第二話 進級

 小熊はいつも通りの時間に起きた。真冬に比べ外が明るくなる時間はどんどん早くなっている。 

 FMラジオのスイッチを入れ、パジャマを脱ぎ捨ててシャワーを浴び、制服を身に着けながらガスコンロの火を点ける。

 コンロの上には角型のアルミ飯盒メスティンが置かれている。中の米は夕べ寝る前に研いで水に漬けておいた。

 メスティンで昼に食べる米を炊きながら朝食の準備をした。焼かない食パンにスキッピィのピーナツバターを塗り、インスタントコーヒーと砂糖をお湯で溶いてカフェオレを淹れる。

 戸棚を開けて買い置きの缶詰を取り出した。食べたかったからではなく好奇心で買ったホウレンソウの缶詰。今時プルトップでない輸入物の缶を、礼子から貰ったカミラスの米軍用ツールナイフで開け、灰色がかったドロドロのホウレンソウをピーナツバターを塗ったパンに乗せる。

 メスティンの中身が沸騰し湯気を吹いている。小熊は火を弱めながら昼食は何にしようか少し迷った。戸棚をもう一度開け、何種類かのレトルトフードを見回した小熊は、レトルトの横に置かれた小さな缶を取り出した。


 オイルサーディンの缶詰。メスティンの蓋を開け、缶の中身を放り込んだ。醤油と塩を足してまた蓋を被せる。

 昼食の準備を終えた小熊は、相変わらずテレビもPCも無い部屋でラジオを聴きながら、小熊はピーナツバターと缶詰ホウレンソウのオープンサンドイッチを食べ始めた。

 見た目以上に奇怪な味の缶詰ホウレンソウとピーナツバターの相性は悪くなかったが、あと少しして春野菜が出回り始めたらもう食べることは無いだろうと思った。

 朝食を終え、炊き上がったメスティンを箸と共に百均の保温バッグに入れた小熊は、夕べ必要な物を入れておいたディパックの外ポケットにメスティンを収め、制服ブレザーの上に赤いライディングジャケットを着た。ケッズのハイカットスニーカーを履き、玄関に置かれたヘルメットとグローブを掴んで外に出た。


 アパートの駐輪場に停められたスーパーカブに近づいていく時は、いつも高揚とほんの少しの恐怖が入り混じった気持ちにさせられる。

 春の陽光に照らされ、小熊を待っていてくれているかのようなカブのシートを指先で撫でた小熊は、後部の荷台に付けられたスチール製のボックスにディパックを入れ、ワイヤーロックを外してエンジンキーを回した。

 両手でハンドルを持ちながらキックレバーを踏みおろす。気温が零下の頃は始動前にチョークレバーを引かなくてはならなかったが、数日前からチョークでガソリンを濃くしなくともよくなった。

 キック一発で車体を震わせ、エンジンを始動させたカブの回りを一周しながら、車体やタイヤ、灯火の簡単な点検を終えた小熊は、ヘルメットを被り革グローブを着け、カブに跨って走り出した。

 体を吹き抜ける風は、春の暖かさを感じさせる。ついこないだまで小熊を散々苦しめた寒さに耐えなくてもいい。

 もう生き延びるために戦うべき敵は居ない。


 日野春駅近くのアパートからカブで十分弱。旧武川村中心部近くにある高校に着いた小熊は、バイク駐輪場にカブを滑り込ませる。

 スクータータイプの原付が何台並ぶ駐輪場には、赤いハンターカブが停められていた。礼子はもう来ているらしい。小熊はもう一度駐輪場を見回す。

 小熊がカブを通じて親しくなった同級生、恵庭椎えにわしいが最近買った水色のリトルカブは見当たらない。いつも登校の早い彼女には珍しく遅刻ギリギリの時間に来るのか、それとも買って間もないカブで通学するのが怖くなって自転車で来たのか。

 どちらにせよ、待ち合わせたり携帯で連絡しあって一緒に教室に入るような仲ではない。小熊は礼子のハンターカブの隣に自分のカブを停め、その横にもう一台停められるように、少しハンターカブに寄せて停めなおした後、後部のボックスから出したディパックを手に教室に向かった。


 小熊は自分の教室がある階を間違えそうになった。

 小熊のクラスは今までの教室より一階上にある三年生の教室に移った。担任もクラスも変わらず。まだ席替えもしていないので座る場所も同じ。ただ窓から見える風景の見通しが少しよくなった。

 まだ学年が変わったという実感は沸かない。昨日の始業式は春休みにカブで決行した九州までの長距離ツーリングで消耗した部品を点検交換する作業が残っていたため、小熊も礼子も頭の中はメンテナンスの事で一杯で教師の話などろくに聞かず、小熊も礼子も、作業を手伝わされることになった椎も、ホームルームが終わると同時に工具の揃った礼子のログハウスまで直行した。

 小熊が三年生の教室に入ると、もう自分の席についてスマホを見ていた礼子が手を挙げて挨拶をする。小熊も手を出して軽く打ち鳴らし、特に会話もしないまま自分の席についた。


 自分のディバッグを机の横に架けた小熊が、まだ来ていない椎のことを礼子に聞こうとした時、当人の椎が教室に入ってきた。

 高校三年になったというのに身長が一四〇cmを超える様子のない椎は、落ち着かぬ様子で新しい教室を見回している。

 小熊は席を立ち、椎に近づいていった。顔ぶれも席も同じなのに、小熊の顔を見て安心したような表情の椎に、小熊は言った。

「放課後、礼子の家まで来て」

 今日の小熊は、椎に用事があった。 

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