第2話 壁
【106年】
「マチルダ、もう終わりにしていいよ。ご苦労さん」
ふっくらと艶々した頬の女性が、ウェイトレスの少女に声をかける。マチルダと呼ばれたその少女は笑顔でこれを受けた。
レダの町外れの田舎町にこの酒場はあった。昔は剣で城を守っていたというのが自慢のラックスは、太りすぎて鎧が入らなくなったために地元に帰りこの店を開いた。
「あまった料理、持って帰るかい?」
ラックスの妻リッチはマチルダに料理を持たせるため、まだ温かな料理とパンを包んだ。
「ありがとう!」
マチルダはそれを受けとると頭を深く下げた。エプロンを外し、綺麗に畳む。帰りの挨拶を済ませると酒場のドアに手をかけた。ドアを開く途中で、ずしりと重たい抵抗が突然軽くなる。外から誰かがドアを開けたのだ。
「マチルダ。もう帰るのか?」
マチルダは随分と顔を上にあげた。そうしないとこの声の主の顔が見えなかったからだ。
綺麗な歯並びの口が大きく笑う。そのあと、癖のない綺麗なブロンドの髪が目に入った。
「ミーケル。あんた大きすぎるのよ。もうすこし小さくなれないの?首がいたくなっちゃうわ」
ミーケルは酒場に入るとき、頭をぶつけないようにいつも腰を折ってドアを潜る。
彼はニコニコしながらマチルダを見つめると、彼女が両手に大事そうに抱えている料理を目ざとく見つけた。
「もしかして森に行くのか?もう暗くなり始めるからやめたほうがいいよ」
マチルダはミーケルの言葉に耳も貸さず、彼の脇をすり抜けるようにドアを出た。
「待ってくれマチルダ」
ミーケルはドアを閉め、走ると彼女の前に立ち塞がった。マチルダはその体に似合わぬ大きな態度でミーケルを睨み付ける。
「早くしないとせっかくの料理が冷めちゃう」
「明日にしないかマチルダ。この間ドラゴンが出たばかりだろう」
「この間ドラゴンが出たばかりならしばらくは出ないわ」
ミーケルは片手で顔を覆い溜め息をついた。この娘に口で勝とうなどと思ってはいけないのだ。
「カイの家に行くんだろ? わかった、俺が馬で送る。それでいいだろ? 断るなら意地でもここを通さないぞ」
マチルダは笑顔で礼を言った。ミーケルの馬に乗せてもらうと、馬の首筋を優しく撫でる。
カイ・ハイブリッジは、ここから少し離れた森に住む森番の息子だった。数ヵ月前、ドラゴンに両親を食われて一人になった。まわりの大人達はずいぶん彼に同情し支援したものだ。
マチルダとミーケルとは昔からの友人だった。
「あいつ、もう一週間もここに来てないの。何かあったのかしら。ちゃんと食べているかしら」
「カイは今年で16だよ。赤ん坊じゃないんだから、あいつだって一人でもうまくやるさ」
ミーケルは走り出した馬から落ちないように、マチルダの肩をそっと抱いた。
「そうかしら…。きっとまだ心に傷を負ってるわ」
マチルダはうつむくと、目を強く閉じた。馬のせわしない足音が、不安な気持ちを掻き立てる。何もないといいけど。そう思いながら、頭を振って目を開けた。
どんどん景色が流れていく。
ミーケルの腰にぶら下げた剣が、時折跳ねて渇いた金属音が響いた。
少し先に古城の屋根が見える。もうそろそろカイの家だ。
ところが、ミーケルは馬の速度を緩めると辺りを大きく見渡しながら変な声を出した。
「なっ、なんだこれは?」
ミーケルは馬から降りると、カンテラを前につきだす。
「なんてこった。見ろよマチルダ。いつの間にこんな壁が作られたんだ?」
マチルダも既にその壁をみていた。視界に映る限り壁がある。壁の始まりを探すも、ずっと途切れず続いているようだった。
「カイの家は!?」
古城はかろうじて壁の内側にある。これの位置から推測すると、カイの家は壁の外だ。
二人は壁に近づき上を見上げる。
「これのせいで町へ出てこれなかったんだわ」
ミーケルは壁を叩いてみた。重厚な音が反って来る。かなり分厚そうだ。古城の屋根よりずっと高い。とっかかりもないので登るのも無理だ。
「王様が壁を作ったのかしら?」
「いや……そんな噂は聞いてない」
ミーケルは砦に仕える剣士で、砦に集まる者同士よく情報交換をしている。数日前に姫様の体調が思わしくなくなり、城の医者では事足りず街からも医者を呼んだらしい。これは公表されていない事だが、城に仕える者なら誰もが聞いた噂だ。こんな大がかりな壁の建設となれば膨大な数の人間が動くはずであろうし、耳に入らないわけがない。
「明日砦で聞いてみる。誰もなにも知らないなら報告が必要だ。何か情報が得られるかもしれないしね」
マチルダは心配そうな顔で壁を見上げた。
「カイはどうしてるのかしら……」
「とりあえず、帰ろう。今日はもう暗いし何もできないよ」
ミーケルも暗い顔で、名残惜しそうに壁を見上げた。どちらかがこれを言わなければ、二人の足はこの森から動くことはなかった。マチルダは、言わないだろう。ならミーケルが言うしかない。もしドラゴンにでも出くわせば、傷一つなく帰ると言うことは難しい。
明日報告を終えたらまたここへ来よう。
そんな気持ちを胸に抱き、二人は再び馬で町へ戻るのだった。
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