第8話 ルシア(中)

 昨夜はあまり眠れなかった。うとうとと眠りにつこうとすればもうすでに外はほの明るくなっている。

 朝もまだ早いと言うのに部屋の外がバタバタと騒がしい。当然、こうなることは昨日の晩からわかっていたことだ。


 そのやかましい足音が自分の部屋の前で止まるのがわかった。

 ……来たか。


 ヘルマンはドアが開かれるのを待った。

 間髪いれずノックもなしに半狂乱の女が飛び込んで来る、その女は顔面蒼白の侍女ビルギット。ヘルマンは言葉を発する間もなく、胸ぐらを掴まれていた。

「お願い姫様を助けて! 姫様が……! 姫様が!」

 その手は冷えきった上に震えている。

「落ち着け、それにこの手を離せ」

 よくもまあ他人にここまで執着できるものだ。ヘルマンは心底煩わしそうにビルギットの手を払い除けた。

「お願いよ、早く来て!」

 無駄だ。もう遅い。

 そう話したらこの女はどんな顔をするのだろう?



「お亡くなりになられている。女王陛下をお呼びしろ」

 ルシアのベッドの横でヘルマンにそう告げられたビルギットは、唇を青くしてガタガタ震えている。やがて目からは大粒の涙をこぼし始めた。

「なぜです姫様! 昨日まであんなにお元気だったのにっ……!」

 ビルギットは膝から崩れ落ちた。

 ヘルマンには何の感情も沸いてこない。

 まだ眠っているのかと思うほど安らかな表情で死んでいるルシアの顔をただ冷ややかに眺めていた。部屋にはビルギットの泣き声だけが響き、ヘルマンはそれを耳障りに感じている。

 早く陛下を──……そう言いかけたとき、自身の目と耳を疑う。


「何事なのビルギット……、なぜそんなに泣いているの? それにヘルマンまで」


 眠そうに目を擦りながらルシアはその身を起こしたのである。


 心臓を乱暴に掴まれたかのように、胸の奥がぎゅうっとなった。

 ビルギットさえ息をのみ声を殺す。

 ヘルマンの時間は凍り、指の先さえ動かせなくなった。


 バカな、こんなことありえない。

 昨日の夜ルシアに毒薬を渡した。

 彼女は素直にそれを飲んだのだろう、朝起きる頃にはもうその体は冷たくなっていた。それはビルギットの錯乱ぶりからもわかるし、なにより自分自身が先ほど確認したことだ。心臓は動きを止め呼吸もなかった。それなのに今、自分の目の前には、動いて声を発するルシアがいる。

