Episode_21. +After Episode_2 惚れた腫れたの紙一重
顔面蒼白となったセブムは幽鬼の如くフラフラとした足取りで夜の帳が降り始めたトトマの街を歩き回っていた。
(どうしてこんな事に……)
そう呟くセブムだが、理由はとっくの昔に悟っていた。
マーリが何処かの男 ――それも余程に裕福な者―― の妾であることを彼は察していたのだ。そもそも、マーリの住んでいた家はトトマの「新街区」に有った。レイモンド王子の指示で二年前に建設されたトトマの北に広がる街区だ。その街区には南北を貫く「北通り」と呼ばれる通りがあり、そこに接続する小さな通りは「筋」とよばれていた。トトマに近い方から順位に一番、二番と番号が振られた筋通りだ。その筋通りの一番筋という、裕福な者の瀟洒な家が立ち並ぶ区画にマーリの家は在った。特段の仕事をしている風ではない若い彼女がそんな場所に家を持っている理由など
アカデミー時代はダレスに引っ張られる格好で悪事の片棒を担いだセブムだが、その一方で、不良と呼ぶには真面目で大人しい性格の彼はそれほど
いつか、彼女を囲い者にしている男にバレてひと悶着起きるとは思っていたが、それで関係を止められるようならば、色恋沙汰に狂う人間などこの世に居ないはずだ。しかし、そうして続いた関係は、マーリの失踪、という最悪の事態を招いてしまった。セブムはマーリの家の様子を思い出して、後悔の念で目頭を押さえる。
彼がこの日の夕方訪れたマーリの家の光景は明らかに異常だった。玄関から寝室へ続く廊下は泥が落ち、靴跡が残っていた。そして寝室の敷物はめくれ上がるように荒らされ、昨日家を出る時までセブムが飲んでいた酒の杯はそのままであった。しかも、営み後の乱れたベッドの上には、
――女を返して欲しければ、ダーリアの南、スムル村まで一人で来い――
という書置きが投げ置かれていた。セブムはそれでも、何かの間違いかもしれないと思い、マーリが立ち寄りそうなところを訪ねて歩いた。だが、北通りの食べ物屋も、筋通りの雑貨屋も、今日はマーリの姿を見ていないと言う事だった。ただ、筋通りと北通りが交差する一番辻に店を出している屋台の店主が、
「そう言えば昨日の夕方、物凄い勢いで材木を積んだ荷馬車が筋から飛び出してそのまま北の作業場へ向かったぞ」
と教えてくれた。拡張工事が続く新街区では、工事資材を運ぶ荷馬車は珍しくない。だが、既に出来上がっている一番筋の辺りにそのような荷馬車が居ることは不審であった。その事実が彼に書置きの意味を再認識させる。そして、
「どうすれば……マーリ……」
そんな呟きを漏らすセブムだが、次の瞬間には頬を両手で挟むように張った。まるで気合いを入れるような仕草をした彼は、腰の
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この日、ゴーマスの紹介で数軒の空き家を見学したユーリーとリリアだが、どうも
「これ!」
といった物件がなく、この日は結局二人でトトマを縦横無尽に散歩した格好となっていた。
「気長に行きましょう。それに、一日掛かりで彼方此方歩くのは、それはそれで愉しいのよ」
貴方と一緒ならね、という言葉をリリアが飲み込むのは、周囲にユーリー以外の面々も居るからだ。彼女達が居るのは、例によって例の如く「トトマ街道会館」の一階ホールにある食堂だった。大き目のテーブルを囲んでいるのは、ユーリーとリリア、それにダレスとドッジに非番のアデールとその子分(部下)二名、更に、がっしりとした背丈の茶色い髪の偉丈夫だ。それに、明るい金髪の小柄な女性が寄り添うように座っている。
「ユーリー、住む家を求めるなら私がいくらでも世話をするのだが、なぜ言ってこない?」
「だめだよ、レイ。そう言うのは良くない」
「そうよ、自分で決める。それも、また愉しい。でしょ?」
「そう、そういうことだよ、姉さん」
住まい探しに難航したユーリーに
「それにしても、髪の色一つバレないものだな……」
「あら、レイ様はもしかして少しガッカリされたかしら?」
「あ、いや……ははは、リリア殿の変装術は完璧だ」
「そりゃそうよ、だって、ユーリーなんてこの間――」
「ちょっと、リリア。それは言わないで!」
リリアは密偵としての技術の一つである変装術の成果、具体的にはインヴァル半島東岸のセド村での一件を口にしかける。少し焦った様子のユーリーがそれを遮ろうとするが、その様子がレイモンド王子や他の面々の興味を誘ったのは言うまでもない皮肉な事態だった。
「何があったんだい、お嬢ちゃん」
そうやって訊くのはアデールである。今日はお忍びながらレイモンド王子が同席しているので、普段の乱暴な口調は鳴りを潜めているが、それはそれで不気味である。
「アデール、うるさい!」
「えー、言っちゃ駄目なの?」
「駄目!」
「なんだ? 凄く気になるな……」
「ハハハ、大方女装でもさせられたんだろ? ユーリーが女装すれば、それはそれなりに似合うだろうしなぁ」
