第5話 檻
【210年】
朝から降り続けていた小雨は止み、徐々に太陽が顔を覗かせる。雲の隙間から差し込んでいた頼りない光の筋は、だんだんと太くなり辺りを照らし始めた。
カイはスコップで檻の前を整備しながら彼女が泣くのを黙って聞いていた。一時は大きく泣きわめいていた声も少しずつ落ち着きを取り戻し、ついにその人は口を開く。
「……ごめんなさい。取り乱してしまいました」
カイの心の中で今まで機能していなかった部分が、このとき初めて動き始めた。自分以外の人間の言葉を聞いたのは何年ぶりだろう。その細く弱い、意味のある言葉を耳にした瞬間に、目頭が熱くなるようだった。
カイは辺りを用心深く見渡すと、小さな声で話した。
「俺はカイ。君の名前は? なんでそんなとこに居るの? まさか閉じ込められてるのか?」
少女は不安げな表情で彼を見つめた。長いまつげに残った涙が、まばたきをした瞬間にポタリと落ちてどこかに消えた。その濡れた瞳に射られたカイは、自分の心臓の音を耳のすぐそばで聞いているような、不思議な感覚をおぼえた。
「ルシアと申します。もうずっとここに。外を見られたのは何年ぶりかしら。人間に会ったのも」
ルシア。カイはその名前に聞き覚えがあったが、今思い出している余裕はない。それよりもこのルシアの言葉に、遥か昔の微かな記憶など吹き飛ばされてしまった。それほどまでに驚愕した。
この人はこんなに暗い地下に何年も一人っきりで閉じ込められていたというのか。 なんてこった。人間に会ったのも久しぶりだって?
……自分と同じような人がいたとは。それも、こんなに近くに。
「待ってて、そこから出してやるよ」
カイはルシアの返事も待たずすぐさま家に走った。走りながら様々な考えが頭をよぎる。
壁ができレダからカイが離れて、気の遠くなる程の時間が過ぎていた。
もう人に会うことなど二度とないと思っていたがそうではなかった。
一体誰がなんの目的で彼女をあんなところに閉じ込めたのだろう。もしかすると罪人なんだろうか? まだ若い娘が一体何の罪で。
しかしカイにとって、ルシアと名乗った少女が何かしらの罪を背負っているかということなど、どうでも良かった。およそ百年ぶりに自分以外の人間に出会った喜びの方が遥かに勝っていたのだ。
カイは物置小屋から斧を探しだしそれを握りしめると、ひとときの時間さえ惜しむかのごとく、すぐにルシアの元へと駆け出した。
ルシアは檻の中から外を眩しそうに眺めていた。外と言ってもここからはまだ土と少しばかりの空しか見えない。その小さな空からの光はとても眩しかった。どこからか鳥のさえずりや木の葉のざわめきが聞こえてくる。時に遠くで、時に近くで。その様子だけで、この世界の広さを感じとることができた。
白い蝶がヒラヒラと漂っている。格子をくぐりぬけてルシアの鼻先に止まる。ルシアは思わず笑った。そしてまだ自分が笑えることに驚いた。
「お待たせ!」
上からカイの声が降ってくる。息を切らして笑いかける彼の顔には汗が光っている。
手には年季の入った斧を持って。
「待って、私は……」
「危ないから下がってて!」
ルシアが鉄格子から離れたことを確認すると、カイは思い切り斧を振り上げ、そこに打ち付けた。
それは細い鉄格子だった。相当古いものらしく錆び付いてもいた。この一撃で一本破壊できるのは確実だと、カイは当然のように思っていた。それがどうだろう。斧と鉄格子がふれあう瞬間、青白い光が火花のように無数に飛び交い、カイは腕に果てしない抵抗を感じた。
「うわっ!」
たまらず手を離すと、斧は檻とは逆の方へ飛んでいく。カイは尻餅をついたままその方向をただ黙って見つめていた。
「……大丈夫?」
ルシアが声をかけたが、カイにはその声が届いていないようだった。手のひらをじっと見つめたあとそれを握りしめる。肩を落とし、眉間にシワを寄せ唇を噛んだ。
「クソ……」
先程までの笑顔が嘘のように彼は落胆している。ルシアはかける言葉を見失ったが、彼が自分のために起こしてくれた行動に対して誠意を示さねばならない。
「あのね、気にしないで。私はここから出られないの」
「違う。俺だからこの檻を壊せないんだ。普通の人間ならたぶん……さっきので壊せてた」
ルシアはその言葉を不思議に思った。どういう意味だろうと彼の言葉を待ったが、カイはそれだけ言うとまた黙ってしまった。
「見て」
そう言うと、ルシアはカイの視線を待った。だがカイはまだ目を上げることが出来ない。
ほどなくして先と同じ青白い閃光が走った。それは伏せていたカイの目にも十分に届き、彼は反射的に檻の方を見据える。
「私はこの檻から手を出すことも許されない。呪われているの」彼女の腕からは白い煙が微かに立ち上ぼり、そこは赤く負傷している。
それを見たカイは転がるように檻に近づくと、その格子から自分の腕を勢いよく中へと入れた。瞬間、バチバチとあの火花が飛び、彼の腕は外へと押し戻される。
ルシアは驚いてカイの顔とその傷付いた腕を交互に見る他なかった。乾いた喉から言葉がでない。
「俺もだよ」
ルシアは湿った空気を飲み込み、やっと口を開いた。
「私達、挨拶の握手さえできないのね」
この状況で笑えない冗談を言える程度には、今までに数えきれない絶望を味わってきた。死のうと思ったことすら何度もある。
「ああ、ほんと……泣きたい気分だよ」
カイはそんな彼女の想いを垣間見て、肩をすくめると情けない顔で笑って見せた。
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