 夢でも見ているのか。それなら一体どこからが夢なんだ。


「姫様!!」

 突然泣きながら抱きついてくるビルギットに困惑しながらも、ルシアはその背中を優しく撫でる。

「どうしたのビルギット。泣いてちゃわからないわ……。ヘルマン、あなた何か知ってる?」


 なんなのだこの娘は。気味が悪い。


 ヘルマンは震える手を握りしめた。


「どきなさい。診察をする」

 言われてビルギットは素早くルシアから腕を離した。

 心臓が動いている。脈も正常だ。

「昨日の痣は? 脚を見せてください」

 そこには昨日と変わらずあの奇妙な紋様が鎮座していた。

「痣はまだ消えてない……か。特におかしいところは見受けられません。体も至って健康そうだ」

 ビルギットの顔がどんどん明るくなる。


「念のため、今日の晩も薬を飲んでください。陛下に報告をする、ビルギットお前も来い。」

「えっ 私もですか?」

「当然だ。お前が見たことを陛下に説明してもらう」


 いらぬ疑いをかけられても面倒だ。こいつの腫れた目を見れば陛下も姫が一度は死んだことを信じるだろう。




「お入りなさい」

 后の声を待ってから、部屋へと入る。

 后はヘルマンの後ろにいたビルギットを見ると僅かに表情を変えた。



 ヘルマンが最初に口を開く。

「報告があって参りました」

 ヘルマンが視線をビルギットの方へやると彼女はその役目を理解し、事の顛末を話し始める前にまずこう告げた。

「陛下、これからお話しすることは耳を疑う物になるかと存じますが、ひとまず姫様の無事をここに報告いたします」

 后は表情ひとつ変えずに頷いた。



 今朝の一部始終を語り終えたビルギットに、后は優しい顔で言った。

「ビルギット、ありがとうございます。この先はヘルマンとお話しますから、あなたはルシアについてやっていてください。あの子を頼みます。」

 ビルギットが退室した途端に后の表情が冷たくなった。


「どういうことなのです、ヘルマン」

「私も聞きたいくらいです。どう考えてもおかしい……一度死んだ人間が、生き返るなどと!」

「何かの間違いでは無いのですか」

「念のため、今夜も薬を飲むよう伝えていますが……」

 后は玉座の肘掛を人差し指で叩き始める。

「それだけでは駄目。他の人間にも同じ物を飲ませて確認なさい。」

 ヘルマンはぎょっとして后の顔を見た。彼女の端正な顔立ちが怒りの色に染め上げられると、普通の人間のそれよりもひどく恐ろしく感じる。言いしれぬ迫力にヘルマンは情けなくも目を合わせることが出来なくなってしまった。

「ですが、一体誰に……」

 今にも消えそうな声のヘルマンとは反対に、后はピシャリと次の言葉を放つ。

「そんな者、誰でも良い! 兵士でも侍女でも……この城には掃いて捨てるほど人間がいるでしょう!」


 怖い。ヘルマンは単純にそう思った。人並みに年齢と経験を重ねているが、自分よりも若い、しかも女性に怒鳴られて怯えることなどこれが初めてだった。



 それから数週間が過ぎた。

 ルシアはまだ生きていた。あれから何度か薬を飲ませたが、その度にルシアは息を吹き返したのだった。ヘルマンが実験に薬を飲ませた数人は、間もなく全員死んだ。


「どういうことなのっ!! なぜあの娘は死なないの!」

 深い眠りについている王の部屋で、后はヒステリックに声を荒げた。

「陛下……どうかお静かに」

 ヘルマンは慌ててそれを諫める。


「やはりあの娘は魔物と契約しているのかしら。どう考えても普通じゃないもの」

 ヘルマンも、薄々そのことは考えていた。しばらく静かな時が流れる。

 ほどなくして扉を叩く者があり、部屋のドアがゆっくりと開かれた。



「ラピエス殿下」


 王とよく似た優しげな顔立ちの男が現れた。

「おはようございます陛下。兄上のご容態はどうか? ヘルマン。」

 王不在の玉座で代わりに公務を行っているのは王の弟だった。

「はい……特に変わりもなく安定されております」

「そうか……」

 ラピエスは眠ったままの王を見つめながら少し悲しそうな顔をみせる。


「……では私はこれで失礼致します」

 ヘルマンはそういうと、静かにそこから去った。



「陛下もお辛いでしょうな」

「それはお互い様ですわ……」

 先ほどのヒステリックな様子とは別人のように、后は穏やかな仮面を被っていた。


「そういえば不思議な話がありまして。このレダの外れの森……古城がある辺りに、なんでも巨大な壁が現れたとか」

「壁、ですか」

「ええ。私もまだ確認できておらんのですが。砦の兵士から報告がありましてね……。変な話でしょう?」

 その時后の瞳が色を変えた。

「それなら私の親衛隊に行かせましょう。あなた方も何かとお忙しい身。」


 ラピエスは一瞬驚いた顔を見せる。

「いや、そういう訳には」


「いえ、私もずっと考えていたのです。何かお力になれる事があればと。古城の辺りでしたら長官はそこらの生まれですし地理もわかります。腕も立つので万が一ドラゴンと遭遇しても問題ありません。どうか殿下のお力にならせて下さい。」


「それは誠に有難い。姫と息子の婚礼の儀までに、どうしても片付けたい案件が山ほどありましてね。……ですが、本当に宜しいのですか?」


 后は優しい微笑みを携えて言う。



「もちろんですわ。こんな時にこそ、助け合わなければ」


 その言葉は、ルシアの無惨な運命の引き金となった。

 ラピエスがその場を去った後、后は呟く。


「丁度良かった。私も婚礼の儀までに、どうしてもあの娘を始末しなければならないのだからね」


 后の恐ろしい目論みは、この一月ひとつきで急速に駒を進めていった。

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