第3話 手紙
「一週間くらい前だったと思うよ。カイのやつ、傷だらけの顔で肉をたくさん買いに来てさ。宴会でもやるのか? って聞いたら、『まぁね』って嬉しそうに笑ってよ。俺は久しぶりにあいつのあんないい顔を見た気がするなぁ。可哀想に。あいつはきっと不幸の星の下に産まれてきちまったんだろうな」
壁が現れたことを知ってすぐ、マチルダが町の知り合いにカイの事を聞くと、肉屋の店主がこう話してくれた。それが最後の目撃情報となった。
カイを知る町の人々はまた彼のことを心底不憫に思い、鍛冶屋の親父などは彼のために泣いた。
その日いつもよりも随分早く起きたミーケルは、着替えてすぐに馬を出した。
壁を調べてやる。あの壁は一体どこまで続いているのか? 終わりがあるのなら、そこからカイの家まで行けるかもしれない。
ミーケルはひとまず森の奥の、あの壁を目指した。天気はよくすがすがしい朝だ。こんな日に早起き出来たなんて運がいい。気分も上々だ、あの壁さえ無ければ。
忌々しい壁が見えてくると、ミーケルは壁にそって北へと馬を走らせた。壁から目を離さないように、何一つも見逃すまいとして走り続けた。だが、走っても走っても壁の終わりは来ない。一時間ほど走ったが壁はずっと続いているし、その先を見ても自分の視力が許す所まで壁は続いている。ミーケルは途方に暮れた。
一体この壁はどこまで続いているんだ。
どこかで鶏の声が聞こえる。もうそろそろ砦へ行かなくてはならない時間だ。
ミーケルは名残惜しそうに向きを変えると、そのまま砦を目指して森を後にした。
本当に不思議で仕方が無かった。あんなにも長くて巨大な壁を、短期間に誰にも気付かれることなく作ることが誰に出来るんだろうか?
どんなに頭を捻らせても、その答えは当たり前のように浮かんでこなかった。
・
ミーケルは壁のことを報告すると同時にカイの救出も懇願した。何しろ町のなかでカイの家だけが森の外れにあり、運悪く壁は町とカイの家の間に出現してしまったのだ。あんな高い壁を一人で越えられるはずもない。城へ助けをもとめたところでどうやって救出するのかはわからないが。
とにかく、壁の外にも人間がいるということを伝えたかった。森の方には店もなく、他に住人もいない。もしカイがこのまま町に戻れないと、彼は一人で森で生きていかなければならないのだ。確かに彼には家族はないので今までも一人で生きてきたが、それまではこんな壁などなかったのだから。
このときは返事をすぐにはもらえなかった。まずミーケルのような下の立場の者は、王に会うことすら許されないのだ。それに砦から城はかなりの距離があり、伝達もすぐには届かない。ミーケルは自分の部の隊長に報告をした。救いは隊長がとても親身になってこれを聞いてくれたことだけだ。そして、これを終えた今あとは待つことしか出来ない。
だが 数日後、城の者に伝えられたことはこうだった。
「
カイの存在のことなど、まるで最初からなかったかのように。その件についての連絡はいっさいもらえなかった。ミーケルは白くなるほど拳を握りしめた。まばたきができなくなった。
カイが町に来なくなって一週間以上が過ぎている。大量に買い込んだという肉も、もう底をついているんじゃないだろうか? 突然現れた壁を見て途方にくれているに決まっている。あいつには家族もいない。ひとりぼっちで、あんな森で。どんなに不安だろう。俺がしてやれることは何かないのか?
