Episode_22.19 動乱の幕開け
翌日2月11日
数日前からトリムの街は乾いた北風に晒されていた。遥か北の彼方、北氷洋から吹き込む風である。この風は天山山脈の北側に位置する北方の国々に湿度を雪として
この日もユーリーは早朝日の出前から港の作業現場にいた。まず麦粥の配給を受け、それを掻き込むように平らげると、貧民街の労働者達と作業を開始する。聞けば、停泊中の三隻の大型帆船は三日後にコルベート経由でオーバリオン王国へ向けて出港するということだ。そして、入れ違いに別の大型帆船が入港する予定になっていた。次に入港する船には増援の傭兵部隊が同行しているということであった。
(流石に五個大隊程度では戦力に不安があるのか)
とは、ユーリーの穿った考えであったが、恐らく正解である。
港の作業現場には、日が昇り始めてから別の労働者達が集まりだした。彼等は民衆派の労働者達が一時去った後も港に留まり仕事を続けた者達だ。多くが港湾地区の労働者用安宿を
そして、それから約半時間後に、ダラダラとした様子で集まってくるのが民衆派の労働者達だ。日々数が戻りつつある彼らだが、今日はざっと見ても千人近くで押し掛けていた。彼らは後から補充された貧民街の労働者同様、一日二度の食糧配給、という条件で働くことを認められていた。そんな彼らだが、貧民街の労働者は
民衆派の労働者としては、元から居た労働者が同じトリムの街の住民でありながら四都市連合に協力する「裏切り者」のように見えたのだろう。だが、元から居た労働者にしてみれば、民衆派の息がかかった労働者達は勝手に作業を放棄し、自分達の労働条件を危うくしている元凶であった。対立するのは仕方ない状況である。そんな状況であるから、作業の大半を担うのは黙々と働く貧民街の労働者達であった。
そして昼ごろ、労働者達の対立を決定的とする事態が発生した。四都市連合に接収された港湾ギルド、つまり労働者達の雇用主がある発表を行ったのだ。それは、
――有給労働者は本日を以って解雇とする。給金は各口入れ屋が支払うものとする。労働継続を意図するものは、配給労働者として明日以降も働くことができるものとする――
というものだ。発表と同時に非番であった傭兵部隊が港湾ギルドの警備に加わる。そして、千人に増えた武装した傭兵が、抗議に押し掛けた五百の労働者を押し返すことになった。武装した傭兵に敵わない彼等は、次いで民衆派の労働者達と小規模な喧嘩騒ぎを起こす。だが、こちらは、港の警備を行っていた別の傭兵部隊によって仲裁され、もっぱら元の労働者側が暴力的な制裁を受けることになった。
傍目で見れば、四都市連合が民衆派を守っているようにも見える奇妙な構図であった。
その後、解雇された労働者が起こした騒ぎは次第に治まると、彼らは港から追い出されるように、
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リリアはこの日も昨日同様、貧民街の掘立小屋を回っては家に残っていた老人や婦人の説得を試みる。スランドは午前の早い時間に「急用ができた」といって店に戻っていた。そのため、午後は彼女一人で家々を回る。
昨日はあまり手応えがなかったが、この日は一変して手応えがあった。昨晩の内に「王子派軍が北の森で待っている」という話は十分に広まっていたようだった。港でユーリーとその協力者達が男達の間に広めた話との相乗効果であった。そのため、昨日は興味がなさそうだった者達も、もっと詳細を聞きたがった。そんな人々にリリアは、
「街と森の間の距離は約一日です。足の不自由な人のために荷馬車を準備します。近いうちにお知らせしますので、全員で一緒に逃げましょう」
と語っていた。逃亡は十家族前後に分けて行う方法と一気に行う方法が考えられた。しかし、待つ側の王子派軍の状況が、どれほど余裕があるのか分からない。更に港の労働者として働く人々が、櫛の歯が抜けるように減っていけば当然警戒される。後半の人々が逃げにくくなる事を懸念して、リリアは事前に「逃げるなら一度に」とユーリーやスランドと決めていたのだ。
そしてこの日一日、貧民街を精力的に歩き回ったリリアは夕方までに三百軒の住居を回っていた。スランドによれば、街に残った貧民達は約千世帯であるから、昨日と今日で半分以上を回ったことになる。
「はぁ……お腹空いたな」
思わずそんな声が漏れる彼女は、最後に貧民街の東の端を訪れた。そこは昨日ヴェズルの視界で確認した住居が撤去されて道のようになった場所である。幅三メートルから五メートルに渡って住む人の居なくなった住居が取り壊され、まるで一本の道のようになっている。その場所に近づいたリリアは打ち壊された家々の向こう側、民衆派の勢力圏内に大勢の人々の気配を感じると物陰に身をひそめた。
夕暮れ時、冬の夕日は西のコルタリン山系よりも北寄りの、丁度リムン峠辺りへ沈む。そんな夕日が投げかける血のように
(血の……いえ、炎の道……)
その光景を物陰から見るリリアは、ふとそんな言葉を連想した。そして、リリアは
(……大勢の男……防火用水かしら、水桶を積んでいるわね……)
風の囁き、地の囁き、を両方同時に使う彼女は、空白地帯を隔てて十数メートル先の家屋の影で、大勢の人々が大きな樽に水を流し込み積み上げている姿を感じていた。それは、季節を問わず、都市部では頻繁に見られる火災対策の様子であった。
(確かに、火事には気をつけたい天気だものね……)
ここ数日乾燥した北風が吹き続ける状況に、リリアは彼らの行動を結びつけた。そして、
(そろそろ帰りましょう。ユーリーとスランドさんと、具体的な逃走計画を立てなくっちゃ)
