 カイはルシアがそんな風に考えていたとは思いもしていなかった。少し元気がないことを感じ取ってはいたが、自分の気のせいだと決めつけていたのだ。

 カイは目を伏せているルシアを見つめた。ここ数日でルシアの顔色はずいぶんよくなった。驚くほど痩せこけていた顔も、少しずつ本来の美しさを取り戻しているようだった。元より初めに会った時も、整った顔立ちだとは感じていたが。


「カイ……?」

 反応のない相手を心配に思いルシアは顔を上げた。


 桜色の小さな唇がすぐカイの目に入った。ふわふわと柔らかそうに、下唇の真ん中あたりが膨らんでいる。なぜか見てはならないものを見てしまったような気持ちになって、カイはすぐに視線をそらした。


「えっと……なんの話だっけ」

「どうしてあなたはそんなに良くしてくれるんですか?」


 ルシアは少し困ったような顔でカイを見上げていた。大きな瞳に、長い睫毛の影が覆い被さっている。


 どうしてこんなに綺麗なんだろう?


 いつまででも眺めていられそうなほど、カイにはルシアが美しく見えた。それでも彼女の瞳は彼の答えを早く知りたいと待っている。


「なんでって……? 俺、全然負担だなんて思ってないよ。食事だって二人で食べた方がおいしいし。付き合ってよ、俺のためにさ。最高に楽しいんだ、一人じゃないってのが」


 カイは照れ臭そうに笑った。

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