ミーケルは思わず憎らしい壁の方を睨み付けた。もちろん、森から遠く離れたこの砦からではそんなものは見えない。ここから見えるのは石畳のカベと、訓練に励む熱苦しい男達だけだ。
・
その晩、ミーケルは同期であり友人のスーパを食事に誘った。
「なんで自分の家で飯を食うのに奢られなきゃならないんだ?」
ラックスの酒場でスーパは唸った。何を隠そうスーパはラックスの息子だ。
どうせなら違う店で一杯やりたかった、と文句を垂れるスーパにミーケルは苦笑いした。
「で、頼みってのはなんだ?」
「話が早くて助かる」
スーパは、リッチの遺伝子を確実に受け継いだ美しい黒髪を持った大男だ。腕には剣技でこしらえた生傷がたくさんある。
ミーケルは彼にどうしても頼みたいことがあった。
「サルタエルを貸して欲しいんだ」
「なに? サルを? でも、貸すと言ってもあいつは俺の言うことしか聞かないよ」
「だからお前も来て欲しい。カイを助けたいんだ」
「なるほど。いいだろう。でもどうやって?」
サルタエルはスーパが飼っている鷹だ。とても頭のいい鷹で、スーパに良く懐いている。子供のころはよく一緒に遊んだものだ。もしかするとミーケル達よりずっと頭が賢いかもしれない。
ミーケルはサルタエルに、ひとまずカイが生きているかの確認を頼みたいと考えていた。サルタエルに手紙を運んでもらうのだ。
「そうか。サルならその壁とやらも越えられるかもしれないな。よし、さっそく行こう」
食事もそこそこにスーパは立ち上がる。あまりにも勢いよく立ち上がったせいで、テーブルに置いてあった小さな花びんが倒れピンクの花が零れ落ちた。
「頼んでおいてなんだけど……いいのか? スーパ。壁には近づくなと言われているのは知ってるよな?」
「まあね。だがここで断ったらきっとマチルダに死ぬまで文句を言われ続けるだろう。見つからないうちにさっさと終わらせようじゃないか。俺だってカイを助けたい気持ちはある」
そのマチルダはもう仕事を済ませて帰ったようだったが、ミーケルは心からスーパに感謝した。
・
馬を走らせ壁まで近づくにつれ、何かの声が聞こえてくる。ミーケルは聞き覚えのあるこの声に焦り、馬の走りを速めた。
「マチルダ! 何しとんねん!」
ミーケルは余裕のなさからおよそ1年ぶりに田舎の言葉を発した。
「こんな遅うに一人で……! 危ない! はよ帰らな(アカン)」
馬が止まるより前にミーケルは飛び降り、マチルダに駆け寄った。
彼女は壁にもたれて泣いている。
「どうしたんだ? ケガしてないか?」
マチルダは首を横に振った。スーパも何事かと遅れて二人に近寄る。
「どんなに呼んでも返事がないの」
鼻をすすりながらそう呟く。
ミーケルとスーパは、この大きな壁を黙って見上げた。カイは、生きているんだろうか。
きっと近くにいるのに、気配すら感じ取れない。この壁の向こうにいるはずなのに。
「カイ!!」
ミーケルはありったけの声で叫んだ。その声はカイに届くことなく、巨大な壁に吸い込まれていった。
「こんなものがいつの間に出来たんだ? 一体誰が……」
スーパは初めて見るこの壁を渋い顔で眺めながら、肩に乗せたサルタエルの足を撫でた。サルタエルは首を小刻みに動かしながら、鋭い眼で何か獲物はいないかと辺りを見渡している。
「あらスーパ、居たのね」
マチルダは涙で濡れた顔を拭きながら言った。
「いつからその目は飾りになった? こんなイイ男が見えなくなるなんて」
大げさに眉を上げてスーパが答える。その冗談を遮るようにミーケルは言った。
「マチルダ、カイに手紙を書いたんだ。サルタエルに届けてもらう。お前も何か、書くか?」
マチルダはミーケルの顔をまじまじと見つめたあと、答えた。
「書かないわ。あたしが書きたいことはきっとアンタが全部書いてるもの」
サルタエルは白い翼を大きく羽ばたかせると、スーパの肩を離れた。そしてぐんぐんと空を目指して上がっていった。薄暗い森の中で、白いサルタエルはもう一つの月のようだった。ついに壁の先まで昇り詰めると、スーパ達からは見えなくなった。三人はしばらくそこに立って、誰も何も言わずにその様子をただ眺めていたが、最初に口を開いたのはスーパだった。
「さて、帰ろうか」
「サルタエルを待たないの?」マチルダが言う。ミーケルも同じ気持ちでスーパを見る。
「カイだって返事が書きたいだろ? サルは明日の昼にでも勝手に帰ってくるさ。彼からの手紙を持ってね。俺たちだって、夕飯の続きをしなくちゃならない」
それは彼なりの、二人への励ましだった。
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