Episode_25.10 父として、子として


 乾杯として銀の杯を空けた二人の間には話題を探るような一拍の沈黙があった。しかしそれも束の間の事で、話を切り出したのは国王ライアードの方であった。給仕を前室に下げさせた彼は、自らワインのポットを取って息子の杯に注ぎ足しながら語り始めた。その内容は、ガリアノには意外な事に、謝罪から始まるものであった。


「アリアには今でもすまない事をしたと思っている」


 アリアとはガリアノの生母の名だ。その素性はコルサス・ベート戦争の際、東方国境伯であった当時のライアードの身辺に仕えていたイグル郷の猟兵で、現在のイグル郷の首領レスリック・イグルの妹である。


「しかし、私は今日この時に至るまで、一度もアリアの事を忘れた事が無い。ガリアノ、お前の事もだ――」


 そのように悔悛と慕情の言葉を口にするライアードはおもむろに懐から一つの品物を取り出した。それは掌に少し余るほどの大きさをした木製の薄い箱のようなものだ。外側には蔦や鳥獣を意匠した精緻な彫刻が施されているが、それよりもガリアノの目を引いたのは、脂と手垢が染みて黒ずんだ外観であった。傍目に見れば国王の持ち物としては相応しくないほど薄汚れて見える。


 しかし、ライアードはその表面を愛しむように撫でると中央の止め金を外す。本のように開かれた箱の中身は見開き状に納められた二枚の女性を描いた絵画であった。二つとも同じ女性を描いた絵であるが、片方は胸から上の肖像画で少し緊張したような、また見方によっては笑いを堪えているような顔に見える。そしてもう片方は少し斜に構えた立ち姿を描いたものだが、奇妙な事にその姿は甲冑を纏っている。


 両方とも絵画としては小さいが、それでもかなり精緻に描かれており、絵の中の女性の溌剌とした生気と香り立つような美しさがガリアノにも伝わって来た。


「これが母様ですか?」

「そうだ、お前の母アリアだ」


 ガリアノの問いに答えるライアードは、アリアの絵を二人の間のテーブルに立てると、その前にも銀の杯を置く。丁度親子三人でテーブルを囲んでいる様子を見立てたような構図だ。


「……声を聞く事も、手に触れることも出来ないが……それでもアリアは過ちを犯した・・・・・・私と共にあるのだ……」


****************************************


 ガリアノは正直なところ少し面食らい、毒気を抜かれた気分であった。


 これまでも宰相ロルドールや家臣達を交えた晩餐の経験はあった。また、軍議や内政に於ける会議で国王ライアードの様子を何度も見ていた。だが、それらのいずれも、目の前に居る男とは異なっていた。今、この場所に居るのはコルサスの覇権をレイモンド王子と競う王弟派の首領ライアードでもなければ、宰相ロルドールの言う事を唯々諾々いいだくだくと追認するだけの弱気な国王でもない。一人の女性を愛し、失われた愛を心に抱き続ける感傷的な一人の男である。


 だが、その愛情とも未練とも取れる感情の向けられる先が自分の母であると知り、ガリアノは不思議と悪い気はしなかった。寧ろ、同情するような、又は憐れむような気持ちが芽生える。それは、今日の日中に謁見の間で感じた気持ちの延長線上にあるものだった。また、


(手の届かない人を想い続ける、か……私も似たような者か)


 と、ほんの一刻だけ、ターポの広場でまみえた少女を想い続ける自分自身をライアードに重ねていた。


(親子……なんだな)


 彼は改めて見開きに納められた二枚の絵を見る。王の側に仕える「王の隠剣」猟兵といっても元は卑しい身分だ。この時代、そんな身分の低い者の姿を絵に留める慣習は無い。そのため、ガリアノが母の肖像や姿絵を目にするのは初めてであった。


「美しい人ですね」

「ああ……そうだ、そうなんだ……美しく強く、私を支えてくれるべき女だ……った」


 ガリアノの言葉を肯定するライアード。その心中には、それほど愛した女性と添い遂げられなかった現実が蘇る。当時既に国王だった兄ジュリアンドから押し付けられた婚姻。ロルドールの妹に罪は無いが、ライアードは不満であった。にも係わらず、当のジュリアンドはアートン公爵の娘、美姫と誉めそやされたアイナスと周囲を巻き込む大恋愛をした上でその愛を成就させた。


