Episode_22.22 炎の下で Ⅰ
慣れない魔力欠乏症の症状に、リリアは一瞬地面に膝を着いた。胃の腑がひっくり返るように脈打つが、生憎吐き出すほど食べ物を摂っていない。そのため、彼女は口に溜まった苦い唾を地面に吐くと直ぐに起き上がる。そして、再び意識を風の精霊に向けようとした。だが、そんなリリアに駆け寄る者がいた。貧民街の住民である中年の婦人だ。
「リリアさん! 大変、ガンのところのメサが居ないの!」
リリアに駆け寄ったのはその婦人以外にも数人、同じ歳ころの女性達だ。彼女達は、労働者ガンの妻であるメサが見当たらないと口ぐちに言う。
「メサは先月赤ん坊を産んだばかりなの!」
「もしかしたら逃げ遅れているかもしれないわ!」
「なんとかならないかしら?」
トリムの街では貧民と呼ばれる彼女達だが、同じ階層での結束は強い。皆が赤子を抱えて逃げ遅れたメサという女性を心配している。
(ユーリーなら、さっきの一言で動いてくれるわね。じゃぁ、私は――)
「分かりました。メサさんは私に任せて、皆さんはスランドさんの後に付いて行って下さい」
と言うと煙を上げる貧民街へ戻って行った。
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解放戦線の指揮官マズグルは思い通りに展開する戦況に満足していた。
トリム城塞に立て篭もる王弟派第二騎士団の留守居組の数は千に満たない。少数ゆえに、恐らく城塞に立て篭もるだろう。一方、四都市連合の傭兵部隊は五個大隊二千五百人だ。その内二つが港の防衛に当たり、二つが港湾ギルドの守りを固めている。
唯一気がかりなのは、街の北西に広がる貧民街での火災の消火に向かった一個大隊の動きだ。彼等が消火作業を放棄して港かギルドの防衛に合流すれば戦力は拮抗してしまう。勿論そうならないように、彼は二百人の解放戦線兵士と神聖騎士団一個小隊を貧民街の隣の区画に潜伏させ居ている。その兵士達は、消火作業に当たる傭兵部隊を攻撃し、かく乱と足止めすることが目的であった。今のところ、その目論見は成功しているように見える。
結果として相手の少ない戦力を分散させることに成功したマズグルは、視界の正面に港湾ギルドの建物を捉える。彼の元には解放戦線の騎兵百に兵士三百と一個小隊分を欠いた神聖騎士団の大隊、そして三千を超える民衆派の人々が居た。その内戦力になるのは解放戦線と神聖騎士団だけである。戦力としては決して充実しているとは言えない。だが、砦のように守りを固めた港湾ギルドからは、四千に近い軍勢に見えるだろう。
「マズグル殿、仕掛けないのか?」
そう声を掛けてくるのは神聖騎士団の大隊長である聖騎士モザースだ。彼は当然アフラ教会の熱烈な信者であり、教会の階位では教主 ――六神教では司祭に該当するため、分かり易いように司祭と呼ばれる事もある―― の地位を得ている。だが「不戦平和」を解くアフラ教の教義に反して、彼は戦いの前の興奮で顔を紅潮させていた。
信仰と信者を守るために、敢えて教義の一部に反して暴力を振るう、その矛盾した行為を「自己犠牲」と捉える考え方は神聖騎士団の面々にとっては常識であった。無力な
しかし、戦いを急かすような聖騎士モザースの言葉にマズグルは首を振る。
「我々の目的は港の確保。それ以上の結果を求めて必要以上の犠牲は出せない」
マズグルの冷静さは筋金入りだ。彼が大軍に見える部隊を港湾ギルドの前に展開する理由は、一言でいえば「威圧」のためだ。今、港湾ギルドを守っている敵の数は千。それらをこの場所に留めておくだけで十分だと判断したのだ。更に、
「港側の戦況次第では、モザース殿にはそちらへ回ってもらう可能性がある。いずれにせよ、今は様子見」
という理由もあった。
貧民街に火を放ち、労働者を蜂起させ、敵の戦力を分散した上でもまだ勝利を確信せずに次の動きに備えるマズルグルは戦略家としても指揮官としても優秀な人物であった。その判断に強力無比な聖騎士達を率いるモザースも頷かざるを得なかった。
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黒煙が重く頭上に圧し掛かるような貧民街をリリアは駆ける。ガンとメサの家は貧民街の東側、民衆派が作った防火帯の近くにあった。その付近にはまだ炎が到達していないが、先に火事場に入った王弟派の兵士と傭兵達が延焼を食い止める防火帯を構築している場所の直ぐ北であった。
今のリリアは若鷹ヴェズルの視界を得ていない。消耗が激しいことも理由だが、何より頭上から見下ろしても一面煙に満たされた貧民街では見通しが利かないのだ。そのため、地の精霊と風の精霊が伝える気配を頼りに進んでいた。そして彼女は前方で大勢の人間が動き回っている気配を感じ取った。
(傭兵か王弟派か……)
リリアは一瞬躊躇った。このまま進めばその集団の中に出てしまう。彼等から見れば、火事場に戻ってきた自分はまさに火事場泥棒に見えるだろう、と思った。そうでなくても、不審者と疑われるのは間違いなかった。だが、回り道をする時間も無い。既に炎は直ぐ北まで迫っており、後十分もすれば周囲は炎の熱と煙に包まれるだろう。そうなると、身動きが取れなくなる。
