第14話 9日目
「あれが会長」
会釈をしながら、ほとんど口を動かさずに国立さんが囁く。
昨日の事を思い出し、”忘れて”の言葉の意味を聞けないまま、なんとなく気まずい雰囲気で出勤のタイムカードを押す為に上がってきた5階の廊下で、一人の老人とすれ違った。
番匠社長の父親、匠美鎖の創始者、番匠 敏勝会長だ。
――うわ、初めて見た。
あれが絶滅危惧種扱いされている番匠会長かぁ。
ゆっくりと杖を突いて歩く姿はかなりの高齢のようだ。うちのじいちゃんとどのくらい上だろう。そんな事を考えながら国立さんと共に挨拶をしてすれ違う瞬間、その目ははっきりとこちらを見た。
何とも言えない――値踏みとも期待とも諦めともとれるような、複雑な目。
その目に圧倒され、奥に消えていく背中を黙って見送ってしまう。
何だったんだろう、今のは。何か途轍もない凄みを感じた。
それは、単に年月と経験を経た者特有の自信や自負以上の、“何か”だった。
まさか、名字を偽っている事、気付いているとか?
「まさか、ね」
「ん?どうかした?」
「いえ……」
会った事はない。あんな印象に残るじいさんに会ったら、絶対に憶えている。
それでも居心地の悪い後味を残して、もう姿の見えない番匠会長を、もう一度振り返った。
「少し、落ち着いてきたね」
玖珂さんの言葉に、国立さんが「そうだね」と答えて、おにぎりにかぶりつく。
確かに、金曜日から持ち切りだった倒産の噂でほとんど仕事にならなかったせいで大幅に遅れた予定を取り戻す為、どこの部署も仕事に集中せざるを得ないようだ。
昼休み、色んな部署の人間が集まる食堂も、昨日に比べてだいぶ落ち着きを見せていた。
とはいえ話題はやはり倒産にまつわる事。昼食を取りながら額と眉根を寄せて話す様子は、雰囲気がいいとは言い難かった。
「もう次の職探している人もいるって」
「確定したわけでもないのに、気が早すぎない?」
僕は倒産の噂に関する会話には参加できない。だから今は、なんとなく耳を傾けているような素振りで弁当をつついていた。
今週で契約が切れるバイトの身では、何を言っても不誠実になってしまう。
適当に調子を合わせて相槌を打つのも生活のかかっている人に失礼だし、かと言って自分にはまったく関係ないという態度も取りたくない。
そんな気持ちを汲んで、会話に参加しなくても会話の輪には入れてくれる国立さんと玖珂さんのそばで、この何日かは昼食を取らせてもらっていた。
「英妃ちゃんはここがもし倒産したら、どうするの?」
「そうだなあ。宝くじを当てて、その賞金で遊んで暮らす」
「あーそれいいなあ」
「いや、いっそ、この会社の株を買い占めて、クソ社長以下腐れ幹部を一掃?」
「それもいいなあ。英妃ちゃんが社長するなら、私が秘書になってあげる」
「お、愛人になってくれるかい?」
えらく歪んで偏った社長像だ。でも、ちょっと見てみたい気もする……って、百合展開の方じゃなく、国立社長の仕事ぶりの方ですよ、もちろん。
「まあ冗談はともかく、とりあえず頑張った自分へのご褒美に1か月くらい遊んでから、就職活動って感じかな~」
「宝飾業界で探すの?」
「そこまで具体的には考えてないよ。撫子は?どうするの?」
「うん……どうしよう」
目を伏せる様子が、何か思うところがあるように見えたのは気のせいだろうか。国立さんも同じように感じたらしく、ふたりで顔を見合わせた。
昼休憩終了の予鈴が鳴ると皆一斉にそれぞれの持ち場に向かう為、食堂の入口が混んでなかなか出られなくなる事を学んだので、予鈴の少し前に立ち上がった。
廊下に出てトイレに向かう途中、会議室の扉が半開きになっているのが目に入る。
閉めておいた方がいいかな?
この大きい会議室は、全体朝礼くらいでしか使われないはずだ。
薄暗い会議室に近づくと、中から話し声が漏れ聞こえた。あれ?誰かいる?
チラリと見えた姿は、確かハンドメイド課で見かけた事のある男性社員だ。
携帯で通話中のようだったので、そのままその場を後にしたが、その男性社員が平謝りに電話の相手に頭を下げながら言っていた、「もう少しだけ待ってください。明後日までには用意しますから」という言葉に、軽い不安を覚える。
なんだろう。借金取りにでも謝っていたのかな……。
昨日の国立さんや検品部門の事も思い出し、それぞれに悩みや問題を抱えつつも会社というのは回っているものなのだと痛感した。
夕方、営業からの要請で発送の梱包を手伝いに5階に上がると、田辺部長と階段でばったり会った。倒産騒ぎが起きてから何度か見かけてはいたが、こうして二人で顔を合わせるのは久しぶりだ。心なしか、たった数日で少しやつれたような気がする。
「ああ、浩之くん……なんだか、今回はすまなかったね。おかしな騒ぎに巻き込んでしまって」
「いえ、僕の事は別に気にしないでください。それよりも、その言い方だと、やっぱり倒産の噂は本当なんですか?」
しまった、という表情を隠しきれずに、田辺部長が目を逸らす。
「いや、失言だった。今のは忘れてほしい」
「田辺さん!」
ハキハキと大らかな人柄という好印象を裏切るような煮え切らない態度に、思わず声を荒げてしまっていた。
「僕に対してはともかく、従業員の皆さんには否定なり肯定なりのきちんとした話をしなきゃダメです!今、現場の雰囲気は最悪なんですよ!不安と不信で重くなった空気が、生産性まで落としています!デタラメならしっかりと否定して、本当なら経緯とこれからの事も含めてちゃんと説明をしてください!誠意を持って、真実を!それが上に立つ者の責務でしょう!」
一息に吐き出し、息を切らす。
「…………すみません。出過ぎた事を言いました」
それでもこの言葉は心からのものだ。今日まで関わった人たちの事を考えれば、出るべくして出た言葉だった。
驚いた顔の田辺部長にまっすぐ構えながら、息を整える。
「いや、本当に君の言う通りだ。ただ説明をするにはもう少し時間が必要なんだよ。はい、倒産しました、の報告だけでは従業員は皆、路頭に迷ってしまう。わずかな可能性でも何とか回避できる方法がないか、奔走しているところなんだ」
「それを、みんなに報告する事はできないんですか?」
今は何より情報が必要だと感じる。疑心暗鬼からくる不信感は、本当かどうかも分からない状況、情報規制からくるものだからだ。
たとえ悪い報告でも、包み隠さず説明する事で誠意を見せる事に繋がると考えるのは、経験の少ない若輩者の早計なのだろうか。
「今はまだ、時期ではないと我々は考えている。すまないが、もう行かなくては」
田辺部長が行き過ぎる間際、僕なりの誠意で声をかける。
「あの、僕に何か、できる事はありませんか?」
ただの高校生のバイトに、できる事などあるはずがない。分かってはいても、何かしたいという気持ちは抑えられなかった。
だが、振り返った田辺部長は複雑な目でこちらを見た。
それは今朝見たばかり――番匠会長の視線と同じものだった。
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