第9話 4日目

今日はどこの部署だろう。

毎朝、緊張と期待を持って指示を待つ。


指示をくれるのは総務の西保木課長で、就業時間30分前に各部署の課長(課長のいない部署は係長)が集まってその日の作業の予定を打ち合わせし、業務が集中している部署の作業を分散させるために、他の部署からの人員を含めてどこに誰が派遣されるかを決めているそうだ。


正直に言うと、1日同じ作業はかなりキツイ。それが慣れない作業であればなおさらだ。それでも、少しでも周りのレベルに追い付きたいという気持ちの方が強いし、自分なりにコツをつかんでほんのちょっとでも速くなっていくのが嬉しい。たった何日かで周りに追い付けるような技術ではないかもしれないけど、とにかくやらなきゃ絶対に慣れる事は無い。だからどんな作業も、僕にとってはチャンスなんだと思える。


じいちゃんの言葉が浮かぶ。

“製作の現場を経験している事は、絶対的な強みになる”


どんな作業も失敗も、すべての経験は意味がある。

というか、意味があるものになるかどうかは、これから僕がこの経験を活かしていけるかだ。だから1日1日、どんな繰り返し作業もルーティンワークも、それを行う意味を考えながら自分に刻みつける。



この日は仕上げ部門『洗浄』の手伝いだった。

洗浄とは文字通り、水や溶剤、用途に合わせた洗浄剤などを使用して汚れを落とす部署だ。

貴金属の製品は、加工の工程中、幾度も洗浄をする。加工に不可欠な油分や研磨材などを、次の工程の為に落とすのだ。


面接の工場案内の時に国立さんが軽く説明してくれたが、改めて部屋を見回しても、たくさんの槽や機械に水が溜められていて、迂闊にひっくり返したりしたら隣の作業場まで水浸しになりそうだ。プールサイドにいるような、水と何か薬品の匂いがする、独特の作業場だった。


落とす汚れや汚れ具合、形状に応じていろいろな洗浄を施し、落ちないようなら洗浄方法を組み合わせるのだが、一通り教わって驚いた事は、洗浄に使用される水が、“純水”だという事だ。


「カルキって分かるかな?」

「水道水に含まれてて、湯沸かしポットの中で白く固まるアレですよね?」

「そうそう。あれは簡単にいうとカルシウムの一種で、掃除をマメにしていない鏡とか蛇口なんかに付いている白いまだらの汚れも一緒。なんでああなるかっていうと、水滴の水分が飛んで中に含まれるカルキが残るからなんだよ。それは貴金属でももちろん同じで、水道水で洗って水分が残ると、白く跡が残って取れなくなるんだ。だから、この純水装置で水道水からカルキを除去した純水を使って、洗浄する。もちろん水道水も使うけど、ほとんどが純水を使うから、洗浄機に水を足す時は何の水を足すのか、必ず確認して。うっかり水道水を入れると地味にダメージ受けるから」

「地味なダメージ?」

「例えば、さっき説明したスチーム洗浄機は勢いよく熱いお湯を吹き付けるわけだけど、カルキを含んだ水道水を、バフでピカピカに磨いた鏡面に吹き付けたら、どうなると思う?」

「白く跡が残る、ですか……?」

「違う違う。せっかく磨いた鏡面に傷が入るんだよ。カルキって硬いから、高圧で吹き付けられると、曇ったみたいに傷が入っちゃうんだ」

「ああ!そういう事ですか」

カルキと聞くと“白く固まる”という知識しかなかったが、方法が変われば効果も変わってくるものだ。

それに、ジュエリーともなると洗浄に使われる水まで特別な事にちょっと感激する。

ちなみに説明してくれたのは奥谷主任だった。



プレスで梅崎さんが教えてくれたが、この会社は、営業職は課長が多く、工場は係長がとても多いそうだ。社長の中では工場よりも営業の方が重要で、給与や待遇、昇進など結構な格差があるらしい。


「年末の大掃除とか、4、5階は清掃業者が入るのに、工場はあたしたちでやるんだよね。重い機械動かしたり、脚立登ったり、埃と油まみれでクタクタになって掃除した後に、忘年会なの。ひどくない!?営業はメイクもネイルもピカピカにして澄ましてるけど、あたしたちは掃除の後でボロボロだっつーの!」

そんなわけで営業は昇進も早く、同年代の役職者を並べた時に、例えば営業はほとんどが課長だと、工場ではほとんどが係長というように1段階の差が出るのだそうだ。しかも昇進させる為に、以前は営業課だったのをわざわざ営業部にしたらしい。

