本家にて 前

 この年齢になるまで女子の部屋に一度も入ったことがない、なんてことはなかった。小学生ぐらいまでは気軽に、中学生になっても特に気にせず遊びに行っていた。喫茶店でたまったりカラオケに行くのが主になったのは高校生になってからだ。

 ならばどうして固まっているのか、といえば、ここが八瀬の本家のお屋敷だからとしか言えない。

 金治郎は板張りの長い廊下を歩かされる段階ですでにひどく緊張していて、よく手入れされた庭を眺めたりだとか、薊の私室にどぎまぎするような心の余裕はなかった。


 お嬢様というイメージとは裏腹に、簡素ともいえる和室。文机と客用の卓が目立つ、たとえば書生の部屋と言われても納得はできそうだ。小物の一つも文机には置かれておらず、あるとすれば引き出しにすっかりしまわれているらしい。


「ゆっくり話せる場所なんて、外だと思いつかなくて」

「いえ……」


 大丈夫、と続けようとしたが声は出なかった。わざわざ用意されたのだろう大きめの座椅子からは膝がはみ出ることもなく、卓上によく冷えた炭酸のグラスは汗一つかいていない。コースターなんてしゃれた代物、寅尾家では使ったこともない。


「てっきり他の人には聞かせたくないようなお話かと思ってしまったんですけど、もしかして、もっと気軽なお話でしたか?」

「……なんか、変に気い使わせて申し訳ないです……」


 顎のあたりで切り揃えられた黒髪を揺らして、首を傾げられてしまうと弱い。確かに、人に聞かれて嬉しい話をするつもりではなかったので間違った配慮ではないし、突然の自宅に動揺しているだけだ。


 薄青色のソーダを一口含んで、実は、と言いかける。それを制するように薊が人差し指を立てた。

 そのまま音もなく障子に忍び寄って、躊躇なく開く。耳を押し当てていた女中がややよろめいた。


「二人きりにしてくださいね」

「かしこまりました」


 言い訳するでもない。あの狐目の人好きのする笑顔で頭を下げ、しずしずと廊下の奥へ消えていった。その背中が見えなくなるまで、二人は無言で追いかけていた。


「油断も隙もねえ……」

「ずっと一緒にいてくださるんですけど、あれは悪い癖です」


 何事もなかったかのように座り直した、薊のグラスには黄金色こがねいろのティーソーダがたゆたっている。両手で抱えるようにして口へ運ぶのを、金治郎はなぜかじっと見ていた。


「なにか?」

「あ、いや。使ってもらってんだなあと思って」

「たまに、です。とっておきですから。金治郎さんは目のいいひとですね」


 いたずらっぽく笑う薊の爪は桜貝のようにつやつやしている。

 見るからにマニキュアを塗っている、という雰囲気ではなく、綺麗に磨いただけにも見える。よく似合っていた。


「似合ってよかったです」


 薊が一瞬遠い目をしたのは気のせいだったろうか。

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