(見つからないことを祈るしかないか)
そう覚悟を決めたリリアはなるべく気配を殺すと前進を続ける。そして、雑多な掘立小屋の間をすり抜けると目の前が開けた。王弟派の兵士と傭兵達が急造した防火帯だ。だが、そこでリリアが目にしたのは、延焼を防ぐ作業を続ける兵や傭兵ではなかった。
「こんな時に、何やってるのよ……」
思わずそんな呟きが漏れる。リリアの目の前には戦いを繰り広げる男達の姿があったのだ。
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王弟派の小隊と傭兵大隊は消火に当たっていたところを横から弩弓の攻撃を受けていた。明らかに民衆派の仕業と分かるが、火災消火のために出動した彼等は弓矢の備えが僅かであった。そのため、撃ち込まれる弩弓の矢に対して応射出来る矢の数は非常に少ない。そして、火矢として撃ち込まれる民衆派の射撃は彼等の被害を拡大させていた。
そんな厳しい局面に、先に根を上げたのは王弟派の小隊であった。
「この場所は一旦捨て置き、もっと西へ移動する!」
小隊長である騎士は、四都市連合の大隊長にそう言うと兵を率いて西へ移動しようとする。一方、四都市連合の大隊長は、
「我々
とやや言い訳めいた言葉を発すると、その後に続いた。しかし、民衆派、正しくは解放戦線の兵士達がそれを許さなかった。彼等は指揮官マズグルから「長く敵兵を火事場に留めておくことが勝敗の鍵を握る」と訓令されていた。そして、民衆の総意とアフラ教会への信仰による統治を志す兵士達は危険な賭けに出た。防火帯を渡り貧民街に進入すると後退する敵兵に近接戦闘を仕掛けたのだ。
「打ち出てくるならば、相手をするまでだ。迎え討て!」
四都市連合の作軍部将校である大隊長は、部下の傭兵達に転進、迎撃を命じた。すると、少し先を進んでいた王弟派の一個小隊もそれに
数の差は五百五十対二百である。それらの兵士達が舞い狂う火の粉の下で衝突した。
当然ながら、衝突直後は王弟派と四都市連合の傭兵部隊が多勢を頼りに押した。飛び道具を装備していないとはいえ、近接戦闘では数こそ力である。しかし、状況は直ぐに
神聖騎士団の面々は強力な加護の神蹟術で自らを強化すると、恐れを知らないように敵集団に突入した。先の戦いで彼等の強さを身に染みて知っている傭兵達はアフラ教会紋を見るだけで震え上がった。
「怯むな、敵は小勢だ!」
「コルサス王国の名誉に掛けて、敵を打ち負かせ!」
小勢の軍勢に押されかかった自軍に四都市連合将校と王弟派騎士の叱咤が飛ぶ。そして、
「そこもとは、精強の誉れ高い聖騎士と見受けた。いざ勝負!」
起死回生を狙ったのは王弟派の騎士だ。若い故の思い切りの良さで神聖騎士団の部隊を率いる小隊長に一騎打ちを挑んだ。
「真に聖なる教えを知らぬ猛き者、その勝負受けた」
二騎はお互いを見据えて距離を詰める。両者の武器は共に馬上槍であるが、聖騎士の持つ槍の方が太く長大だ。だが、王弟派の若い小隊長はそれに構わず馬を疾駆させる。名誉を掛けた騎士の一騎打ち。戦場において誰も邪魔をしないのは、その覚悟と決意、そして矜持を邪魔しないための作法である。それは西方辺境だろうと中原地方だろうと、一致した文化的な概念である。だが、海洋国家である四都市連合は違う。四都市連合の将校は、王弟派の騎士の後ろを追うように駆けだした。
だが、一騎打ちに入った騎士達はそんな周囲の光景は目に入らないように目の前の敵に集中する。そして、両者同じ呼吸で騎馬を駆けさせる。
ガン――
二騎の騎士が交差する瞬間、鐘を打ったような音が鳴る。そして
王弟派の若い騎士は渾身の一撃を馬上槍に託し突き出す。一方聖騎士はその穂先を自身が持つ長大な槍で斜め上に受け流すと、そのまま鋭い穂先を突き込んだ。
ドン――
鈍い手応えと共に聖騎士の馬上槍が若い王弟派騎士の胸を貫いていた。だが、王弟派の騎士はこと切れる間際に、最後の抵抗として自らを刺し貫いた槍を握るとそのまま落馬した。聖騎士の槍がもぎ取られるように地面に落ちる。その瞬間、
「とったぁ!」
と気合一閃、後から駆けだした四都市連合の将校は、乗り手を無くした馬の鐙に足を掛けると宙高く跳躍する。手には武器の類は持っていない。割り切った体当たりである。だが、それだけに動きは俊敏だった。
「なんとぉ!」
聖騎士は咄嗟に腰の剣に手を伸ばすが、それを抜き放つ事が出来ない。そのまま四都市連合の将校の体当たりを受けてしまった。
衝突の瞬間、四都市連合の指揮官は
グシャ――
鉄の装甲越しに硬い感触が潰れる。四都市連合の指揮官は、地面と自分の膝の間で聖騎士の頭を
「聖騎士など恐れるに足らん! アフラ教、何するものぞ、敵を排除せよ!」
四都市連合の将校は大声を上げる。卑怯な作法と言えばそれまでだが、勝利が究極の目的である彼には当然の行為だ。そして、その勇気と成果は傭兵達に伝播した。神聖騎士団の登場により浮足立っていた彼等は、まるで別の軍勢のように敵に突進していった。
火災現場であることを忘れたような戦いである。その戦場を小さな影が横切り、東の防火帯を目指しても、誰も気に留める者は居なかった。
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