第7話 ルシア(上)

【106年】

 レダの国王は床に伏せていた。

 妻の后は15年前に娘を産んですぐに体を悪くし、その翌年この世を去った。まだ小さな娘は母の愛をほとんど知らない。それを不憫に思った王は新しく后を迎えた。そして、この后との間に息子を儲ける。


 これが運命の別れ道だったのかもしれない。


 王は自分の命がこと切れる瞬間、そう思った。





 それは着替えの最中の出来事だった。侍女のビルギットが突然すっとんきょうな声をあげた。

「あら姫様! どうなさったのですか? これは……」

 ルシア姫がビルギットの視線の先を見ると、自分の腿の横側に何かが浮かび上がっているのが見えた。

「何かしら……?」

 手を広げた程の大きさの円の中に、細かい模様や文字のようなものが所狭しと描かれている。

「まあ。いつのまにこんなものが」


 ビルギットは急いで濡れた布を持ってくると、優しくそこを擦り始めた。だがインクで描かれたようにくっきりと存在するその模様は、何度擦っても色褪せすらしないのだった。

「医者を呼んで参ります!」

 慌てたビルギットの叫び声だけが部屋に残り、ルシアが彼女の方に目を向けた時にはすでに廊下でせわしない足音が響いていた。



 ここ数年でルシアの父である王の病状は急速に悪化していた。五年ほど前までは健康そのものだったというのに、今では見る影も無くやつれている。

 その王についている医者がルシアの部屋までやって来た。彼は元々城に仕えている者ではなかったが、王が体調を崩し始めてから城へ研究部屋を用意され、ここ数年仕えている。

 医者はルシアの足を見てぎょっとした。

 ビルギットは心配そうに少し離れた所でこの様子を見ている。

「このような症状は初めて見ましたな……。少し調べてからまた伺いますが、他にどこか痛むところは?」

「ないですわ。この痣も、痛みはないし」

「そうですか。文献を調べてからまた伺います。……では」

 それは五分とかからない診療だった。

 ビルギットはすぐさまルシアに駆け寄り励ましの言葉をかけた。

「姫様、きっとすぐによくなりますよ。ご心配なさらず……。今日はごゆっくり休まれてはいかがですか?」


 当のルシアはそんなに気にしていなかったのだが、ビルギットの慌てようを見て少し心配になる。


「私は元気よ。そんなに心配されると不安になってしまうわ」

「ですが姫様、もうすぐ婚礼の儀があるというのに……お体にさわってはと私は思うのです。念のため町に降りて別の医者を探すように手配致します!」


 ビルギットは昔からこうだった。姫様のこととなるといつも全力で心配し、最善を尽くす。そして時に空回りをする……。齢36にしてはまだ落ち着きが足りない面もあり。

 従者において一番重要なことは忠誠心だと言う者がある。だがルシアがビルギットに無意識に求めていたものは母性だった。ビルギットは常にルシアの側にいて、時に優しく時に厳しく、ルシアの行く道を支えながら共に歩んできた。ビルギットはルシアにとってとてもかけがえのない人物だった。ビルギットもまた自分を慕うルシアを、口には出せないものの肉親のように愛情を持って接していた。二人の関係は、新しい后とルシアの繫がりよりもよっぽど深いものだった。


 ルシアは数ヶ月後、従兄弟であるグンナルとの婚礼を控えていたが、その時点で王はその王位をグンナルに継承しようと考えていた。もう自分に残された時間が長くないと悟っていた王は、グンナルの父である実の弟が公務を代行してくれている間に、新しい王を置くべきだと考えていたのだった。



 ルシアの足の痣を診た、かの医者は研究部屋の書棚を漁っていた。所狭しと並んだ医療に関する書物には一切手をつけず、彼が目を皿のようにして眺めていたのは得体の知れない魔術の書だった。にわかには信じがたいその内容に目眩を覚える。魔物と契約を結んだ者の身体の一部に現れる印。契約を行い対価を得るための代償。魔物の召喚の儀式。本当か嘘かわからない。一度本を閉じ、深くため息をついた。

