Episode_26.10 「海魔の五指」の戦い ――恋人のお守り――


 強烈な波動が過ぎ去った後、船上には不自然なほどの静寂が訪れていた。先ほどまで戦いを繰り広げていた者達が残らず昏倒した結果訪れた静寂だ。その静寂が支配する船上で最初に動いたのはリリアだった。


(今のは一体?)


 その瞬間、リリアは強烈な眩暈と脱力感に襲われていた。だが、他の者達とは違い、意識を失うことは無かった。代わりに、胸の辺り、丁度肌着と素肌の間にチリチリとした違和感が生じていたのだが、リリアはその刺激の正体を確かめる暇が無かった。彼女の視界にぐったりと足元に崩れ落ちた女魔術師アンの姿が飛び込んで来たのだ。


「あ、アンさん、しっかりして」


 外傷は無い、呼吸は有る。だが、リリアの呼びかけにアンはうめき声一つ上げなかった。


「今のをやり過ごすとは、一体どういうからくり・・・・なのでしょう? 精霊の力は役に立たないどころか、餌にしかならないはずなのですがね」


 アンを介抱しようとしたリリアに対して、頭上からそんな声が掛けられた。声の感じは普通に声を掛けたような調子。にもかかわらず、リリアはその声に一種のおぞけ・・・を感じた。全身に鳥肌が立つような、生理的に不快な声だった。


「誰!?」


 反射的に上を見る彼女。その視界が船尾楼閣を捉える。燃え続ける周囲の炎に照らされた楼閣最上部に、人影が見えた。


(一人、いや二人?)


 相手の正体は不明だが、この状況でその場所に味方がいることはあり得ない。その判断で、リリアは声の主が敵対的、しかも今し方船上を襲った波動の原因を作った者だと察する。


(風の精霊よ、北風の王フレイズベルグの名において命じる、切り裂く刃の嵐となって敵を――)


 リリアは高所に陣取る敵の不意を打つため、声に出さずに精霊へ呼びかける。意図したのは「刃のブレードストーム」それを楼閣最上部の空間に出現させようとした。しかし、


「いや、多分無理だと思いますよ」


 と先ほどと同じ声。そして、


(母さん、ダメだ、精霊達が……消えている――)


 というヴェズルの悲鳴のような思念が同時に響く。


「え?」


 反射的に声を上げたリリアだが、少なくともヴェズルが発した思念の意味は直ぐに実感できた。風の精霊が呼びかけに応じないのだ。拒否や無視ではない、そもそも精霊が存在しない、そんな感触だった。


「どういう事……」


 まるで洞窟の奥深く、自然の大気と隔絶された場所に居るような感覚を覚え、リリアは困惑する。だが、彼女に残された時間はそれほど長くなかった。


「先ほどは少し不思議でしたが、次の一手で正体が明らかになるでしょう――」


 まるで他人事のように言う声。そして、


(母さん、逃げて!)


 というヴェズルの悲鳴。


 リリアは、その時になってやっと気付いた。楼閣の上にばかり気を取られていたが、もっと禍々しく恐ろしい存在が自分の頭上に在った事を、


「なによ……これ」


 見上げる頭上には夜空の一部を覆い隠すような円が、いや球体があった。大きさは丁度船の全幅ほど、全面が生々しい肉の色をしており、所々が血管のように浮き出て脈打っている。


 見た事もない物体を前にしてリリアは困惑する。そんなリリアに対して肉の球体は一度大きく蠢くと、次の瞬間グルンとその場で回転した。ちょうど夜空の方を向いていた側をリリアに見せつけるように。


「ひっ……」


 悲鳴が喉に絡む。リリアの方に向いた球体の表面には、一面に人間の口のような構造物がビッシリと張り付いていた。それらは、どれ一つとして同じ形の無い肉色の唇。妙に生々しく、濡れているような艶を帯びてモゴモゴと不規則に蠢く無数の唇、それが無秩序に球体の半面を覆っていた。


 その光景は凡そ人が受け入れて耐えられる限界を超越した冒涜的で嫌悪的な造形といえる。そんなモノに何の準備も無く対面したリリアは、その瞬間、恐怖も嫌悪も吹き飛び、只々心が動かなくなった。恐怖に竦んだとか、腰が抜けた、ではない。完全にほうけてしまい、身動きを忘れていたのだ。


(――あさん、――げて!)


 動きを止めたリリアの心に何者かが思念を投げ掛けてくる。だが、この時、彼女は目の前のおぞましい造形物に心を奪われていた。蠢く無数の唇、何かを囁いているのだろうか? なまじ唇の動きを読む読唇術を身に付けている事が災いしたのかもしれない。


(逃げ――! ――やく!)


 何者かの思念を無視したリリアは、その光景に見入る。そんな彼女の視線の先では、無数の唇が裂け目を繋ぎ合わせるように混じり合うように合体している。そして、いつの間にか大きな一つの口が出来上がる。


 出来上がった巨大な口が、次の瞬間、リリアでも読み取れる言葉を発した。それは、


(タリナイ、タリナイ、オマエヲクワセロ……)


 その瞬間、リリアの心に投げ掛けられ続けた思念が急速に、まるでぼやけた視界の焦点が合うように意味を持つ。


(ユーリーを呼んでくる! それまで逃げて、母さん!)

「ダメよ、ヴェズル!」

 

 退避を呼びかけるヴェズルの思念に対して、意識を取り戻したリリアは反射的にそう叫んでいた。


「アナタは逃げなさい! 早く!」


 雛の頃から面倒を見てきたヴェズルに対して、リリアの母性がそんな言葉を言わせる。だが、この時、どんなやり取りをしようが、すぐ先に待ち受ける破滅的な運命は変わらなかっただろう。


リリアを見下ろす巨大な肉の球体、その大きな唇の先に黒い闇が球状に凝集し始めたのだ。それは火爆波エクスプロージョンの発動過程に酷似している。だが、急激に空間の一点へ向けて収束するのは、朱色の光ではなく夜でも尚昏い闇そのもの。そして、極限まで収縮した闇は次の瞬間、極属性闇の性質を伴った黒い波動と共に爆発する。


船上の高い場所で生じた闇の爆発は、先ほどの波動とは比較にならないほどの破壊を船に齎した。勿論リリアも例外ではない。その瞬間、咄嗟に足元のアンを庇うように覆いかぶさっていた彼女の背を強烈の衝撃波とそれに続く闇属性の波動が襲う。


リリアは今度こそ意識を失っていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る