その一方で役職者の少ない工場は、部門を兼任している人もいて、奥谷主任もその一人だった。

若いのに凄い。……と思っていたら、洗浄のパートさんが教えてくれる。

「奥谷さんはね、元は営業なの。去年、SWEET&DRESSINGのマリッジの仕事を取ってきて、社長賞ももらったのよ」


“マリッジの仕事を取る”とは結婚指輪の企画を請け負ってきたという事だ。

ジュエリーメーカーにとって、マリッジはかなり大きな仕事になる。

まず、必ずメンズとレディースの2本ワンセットで動く。

各店舗にサンプルを3サイズ置くとして、1店舗に6本、全国に200店舗あるお客さんなら、1200本。マリッジの新企画となれば長いスパンで定番にしていく一大プロジェクトだから、お客さんの方も気合を入れ、大抵3デザインくらい企画する。初期納品だけで3600本の仕事になるのだ。

そして日本では圧倒的にプラチナ製が主流のマリッジは、使われる地金の品位が高い。プラチナのファッションリングで多いのはPt850だが、マリッジではPt900やPt950になる。

かなり大量の地金が動き、また企画が継続する限り(廃番と決定されるまで)発注が約束される為、メーカーにとって是が非でも請けたい仕事というわけだ。


ただ、メリットばかりではない。

ジュエリーをよく知らない人でも、マリッジリングやエンゲージリングは、普通のファッションリングよりもワンランク上、高い、などのイメージがあると思う。

石が主役になりがち――というかエンドユーザーに売り込みやすいので、石のクオリティを謳いがち――だが、土台のリング本体の仕上げも、ファッションリングより1段も2段も上のクオリティを要求される。つまり、検品がものすごく厳しくなる為、それだけの手間と時間が必要になる。


言い換えれば、クオリティへの信頼がなければ、企画を振ってもらう事すらしてもらえない。検品基準が厳しいお客さんのマリッジを請けたという事は、信頼の証でもある。

それにたくさんのリングを1度に大量に、高いクオリティで磨くとなれば、職人の技術向上の大きなチャンスにもなる。


「式が今週末なので大至急、なんていう超短納期もあったなあ。あまりに短納期過ぎて、困った店舗の人から“さすがに無理ですよね”直接電話かかってきたんだって」


匠美鎖は店舗を持たないOEMメーカーだから、通常は、顧客の店舗からその本社の在庫を管理する部署や営業に問い合わせをし、在庫がなければこちらの営業に問い合わせがきて、工場に納期の確認がくる。”顧客の店舗から直接問い合わせ”というのは、よほどの事だ。

「それって指輪を用意するのを忘れてたって事ですか?ずいぶんうっかりなカップルですね」

「一生に一度の買い物だから、ギリギリまで迷ってたのかもね」

「結局、間に合ったんですか?」

「そういう時の為に、キャストは余分に吹いて在庫しておくの。だから棚卸しのたびに”在庫抱え過ぎ”って上から文句言われてたなあ」

ちなみにそのリングは、営業が直接、式場に届けたそうだ。



それにしても、奥谷主任ってよく分からないな。

かなり若いのに主任なのは、営業にいた頃に武勲を立てたからなのは分かったが、どうして営業よりもいろいろと望み薄な工場に移ったんだろう。志願しての事なのか、島流し的な意味合いだったりするのか、それとも期待されての事なのか。

感じのよい態度で教えてくれたかと思えば、ベテランパートさんの陰口を呟いてみたり。どうにもよく分からない人だ。

「悪い人ではないと思うけど……」

「ん?なんか言った?」

「あ、いえ!えっと、あと超音波にかけるのは、このトレイの分ですか?」




この春休みになってから、1日働き会社が終わって帰るのはじいちゃんの家だ。

おかげで終業式の日は大荷物になり、友達には「このまま旅行か?」なんてからかわれた。

じいちゃん家はバイト先から近いし、たまには孫と水入らずで過ごしたいからだと言っていたが、本当の理由は僕が口を滑らせて、父さんにバレないようにする為なんだと気付いていた。

夕飯をとるのがバラバラな日でも、必ず寝る前の少しの時間をじいちゃんの趣味の小さな工房――といっても彫金用の作業机やいろいろな工具、金床などが雑然と並ぶ小さな部屋だが――で過ごすのが日課で、その日あった事を話したり、相談したり、助言をもらったりしている。もちろん約束だから、具体的な数字に関する事や耳に入った取引先なんかは言わないようにしているし、じいちゃんも探るような事は聞いてはこないけれど、外に向けて話していい事と話してはいけない事の区別ができるか、口を滑らせたりしないかを試しているのではないかと、僕は思っている。そしてそれは、今のところはクリアしているみたいだった。


母さんは放任主義というか個人を尊重する主義というか、うるさく言ってきたりしつこく追及したり一方的に押しつけたりしない人だ。2~3日に1度電話がかかってくるがあっさりしたもので、話の内容というよりは声を聞ければ安心という感じ。僕のいない実家も変わりはないみたいだった。この閑散期に、父さんが毎晩遅いという事以外は。


