第三話 シードル
小熊からの誘い、に椎は声を弾ませて了承を伝える。
小熊は言い足した。
「カブで来て」
椎は小熊の言葉に、視線を泳がせながら答える。
「礼子ちゃんの家なら、自転車で行けますよ」
小熊は同じ内容を繰り返す。
「カブで」
有無を言わさぬ空気、椎が消極的な理由は小熊にもわかっていた。
まだリトルカブを納車して数日しか経っていない椎。生まれて初めて自分で操縦するエンジン付きの機械。小熊も今乗っているカブを買ってから数日の間は、自宅最寄りのガソリンスタンドに行くのさえ冒険だった。
椎の家は学校から礼子の家までの中途にあり、椎が走らなくてはいけない距離はそんなに長くなかったが、礼子のログハウスがある別荘地帯は曲がりくねった急勾配で、初心者には少し敷居が高い。
簡易コンクリート舗装された道のすぐ横には、南アルプスの清流が流れている。椎は今から少し前、真冬の川に自転車ごと落ちたことがあった。
すっかり怯えてしまった椎を元気付けるため、そしてこれから行うことに強制参加させるために小熊は言った。
「わたしのカブも一緒」
椎は少し安心した様子で言う。
「行きます、ゆっくりでいいですか?」
小熊がうなづいたところで、高校三年最初の授業を開始するチャイムが鳴ったので、小熊は席につく。
まだ何か聞きたげな椎も自分の席に座った。
昼休み。
小熊と礼子は、二年生の時と同じように駐輪場に停めたカブのシートに座り、昼食の時間を過ごした。
最近は二人に加え、椎も一緒にお弁当を食べるようになった。今までコンクリートの花壇に座っていた椎は、今日も花壇に腰掛けている。自分のカブには乗ってこなかった様子。
礼子はライ麦パンにカマンベールチーズとハムを挟んだサンドイッチを食べながら喋っている。話の内容はこれからどうするか。
小熊も朝に作ったオイルサーディン入りの炊きこみご飯を食べながら喋る。話題は冬装備と先日までの九州ツーリング。今までどうしてきたか。
パスタを食べている椎は二人の話を聞きながら、朝からの疑問を聞こうとしてそわそわしている。突然の小熊からの誘い。椎はまだ用件をまだ聞いていない。
昼食の時間は終わり、午後の授業とホームルームも終了した。小熊はディパックを肩に担ぎながら礼子に言った。
「じゃあ、後で」
「うん」
机の上を散らかすクセのある礼子は、出る時も帰る時も支度が遅い。小熊も礼子を待つ様子はない
小熊は教室を出る際に、几帳面な性格のため、もう通学用のメッセンジャーバッグに教科書や筆箱を詰め終えていた椎に声をかけた。
「行くよ」
「は、はい!」
どこに連れて行かれ、何をされるかもわからぬまま、椎は立ち上がり小熊の後ろからついていく。
駐輪場で小熊はカブに、椎は自分のリトルカブを買った後も通学に使っているママチャリに跨る。ヘルメット被ったを小熊が手で合図した、椎はハンドサインに従い、自転車で走り出す。
小熊は自転車を漕ぐ椎と適度な距離を取りながら、遅れることも急かすこともなくついていく。途中で礼子のハンターカブが改造マフラーのうるさい音を発しながら追い抜いていった。
チロル風のイートイン・ベーカリーをやっている自宅に着いた椎は、家に入ることなく自転車で店の裏に回り、水色のリトルカブが停められたガレージに自転車を停めた。
椎はガレージのスチール物置からヘルメットを取り出して頭に被り、リトルカブに跨ってキック始動しようとする。
「キーは」
「あの、面倒なんで差しっぱなしにしているんです」
椎に何か言おうとした小熊は、礼子のログハウスがある南アルプスの高山地帯に視線を投げて口を噤む。今は椎のカブに乗ろうとする勢いを削ぐようなことは言わないほうがいい。
椎が小熊や礼子に習った通り走行前の点検をして、エンジンを暖機させているのを眺めていた小熊が、ガレージの外の県道を指差すと、椎は緊張で顔を強張らせながらリトルカブに跨り、アクセルを捻った。
微妙な操作が求められるアクセル・スロットルを機械のスイッチを扱うように回したのか、椎はいきなり急加速したリトルカブから振り落とされそうになる。
椎の動きを予測し、自分のカブを降りて待っていた小熊が片手でリトルカブのハンドルを、もう片方の手で椎の襟首を掴み、シートから浮いたお尻を再び押し付けた。
荒い息をしている椎の背中を軽く叩くと、椎はもう一度握り直したスロットルをゆっくり回す、前へと進むトルクが足りず横に倒れそうになるリトルカブを小熊は支えていたが、リトルカブはグライダーが飛び立つように手を離れていった。
少しフラフラしながらも走り出す椎の後ろから声をかけた。
「そのまま」
今の椎がどんな顔をしているのかは見えなかった。蝋の羽根が溶けていく時のイカロスか、それとも紙飛行機程度の距離ながら人類史上初めて動力で空を飛んだライト兄弟か。どっちにせよ、すぐに墜落する様子は無い。
心配して窓から見ているに違いない椎の父に軽く頷いた小熊は、自分のカブに乗って椎のリトルカブを追いかけた。
小熊は自転車とほとんど変わりない速度で走る椎のリトルカブについていった。
助言の類はしなかったが、小熊がついてきてるかどうか心配になって振り返った時だけは、椎に注意喚起した。
「後ろは見ない」
子供は補助輪か荷台を支える大人が居ないと自転車に乗れない。支える手のことを忘れないと、自分の力で乗れるようにはならない。
礼子に自転車の乗り方を教えた時のように、転ばせて覚えさせたほうが手っ取り早いのに、過保護かなとも少し思ったが、まだピカピカのリトルカブが傷つくのはあまり気分のいいものではない。きっと椎もそうだろう。
椎はのリトルカブはおっかなびっくりのヨチヨチ歩きで、何とか礼子のログハウスに辿り着いた。後ろから自分のカブで追い抜いた小熊が、カブのホーンを鳴らす。
礼子はポーチ前の大窓から飛び出してきた。手に持っていたボトルの栓を音たてて抜く。ル・ボルミエのシードル。リンゴを発酵させたノンアルコールのスパークリングワインだが、日本の子供用シャンパンと違って料理の邪魔をせず、料理に負けない味がする。
椎は何事かと思って小熊を振り返る。小熊は飛んできたスパークリングシードルの栓を片手で受け取りながら答えた。
「あんたのお祝いをまだやっていなかった」
礼子はボトルの中身を景気よく撒き散らしながら言った。
「恵庭椎ちゃん!リトルカブ納車おめでとう!」
まだ狐につままれたような顔をしている椎と共に、小熊は礼子のログハウスに入った。
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