 この本の内容が信頼できるものだったとしたら、あの姫は何かしらの魔物と契約を結んだということになる。契約の内容は他言できないらしいと本には記されてあり、馬鹿馬鹿しいが少しばかり興味はある。どうにかして調べる方法はないものか。

 この医者の名はヘルマン。そしてヘルマンは退屈だった。

 王専属の医者として城へ仕えてはいるものの、もうあの王も長くはあるまい。

 ヘルマンは王の治療などしていない。ただ毎日怪しい薬の研究をさせられているだけだ。

 もちろん城に仕えるまではこの国でも五本の指に入るほどの医者だった。今でも傷付いた兵士の怪我を癒やすこともある。だが、王の治療はしていない。ヘルマンは、王のそばに忍び寄る影に魂を売ったのだ。



「姫様……申し訳ございません」

 あからさまにしょんぼりと項垂れているビルギットを見て、ルシアは何事かと驚く。

「町から名医を手配させようとしたものの、お后様が許可をおろしてくださいませんでした」

「気にしないで」

 ルシアはビルギットに優しく笑いかける。

「何故かヘルマン氏以外の医者を入れるなという命が随分前から出されていたようで……。すみません、私の確認不足で勝手な事をしてしまいました」

「どうってことないわ。私だってそんなこと知らなかったもの……」

「いえ、それは……。でもどうしてでしょうね?」


 ルシアはビルギットをなだめるように、ゆっくりと口を開く。

「お母様はお父様の体調が悪くなってから、不安を抱えて少し神経質になっていらっしゃるのよ。私の事なら大丈夫。ヘルマンがまた診に来てくれると言っていたし」


「申し訳ございません」


 くやしい。できるなら、姫様を連れ出して医者の所へ連れて行ってやりたかった。

 実を言うとヘルマンは苦手だ。愛想は悪いし、挨拶をしても返事すら返さない。

 何度かすれ違うことはあるがいつも変な匂いを纏って目をギョロギョロさせているんですもの。


 ビルギットはそこまで文句を思い浮かべて、やめた。ルシアが心配そうな顔でビルギットの眉間によったシワを見つめていたからだ。




 夕刻を知らせる鐘が響いた。

 ヘルマンは王の寝ている部屋へと向かっている。毎日午前と午後、決められた時間に診察をするのがヘルマンの仕事だった。診察と言ってもするのはもっともらしいフリだけで、あとは薬と偽ったトウモロコシの粉を与えるだけだ。ドアの前にいる兵にその重い扉を開けさせると、静けさしかないベッドの方へと歩みを寄せる。


「待っていましたよ、ヘルマン」


 美しく気品はあるがどこか冷たい声が、ヘルマンの瞳を緊張の色に塗り替えた。


「いらしたのですか、陛下」


 后妃がベッドの横の椅子に腰かけてこちらを見据えている。


「……ルシアの診察をしたそうですね。あれに何があったのです」


 決して娘を心配している声ではない。


「姫様の脚に奇態な紋様が……。なんでも、今朝突然気がついたら現れていたようです。」


「で。それは何なのですか」


 ヘルマンは気まずそうに王の方を見やった。どうやらよく寝ているようだ。


「私にも今まで診たことも無い症状でして。不確かな情報ではありますが……」


 ヘルマンが先ほど読んだ本に書いてあった内容を説明すると、王妃の口角がわずかに上がった。


「まるきり信じていると言うわけではありません」

「なぜ?」

「魔物と契約だなんて聞いたこともないですし……」


 王妃はとても面白そうに笑ってみせる。


「笑わせる……、お前自信が悪魔と契約していると言うのに」

 ヘルマンは、ここで王妃と一緒に薄気味悪く笑えば格好がつくのにと思ったができなかった。王妃の闇にこれ以上近づくと飲み込まれてしまう。

「だがちょうどいい。ルシアに薬と称してあれを飲ませるいい機会ですものね。明日の朝が楽しみだわ」


 一点の曇りもない純粋な冷たい瞳に恐怖と美しさを感じた。王妃の行いその物は完全なる悪なのに、彼女に悪意はまったくないと理解できる。それが怖かった。だがもうヘルマンは後戻りできない所まで来てしまったし、するつもりもなかった。

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