と考えると、彼女は踵を返し、黄昏時の貧民街へ消えていった。
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その日の夜、スランドの口入れ屋で合流したユーリーとリリアはお互いの一日を報告し合った。ユーリーは労働者の一部が解雇された事実を伝え、リリアは昨日と打って変わって貧民街の反応が好転していた事を語った。
特にリリアが伝えた貧民街の人々の変化は、ユーリーをも元気付けるものであった。そして二人は老人や子供を乗せる荷馬車の手配をスランドに頼むため、彼の部屋を訪れた。
一方、二人の訪問を受けたスランドは、少し困った表情ながら彼の事情を二人に話した。それは、
「今日解雇された連中に半月分の給金を渡さなければならなくなった」
ということだった。午前中に「急用ができた」と言って店に戻っていた理由はこの事実であった。だが彼はひげ面で豪快に笑うと、
「高々七十人の半月分の給与だ、何てことは無い」
という。そして、
「荷馬車は三十台ほど必要だな……直ぐには難しいが一週間以内に準備する」
と二人に約束した。そんなスランドに対してユーリーは、
「
と申し出た。その手にはぼろ布のような上着の内側に仕込んでいた革袋が握られている。隣のリリアも同様に革袋を懐から差し出す。二人合わせて金貨百枚が入った革袋である。その言葉と様子にスランドは一瞬言葉を呑んだ。
「良いのか? そんな大金を……私なんかに」
ひげ面の強面ながら、根は善人な彼としては至極当然な言葉である。対するユーリーは、
「良いも悪いも無いですよ。金貨は人ではない。だけど上手く使えば人の助けになる……上手く使える人が持たない限り、金貨は死んだ人と同じです……僕の養父の言葉ですが」
と言った。
「そうか……有難い」
スランドはそう呟くとホッと溜息を吐いた。金貨百枚もあれば、荷馬車三十台を手配してお釣りが来る。実はこの時、スランドは
「これから事に掛る。明日中に準備をしよう。お嬢ちゃんは引き続き人々の説得を、ユーリーも労働者達に周知してくれ」
「じゃぁ、詳細は荷馬車の手配が整った明日に」
「そうだな、たのむ」
そして、この夜は解散となった。ユーリーとリリアは自室に戻る。そして、しばらくの間、例の「一緒に寝ようよ」「嫌よ、私臭いもん」のやり取りを少しした後に、別々のベッドで眠りについた。
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アーシラ歴498年2月12日 早朝
翌朝のユーリーは普段よりも一時間早く目覚めると口入れ屋を後にしていた。普段よりも仕事場に向かうのが早いのは、昨日の騒動で予定の作業が終わらなかったためだ。そのため、貧民街から来る労働者もユーリー同様一時間繰り上げて作業場に向かっているはずだった。
「気をつけてね、ユーリー」
「リリアも……大丈夫だと思うけど、油断は禁物だ」
「お互い様よ、行ってらっしゃい」
リリアはそう言うと、自分の唇に押し当てた指先でユーリーの唇をそっと撫でた。そんなやり取りを部屋の前で行った後、ユーリーは港の作業現場へ向かった。一方リリアも、ユーリーにつられて早く起きたので、そのまま貧民街行脚に向かった。
リリアは通い慣れたトリムの通りを進むと、トリムの城壁を右手に見ながら北を目指した。まだ夜明け前の早朝であるが、道すがら、仕事場へ向かう貧民街の男達とすれ違う。いつもは力無く足元に視線を落として先を急ぐ彼らだが、この朝は皆しっかりと前を向いて歩いていた。
(ユーリーと私の説得の効果があったのね)
その様子に、リリアは少し嬉しくなった。だが一方で、敵中での活動を長く続ければいつか「破綻」が訪れる事も認識している。
(出来れば早めに街を離れたいわ)
そう思うリリアは、殊更周囲の気配に警戒しつつ通りを進んだ。トリムの街の西口から南の港に掛けては、王弟派第二騎士団の居残り兵士や傭兵がまれに巡回している。出くわしたとしても、貧民街の少年に変装したリリアに声をかけてくる者は居ないだろうが、それでも彼女は用心して進む。そして、ようやく朝日が東の空に顔を出したころ、彼女は目的地の南端に辿り着いた。そこは、トリムの街の西口から城塞へ続く道を北に逸れ、商業区の外周をなぞるように緩く曲がりながら東へ向かう道の途中だ。この先北側の一帯が俗に言う「貧民街」であった。
リリアの目の前には、昨年に起こった傭兵部隊による暴力行為の後、修復されることなく荒れ果てたままのみすぼらしい街並みがある。彼女はそこへ足を踏み入れる前、一度深呼吸をした。ふと、焦げ臭いにおいを感じた彼女は、顔を顰めた。
異変はその時起こった。
その異変を報せたのは、上空を舞っていた若鷹ヴェズルであった。僅かな時間に成長を示した若い鷹は少年のような意思の言葉で
(家が燃えているよ!)
言葉を伴う意思と共に、リリアの視界にヴェズルの上空からの視界が割り込む。そこには、俯瞰した貧民街の掘立小屋の内、最も街外れの北西側の住居が煙を上げている光景があった。しかも、
(火を付けた人だ)
ヴェズルはそんな意思を発すると、その視野の一点に焦点を合わせた。そこには、貧民街から東の民衆派の居住区へ走り去る数十人の男達の姿があった。何とも分かり易い事に、男達全員が松明や油の入った瓶を手に持っていた。
「放火? いえ、焼き討ち?」
リリアは咄嗟にそう叫んだ。次の呼吸で吸い込む早朝の空気には、明らかに分かる濃い煙の臭いがあった。その事実が、何よりもリリアの叫びを裏付けていた。
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