Episode_26.07 「海魔の五指」の戦い ――氷の棺――
漆黒の竜牙兵が繰り出す猛烈な攻撃を矢面に立って引き受けるのはムエレ。老齢に達した者の身のこなしとは思えない敏捷さは、彼が自身に施した正の付与術によるところが大きい。だが、彼が行使できる魔術は精々が剣を助ける程度のものだ。本格的な魔術師のように強力な破壊の魔術が使えるわけでもなければ、古代ローディルス帝国の魔術師が遺した魔術具のように敵を弱体化させることも出来ない。長年培ってきた技術と経験を以て強烈な攻撃を紙一重で躱し続けるのが精一杯だった。
一方、ムエレが竜牙兵の攻撃を引き付ける間、魔術師アンは出来る限りの魔術を放つ。だが、精々が並の魔術師程度の彼女に出来る事は少ない。行使できる中で最も威力の高い魔術「
そんな中、立ち直ったドリムは、竜牙兵とムエレの立ち合いを、息を詰めて見つめ続ける。渾身の一撃を再び叩き込む、その一瞬の隙を見出そうとしてのことだ。そして、その隙は程なくして訪れる。
「これが最後です!」
アンが火爆矢を放つ合図を発する。その瞬間、ムエレはさっと五メートルほど遠ざかり間合いを開ける。直後、赤色の大きな炎の矢が空を走り、竜牙兵の左側面に炸裂。爆炎と轟音が響く中、大剣を大上段に構えたドリムが震える空気を切り裂く勢いで飛び込む。
「――っ!」
裂帛の気合が爆轟に紛れ込む中、渾身の斬撃は一条の銀光となって走る。ドリムの狙いは竜牙兵の頸骨。それを断ち切れば如何に竜牙兵といえ無事では済まないと考えての事だ。しかし、
――ガンッ!
手応えはあった。固い鉄の棒を斬ったような感覚だ。だが、斬られて宙を舞ったのは竜牙兵のトカゲじみた頭骨ではなく、何も持たない腕の骨であった。火爆矢で姿勢を崩した竜牙兵は、ドリムの一撃を寸前のところで空いている腕で受けとめたのだった。
「しまっ――」
大振りの一撃を放った直後、無防備なドリムを竜牙兵の大槌が襲う。その場から飛び退いて躱そうとしたドリムだが、躱し切れずに一撃を受ける。巨漢が宙を舞い、船縁に叩き付けられる。
「うぅ……」
防御力が皆無な登城時の服装であったドリムはそれだけで全身がバラバラに砕かれたような衝撃を受け、意識を混濁させた。だが、竜牙兵に容赦はない。今の一撃で完全に獲物をドリムに見定めると、吹き飛んだ彼の後を追うように一気に詰め寄り、今度は三又槍をその太もも目掛けて突き込んだ。
「うがぁ」
残酷な激痛がドリムの意識を鮮明にする。三又の穂先が彼の大腿部を貫き、そのまま甲板に縫い留めるように突き立っている。
(動けない!)
激痛などではなく、全身に全く力が入らない状況で、ドリムは鮮明な視界に振り下ろされる大槌を捉えていた。
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その瞬間、ムエレは間合いを取っていたためドリムの窮地に割って入れなかった。そんな彼は、ドリムへの一撃が振り下ろされた直後に、竜牙兵の頭部への攻撃を敢行しようと
(悪く思うな――)
現役時代ならば沸くはずのない感情を押し殺して、魔術陣を展開するムエレ。だが、そんな彼の耳元に、
(ムエレおじさん、お手伝いします!)
と、声が響いた。緊張感を帯びているが、どことなく懐かしい声。少女の響きを残しつつ大人の女性になりつつある、そんな声の主に対して、
「頼む、リリア!」
ムエレは反射的に答えていた。
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追い詰められたドリムの留めの一撃が振り下ろされる。その瞬間、中型船の甲板に異変が起こった。
――キィンッ
一瞬で聴覚を失うほどの強烈な耳鳴りは、船上のその部分だけが急激に気圧を下げた証拠。急激な減圧に伴い薄い
――ゴバァッ!
