【正しき主編】東方戦線

Episode_23 プロローグ 「割れ声」の帰郷


 二月半ばの冬の或る夜、一人の男が森の中を歩んでいた。コルタリン山系の西に広がる森林だ。タバンの街からは二日ほど南東に離れた場所に位置している。タバンから続く斜面が山地に変わる場所、幾筋もの尾根が低い稜線を描きながらデルフィル湾へ向かう、そんな低い尾根の谷間に広がる森であった。


 春の訪れはまだ二カ月以上先である。そのためこの夜も寒かった。だが、森の中を進む男は暖や明かりのための炎を燃やさず、月明かりが届かない真っ暗な森の中を只管歩み続けている。防寒着代わりに体に巻きつけた暗褐色の外套が枯れた下草を揺らす音以外には全くの無音であった。


 人里離れた谷間の森を真夜中に物音立てずに進む、この男が尋常な旅人であるはずは無かった。痩身で旅荷は驚くほど少なく、小さな背嚢の他、背中には背負った反りの浅い三日月刀シミターを持つのみだ。一見すると冒険者にも見えない事は無いが、コルサス王国王弟派と王子派が睨み合う危険な地域で好き好んで仕事を受ける者は稀であろう。


 そんな正体不明の男だが、その歩みは一段速度を増していた。森の中に薄く漂う焦げ臭さ、そして、腐敗した生き物が放つ死臭が原因だった。不吉な臭気に歩みを速めた男は、やがて駆け足の早さで一つの斜面を登る。そして、斜面の向こう側に広がる光景に絶句した。


 そこは谷間に拓けた土地であった。男が知るこの場所は、男が所属する組織の分派が築いた隠れ里であった。コルサス王国タバンの太守にくみし、裏の仕事を受ける事で細々と暮らしていた二百人弱の人間がいたはずだった。だが、今男の目に飛び込んできた光景は、月明かりに照らされた廃墟であった。数日燃え続けたのだろう、里の粗末な建物は燻った煙を薄く夜空へ上げている。


 周囲への警戒を解くことなく油断ない足取りで里に足を踏み入れた男は、滅多なことでは動かない表情を曇らせた。彼の目の前には、焼け落ちた家の中にも外にも大勢の人の死骸が散乱していた。全てが燃え尽き消し炭同然である。そのため辛うじて大人か子供かの判別は付くが、男か女かの違いは分からなかった。


 惨憺たる状況であるが、この凶事を行った者達の死骸もまた多数見られた。明らかに大柄なオークの死骸が里の住民に混じって消し炭となっていたのだ。それは里の住民が懸命に抵抗した証しであった。だが、結果はこの状況の通りである。


「全滅……無明衆の手引きか……」


 「割れ声」の綽名を持つ男の声には珍しい感情がこもっていた。長年、依頼のために対象者を冷淡に殺し続けた男には似つかわしくない感情、つまり「憎悪」だ。だが、それも仕方なの無い事だろう。この里はこの男の故郷であったのだ。


 周囲を見回す男の視界は、月明かりに無残に照らしだされる焼け落ちた家屋の残骸の山しか映さない。幼いころに里を離れ、ベート国内の本部で訓練を受けた男がこの里に戻ったのはそれから四十数年後、僅か四年前の事だった。


 男は思い出す。


 ベートの長老部から多額の金を受け取り、後は死が訪れるまでの時間をこの里で過ごすつもりだった。


 それからは欠伸あくびが出るほどつまらない、しかし平凡で静かな日々が流れた。大勢の人間に不幸をまき散らした自覚のある男は、しかし、自分の余生が穏やかである事に感謝したりもした。人間としても、別人のように柔らかく角が落ちたと思ったものだ。だが、退屈な事には変わりは無かった。


 そんな彼に転機が訪れたのは二年半前だった。突然ベートの長老部から特命の指示が来たのだ。それは、


 ――「割れ声」のムエレよ、西方辺境に進出を目論む南方の悪鬼「無明衆」の動きを探れ――


 というものだった。


 その後、ムエレはこの里を拠点として、西方辺境域の各都市の情勢を洗い直した。時は、コルサス王国王子派がディンスを陥落させ、リムルベートと四都市連合がインヴァル戦争に突入する時期であった。西方辺境の各都市へ足を運ぶムエレは、里を不在にする時間が長くなった。


 ムエレが不在の間、里の人々にも変化があった。彼等を庇護するタバン太守アンディー・モッズの命により、仕事が舞い込んだのだ。それはディンス陥落の混乱中にレイモンド王子を襲う、というものだった。この時、重大な任務に里の面々はザクアから下賜された宝剣を用いて事に当たった。だが、長く暗殺という稼業から離れていた里の面々は詰め・・が甘かった。


 後から、その顛末を聞いたムエレは、自分がいたら必ず成功させたと思った。そして、任務失敗のために帰らなかった彼の従弟とその娘の冥福を祈った。祈る神など持たないが、とにかく心に念じたのだ。


特にレイモンドに一太刀浴びせたという娘の方は、年頃から元相棒のジムが大切にしていた或る少女を連想させる存在だった。そのため、ムエレは幾許いくばくかの怒りを感じた。だが、それは或る意味宿命めいたものである。そのため、ムエレは非業の死を遂げた者達への哀悼を感じたが復讐を期するまでには至らなかった。


 そして時が過ぎた。リムルベートと四都市連合の戦いが終結した後、ムエレの注目は戦線の後方で繁栄を保ったデルフィルに向いていた。自由的な交易都市国家は後ろ暗い者達の巣窟に成り易い。


 ムエレがデルフィルへの潜入を始めたのが昨年後半だ。果たして結果は大正解だった。今は亡きノーバラプール盗賊ギルドの残党の伝手を使った探索は、不審な人物を探り当てることに成功していた。そして、ムエレはデルフィルの港湾地区で二人の労働者に扮した男達の会話を盗み聞きし、その後を付けた。彼等は、打ち合わせ通りに「半月」つまり窃盗を実行すると、そのままダルフィルの北へ向かい、盗品を魔術師風の人物に託した後は「霧散」つまりバラバラに分かれて姿を晦ました。


 だが、ムエレの目はその内一人を追い続けていた。そして、辿り着いたのがタバンの街であった。そこまでの道中は街道を外れ、荒野を渡り、森に分け入るものであった。だが、陸路を選んでくれたのが幸いした。西トバ河を秘かに渡り、展開した王子派西方面軍を大きく迂回した男はこの年の一月にタバンへ入った。そして、仲間と思しき面々と合流すると直ぐに行動に掛った。彼等は二手に分かれたのだ。


 ムエレが追ったのは、海岸線の街道へ進出した者達だった。そして、彼は馬車の一行が崖下へ叩き落とされるのを目撃した。翌朝早くに、崖下に落ちた馬車を確認したムエレは、謀殺された人物が里の人々を庇護していたアンディー・モッズだと確認した。その後、ムエレは直ぐさま里に引き返した。だが、間に合わなかった。


(……やる事が出来たな)


 言葉にはならない。だが、足元に転がる消し炭同然の死骸を見つめて、ムエレは内心でボソリと呟く。「割れ声」の綽名よろしく、内心で呟いた声すら割れて聞こえるのが可笑しかった。そして、安住の地を失った事が悲しかった。


 しばらくすると谷間の隠れ里には人の気配は完全に消え失せていた。タバン太守の庇護の元、細々と生き続けていた彼等は、その庇護を失い誰にも振り返られることなく朽ちていく。鬱蒼とした森が彼等のしかばねを覆い隠すまで、数年と掛らないだろう。

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