 闊達で無邪気な若い王ジュリアンドは、実弟が抱く黒い感情に気付く事が出来なかった。そんな兄の、王妃アイナスの懐妊を祝え、という言葉が当時既にアリアを亡くし、ガリアノをイグル郷へ預けざるを得なかったライアードの心を無遠慮に踏みにじった。突発的な怒りの暴走によって、ライアードは兄の胸に剣を突き立てた。それが、今に続く内戦の始まりであった。


「……ワインが……空になっておるな」


 だが、その事実は愛する人の忘れ形見であっても告げる事が出来ない。ライアードは心の中に束の間蘇った当時の怒りと、その後の虚無感を押し殺すと、銀製のポットを見て言う。呼び鈴を手に取ると短く一度鳴らした。リンと澄んで高い音が鳴った。


 一方のガリアノは、ライアードが昔の出来事を思い出し、それを再び心の底に押し込める間の沈黙を見て、憐憫れんびんの情を深めていた。口には出せない感情が渦を巻いているのだろうと察したのだ。そのため、内政云々について申し入れようという考えは日を改めることにした。おかしな話だが、これまで父とも思わなかった男に急に親愛の情が湧いたのだ。


「陛下……いや、父上……」


 「父上」と恐らく初めてガリアノに呼ばれたライアードは目を細める。そして、続く言葉を待つような表情となった。その時だった。


 バンッ――


 給仕の所作ではあり得ない勢いで前室に続く扉が開かれる。


「なに――」


 その様子にライアードは訝かしむ声を発するが、言葉は途中で途切れた。言葉だけではない、部屋の中全体が無音の空間と化していたのだ。


****************************************


(静寂場? 曲者か?)


 扉に背を向けて席についていたガリアノは状況を素早く判断していた。幼い頃から猟兵の郷に預けられ、同年代の者達同様に訓練じみた日常生活を送っていた彼の感覚は凡庸な男のものではない。扉が乱暴に開かれる直前、扉の向こう側から膨れ上がる殺気を察知していた。


 そして起こる室内の異変。ガリアノは咄嗟に席を立つと、椅子の背もたれを掴み振り向きざまにそれを叩きつけた。ゴンッという手応えと共に、給仕服姿の女が重厚な椅子の一撃を受けて床に倒れる。


(やはり曲者、暗殺者か?)


 ガリアノは打ち倒した女の手に刀身の細い小剣スモールソードを認め確信する。だが、部屋に押し入って来たのは一人だけではなかった。他に同様の給仕服姿の女が二人、そして後宮侍従姿の男が二人、男の内の一人は預けたはずのガリアノの剣を持っている。彼等は室内のガリアノとライアードに対して二手に分かれて襲いかかった。


 ガリアノは椅子をこん棒替わりに振り回し暗殺者を寄せ付けまいとしつつ、何とかライアードの元へ近づこうとする。しかし、最初の一手を見事に防いだガリアノに対して、暗殺者は手強い相手と認識したのか、三人掛りでガリアノの行く手を阻む。そして残りの二人がライアードへ急迫した。


(くそっ!)


 ガリアノは直ぐに防戦一方となった。充分に訓練された暗殺者達の刃は、振り回される椅子を掻い潜りガリアノの腕を浅く斬り付け、更に身体を狙う。嘲笑うかの如く迫る白刃を躱すだけで精一杯なガリアノは堪らず大きく跳び退る。そして刃の間隙にライアードを見た。


「――っ!」


 その瞬間ガリアノが発した言葉が何だったのか、それは静寂の空間に吸い取られて伝わらない。だが、彼の瞳は残り二人の暗殺者に襲われる父ライアードの姿を見ていた。一人が突き込んだ小剣を銀製のポットで何とか防いだライアードだが、続く別の一人の剣 ――ガリアノの剣―― をまともに肩口に受けていた。パッと血飛沫が上がり、天井を汚す。倒れ込むライアードの手がテーブルクロスを掴み、食器類や見開きの絵が彼の上に落ちた。


「――っ!」


 ガリアノの口が再び何かを発する形を取る。その時、静寂のまま狂乱に支配された部屋に暗褐色の何かが飛び込んできた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る