減圧された空間の一か所が破れ、周囲の空気が奔流となって流れ込む。その奔流の先頭に存在した空気の塊は、今まさに大槌を振り下ろさんとしていた漆黒の竜牙兵を正面から打ち据えると、そのまま反対側の船縁まで吹き飛ばし、叩き付けていた。
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リリアは中型船の渡し板の所まで接近すると、そこでムエレ達一行と竜牙兵の対決を見ていた。そんなリリアは、当初自分が介入する必要は無いと考えていた。生前の養父ジムから聞かされていた「割れ声のムエレ」の強さは、
――凡そ、一対一の戦いでアイツに勝てるヤツは少ないだろう――
というもので、リリアはそんな養父の評価を信じていたのだ。
だが、戦いが始まり直ぐに状況が芳しくないことを察知した。竜牙兵の攻撃は苛烈を極めるもで、それを躱し続けるムエレの身のこなしには目を見張るものがある。だが、
(攻め手が無いんだわ……敵との相性が悪すぎるのね)
それがリリアの洞察だった。
ムエレ一人で戦っている訳ではないが、一緒に居る女魔術師はリリアの目から見ても技量が頼りなく映る。辛うじて、どこか見覚えがある
(頼む、リリア)
ムエレの懐かしくも特徴的な声が承諾を伝える。自分の存在をムエレが察知していた。そのことが、彼女をなんとも嬉しい気持ちにさせる。そして、リリアはその気分の高揚のまま、風の精霊に命じた。
「風よ、彼の敵を打ち据えて!」
意図するところは風の精霊術である
結果として、視界が霞むほど強烈な気圧の変化を伴った風塊が中型船上に吹き荒れ、対象となった漆黒の竜牙兵を反対側の舷まで吹き飛ばしていた。
(まだ終わってないよ、母さん)
リリアの頭の中に少年のような声が響く。声の主は鷹の姿を借りた精霊王ヴェズル。以前はたどたどしい片言めいた思念を伝えるだけだったが、今ではしっかりと言語化された意思を伝えられるまでに成長している。そんな
「そうね、風の力だけだと難しそう……ユーリーだったら何とか出来るんだろうけど」
(……)
ヴェズルの助言めいた思念と目の前の光景を受けて、リリアはほぼ無意識に恋人の名を出す。ユーリーならばどうやってあの竜牙兵を倒すだろうか? 無意識に生じた疑問に対して、これまた無意識な受け答えとして、彼女はユーリーがあの竜牙兵を打ち破る光景を想像する。一方のヴェズルはそんな
(今
そしてヴェズルはリリアの脳裏で活躍を続けるユーリーの姿をかき消すように、自分の考えを思念のままで彼女に伝えるのだった。
「わ、わかったわよ」
意識が逸れていた罪悪感を隠すようにリリアは返事をすると、ヴェズルが思いついた方法を実行するため、同じ精霊術師のジェイコブに助力を求める。
もしも、万が一、この時彼女がヴェズルの思い付いた方法を実行せず、より堅実な方法、つまりムエレ達一行を大型船側に回収しつつ、竜牙兵を中型船にとどめたまま接続を断っていたら、この後の彼女の運命は大分に違うものになっていただろう。
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「ジェイコブさん、水の精霊を船の上に――」
(え、水? 海水でもいいのかお嬢ちゃん)
「凍れば何でも良いわ、早く」
(わかった)
リリアは
二拍ほどの呼吸の後、中型船の片舷 ――接舷している側と反対の舷―― にひと際高い波が突然生じる。波は中型船を少し揺らしつつ、船縁を越えて船上に達した。同じような波が二度、三度と起こると、槍による束縛を逃れたドリムやアン、ムエレを始め竜牙兵までがすっかりと海水に濡れる結果となる。
(これでいいか?)
「まだ、あとは船上に
(なんだい、船を水没させるのはいくら何でも無理……)
「そんなつもりじゃないです、良いからお願い」
(……はいはい)
そのような遣り取りの後、今度は中型船の船上、立ち上がろうともがいている竜牙兵の付近を中心に足元から湧き水のように水が噴き出す。まるで船に穴が開いて浸水しているようだが、実際は水の精霊に働きかけ、一時的に「水」を呼び寄せているだけだ。
その光景を見たリリアは満足すると、次いで夜空を見上げる。そして、
「南天の王ルフの名に助力を乞う。高空を満たす冷気の水瓶よ、寛風の導きに従い我が元へ細き糸水を垂らせ――」
歌い上げるように言葉を発した。
精霊術は魔術と異なり「決まった型」というものが存在しない。厳密にいえば初歩的な術には共通性が多いが、それが高度に発展していくにつれ、術者の個性が如実に現れる。大切なことは、現象を実現させる意思の力と、精霊を使役して実現させる拘束力だ。
その二つは別々の力ともいえるし、密接に関わりあっている力ともいえる。リリアの場合、前者は主に
果たして、リリアが行使した精霊術は、さっそく今の世の精霊術者が成しえる所業を逸脱した強力なものだが、その効果はハッキリと速やかに訪れる。暗い夜空の遥か彼方に揺蕩う凍えた冷気が、その瞬間リリアの求めに応じ、大気を割って細い糸のような流れを海上に齎したのだ。その極寒の冷気を先導するのは天と地の風を繋ぎ混じり合わせる「寛風」の化身であった。
冷気の糸は海上に近づくにつれ、周囲の湿気を凍らせ、薄い月明かりを受けて輝きを帯びる。そして遂にその先端が中型船の船上、起き上がった漆黒の竜牙兵の頭上に達した瞬間、呼び寄せられ、足元に満ちていた水が一気に凍結し、見上げる高さの氷柱を形成した。
――ギギィ……
氷柱に捉われた竜牙兵は冷気の渦から脱しようと藻掻くが、それも一瞬のこと。急激に冷やされた骨格が発する軋み音を最後に完全に氷漬けにされていた。さながら、竜牙兵を捉えた氷の棺のようである。
「ふう……」
溜息のように息を吐く彼女の前方、突然発生した氷柱を呆気にとられた表情に見つめるムエレ達一行の直ぐ目の先で、片舷に偏った状態で発生した氷柱がいよいよ巨大化する。そして次の瞬間、重みに耐えられなくなった船縁を突き破り、氷の棺は暗い海中へ転落していった。
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