そう、だからこの時はまだ気付かなかった。

父さんが今回の僕のバイトに関して、じいちゃんの強引さを怪訝に思い、調べさせていたなんて事には。




「浩之様がどこで働かれているかが分かりました」

目を通していた書類から顔を上げ、入ってきた秘書を一瞥すると部屋の主――株式会社 SAIHARA社長・西原 浩人氏が続きを促す。

「どうだった」

「チェーンメーカーの“匠美鎖”です」

「匠美鎖……」

意外な名前だった。確か、チェーンもキャストもやる、SAIHARAの縮小版のような会社だ。顧客リストのかなり下位にも載っているだろう。ただ、大して取引もないその会社に浩之をバイトさせる事を、会長が――親父が隠す理由が見当たらない。

SAIHARAではない会社を経験させたい理由は理解できるのだが。


「特に配属を決めず春休みの2週間のみの契約です。手配したのはその会社の部長職の田辺という男で、会長になにか恩義があるらしく今回手を貸したようです」

田辺……特にその名前に聞き覚えはない。

「匠美鎖の社長には話は通っていないのか?」

「はい、短期というのもあって面接も田辺氏がして履歴書の提出のみで採用されたようです。ここの社長というのがあまりいい噂を聞かない人物でして、従業員からも評判が悪いです。そういう人間なので浩之様にも興味なく、恐らく履歴書すら目を通していないかと」

「そうか……。それでも一応こちらからご挨拶差し上げた方がよろしいかな?」

待遇に気をつけるように、という圧力ではなく、礼儀としてだ。それに無断で他社に入り込ませていると勘ぐられてもつまらない。

この業界内で、他社からSAIHARAへ転職希望者がいて採用する場合、社長として元いた会社へその旨を連絡しておくのがマナーだと、自分は考えていた。

「その点ですが少し、というか、かなり問題がありまして――」

「なんだ?」

秘書の瀧本は居心地悪そうに咳払いをする。

「その……浩之様は名前を偽り、姓を“にしはら”として、SAIHARAの社長の息子だという事も隠しているようなのです」

「……………」

何を考えているんだ、あいつは。

腹立たしさを何とか表に出さないように努め、呼吸を整える。

確かに“さいはら”と名乗ればまずSAIHARAとの繋がりを勘ぐられるだろう。だが名前を偽ってまで他所の会社に――匠美鎖に勤める理由が分からない。

親父が勤め先を隠していたのと何か関係があるのだろうか?


ただの言い忘れとは考えていなかった。会長として助言する程度にしか手を出さない今でこそ好々爺という言葉がぴったりだが、社長を退くまでは経営に関してはむしろ老獪と表現したくなるような抜け目のない手腕だったのだ。

ただそれでも根底には常に、職人としての心意気というかプライドがあったが。


基本的に、浩之は真面目で素直な子だ。親馬鹿かもしれないが、変に気取ったところもひねくれたところもない。これから人の上に立ち会社を引っ張っていかなければならないというのに多少人の好すぎるところがあって、将来社長として立ち回っていけるのか心配なくらいだ。

その浩之が自分から偽名を使うとは考えにくい。まさか……。

「偽名を使う事で、どんな罪に問われる?」

「只今調べております」

「早急に頼む。ちなみに偽名の件、親父の――会長の入れ知恵か?」

「そこまでは分かりませんが……」

本人に訊ねるしか調べようがないだろうが、聞いたところで真実を話すとは限らない。それに訊ねる事自体が調べた事実を物語ってしまう。今はまだ、水面下で動いた方がいいだろう。

「まあいい。その件とそれに関わるところを引き続き調べてくれ。他に何か報告は?」

「はい、あ――その、ですね」

眼鏡を直しながら、瀧本は言い淀んだ。

「なんだ。はっきり言え」


できるかぎり表情を殺して、覚悟を決めたように報告を始める。

「数週間ほど前から会長がご自分の持ち株を売却されていて、すでにそのほとんどがお手元を離れたようです」

額を押さえて呻いた。

「何を考えているんだ、親父は……」

何一つ聞かされていない。つまり会長の独断だ。

株を売却する。それはつまり大株主の座から降りる事を意味する。


考えようによっては、一線から退き経営の全てを息子に譲るという単なる世代交代に思えなくもない。だが親父が会長になり、実質的な経営権は社長である自分にほぼ任されている今、どうしてこのタイミングで、しかも自分に隠してなのかがよく分からない。

特に経営の方針について衝突もしていないし、大きな失敗をして会長の機嫌を損ねた記憶もない。

「何の意図があっての事か、分かるか?」

「それが、株を売却する事で得た資金を元手に、何かをされるおつもりのようで……」



社長室を後にした瀧本は、冷静を装いつつ自分の席のパソコンに向かうとメールを作成する。

打ち出された文章はごく簡潔なものだった。

“すべて予定通り”

後ろめたさを感じないといえば嘘になる。それでも自分は、この計画に乗ったのだ。

瀧本は眼鏡を直すとメールを送信した。

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