だが、阻止しようとするユーリーの努力も空しく、ダレスが冗談として放った言葉は真実を射抜いていた。そのため、
「ダレス……お前、明日は覚悟しておけよ!」
「な、な、な、なんだよ……」
「久し振りに
「ゲェ……」
ダレスとユーリーのやり取りに、テーブルの面々はドッと笑い声を上げる。
「ユーリーさん、あんまりダレスを苛めないでね。ご注文、お飲物のお代わりは?」
そんなテーブルにサーシャが割って入ると、例の如く「選べないメニュー」が盛られた皿をテーブルに置きながら、空になった杯やジョッキを目で数える。手慣れた給仕の仕草であった。
「あ、サーシャ。ダレスから聞いたよ、将来は読み書きを教える塾を開きたいんだって?」
そんなサーシャに声を掛けるのはユーリーである。サーシャに読み書きの重要性を教えたのはユーリー自身であるが、その教えを守った彼女は魔術の研鑽を積む傍らで、自分同様に学が無くて安い賃金の仕事や或いは
「ふむ……高い
ユーリーの狙い通り、案の定喰い付いて来たのはレイモンド王子だ。見慣れない客が自分の名前を呼び捨てに呼んで、まるで貴人の如く浮世離れした言葉を言う。その事実と整った風貌の偉丈夫振りにサーシャは思わず口に手をあてた。だが、
「サーシャ、分かったら仕事に戻りな。
と、そんな彼女の肩を掴んで回れ右をさせたのは恋人のダレスであった。その雰囲気で仲の良さが伝わってくる光景だった。
「レイ、悪いがその通りだ。トトマの街でも文字を読める人は半分も居ない。書ける人は更にその半分だ。農村や漁村に行けば、辛うじて数人が読み書きできるという程度だよ」
「そうか……それでは触れや法を皆はどうやって知るのだ?」
「口伝えだよ」
「口伝え……それでは正しく伝わるか分からないな……」
ユーリーの言葉にレイモンドを非難する色はない。この時代、この世界のどの国、地域でも文字に対する取扱いはこのようなものである。だが、レイモンドは自らが思い描く国家像と現実の乖離に言葉を詰まらせた。
「ユーリー。あんまり、難しい事を、言わないで。レイ様の気持ち、休まらないわ」
「あ、ああ、ゴメン姉さん。だけどね、本当の所は知らないと」
「ユーリーの言う通りだ。私塾か……有志による塾……うむ、支援すると言う事は可能だろうな」
と言う具合に、ユーリーの思い描いた通りに話は進む。サーシャが読み書きを教える塾を立ち上げる頃には、何等かの公的な支援が整備されているかもしれない。それがユーリーの狙いだった。
(お人好し!)
(へへ、悪くはないでしょ?)
(まぁね……)
そんなやり取りはユーリーとリリアの至近距離での読唇術だった。
「さぁ飲もう。難しい話は後回しだ。先ずは酒で脳みそを消毒しちまおう!」
一方、アデールは独特の言い回しでそう言うと、新しく運ばれた杯を手に取る。そんな勢いの良いヤクザ者風の言葉に一同は各自の杯を手に持つ。だがそんな時、幽鬼のように茫洋とした気配の男がテーブルに歩み寄ってきた。
その男は周りに目もくれず、真っ直ぐダレスとドッジの元に進むと、
「なぁダレス、それにドッジ……俺、今日で遊撃騎兵を辞めるわ」
と言った。その言葉にテーブルの一同が目を丸くする。突然の登場に、輪を掛けるような突然の発言。だが、驚く一同を全く意識していないセブムは青い布地の隊長章をダレスに向けて突きだした。そして、
「レイモンド王子やロージ団長には、ダレスから言ってくれ。俺は……多分死ぬ」
そう言うと踵を返したセブムはトトマ街道会館一階ホールの出口を目指した。恋と勇気と破滅の運命に
「までぅ……っぷ!」
「ちょっとレイ、静かにしてて」
レイモンドの開いた口をユーリーの手が塞ぐ。そしてレイモンドが言い掛けた言葉は、一階ホールの喧騒に紛れた。
「なぁ、今のセブムの
「アデール……セブムは真剣だ、情婦じゃない。恋人だ……多分」
「そうか、すまねぇ……だけど、あれ……カチコミ掛けるヤクザの顔だぞ」
ダレスとドッジ、そしてアデールの会話である。ドッジを含めた三人はセブムが交際している相手の素性をそれとなく察知していた。だからこその会話であるが、レイモンドは違った。
「今抜けられると困る。それに『死ぬ』など、穏やかな話ではない……何とかならないか?」
そう言うレイモンドの視線はダレスやアデールに向くが、結局回り回ってユーリーの所で止まるのだった。
「ねぇリリア」
「はぁ、物好きね……でも分かったわ」
その視線を受けたユーリーとリリアの会話はそれだけで済んだ。そしてリリアが席を立つ。彼女は客の間を縫って出口へ向かうセブムの背後に付けると、その後を追った。一連の動きはセブムにとっては本意ではないかもしれないが、彼を気に掛ける者達は悲壮な決意を浮かべた男を放って置くことは無かった。これが事件の発端だった。
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