Episode_21.24 還解


 ユーリーによって癒されたリリアは、本来の標的である呪術師へ駆け寄る。呪術師は先ほどよりも随分と船尾側に移動していた。そのため、彼女と呪術師の距離は歩数にして二十、距離にして十五メートル離れている。一方、そんな彼女の背後からは作軍部長の声が


「弓兵、女を射よ!」


 と掛かる。船尾付近には数十の弓兵が弩弓を構えて船外の傭兵達を狙っていた。その弓兵達にリリアを射るように指示をしたのだ。だが、傭兵達を狙っていた弓兵達が、作軍部長の指示を把握し実行するには僅かに時間を要するはずだ。


(まだ間がある!)


 そう判断したリリアは、一気に標的へ駆け寄った。彼女は俊足ストライドの精霊術を使う事が出来ず、素の脚力で甲板を蹴る。船上という地の精霊力が乏しい環境で、更に風の精霊が言う事を聞かなかったためだ。だが、持前の運動能力は彼女の意図に応えると素晴らしい速度を与える。そして、一陣の風のようになった彼女は一気に距離を詰めると標的を見据えた。しかし、


(護られているの?)


 そこには、相変わらず彼女に背を向けたままの、緋色のローブを纏った呪術師の姿が在った。薄い胸板と細い肩の貧相な男だ。それは、一気呵成に突っ込めば簡単に討ち取れるような頼りの無い存在である。だが、リリアは寸前の間合いで飛び込む動作を踏み留めざるを得なかった。なぜなら、エルフの血を引く者が持つ「オーラ視」の能力が呪術師の周りを護るように黒く渦巻く冷気の塊を捉えたのだ。それは、以前にユーリーを襲ったような凍てつく冷気の類であった。向こう見ずに飛び込めば命を落とす、そう直感したリリアは正しかった。


(どうすれば?)


 呪術師の周囲に居る弓兵は振り返ると視野にリリアを捉え、次の矢の装填に取り掛かっている。そして、呪術師の頭上には漆黒の異形、凍える風の精霊王が留まっている。時間は無かった。リリアは焦る心を懸命に押さえつけると冷静になろうと努める。そんな一瞬に、彼女は良く知った思念を感じた。それは普段、曖昧模糊あいまいもことして喜怒哀楽を伝える程度の幼い感情だった。だがこの時、その思念は「意志」と呼べる明確さをリリアに伝えた。


「ヴェズルなの?」


 分かり切ったことを思わず訊き返すリリアの声。それに答えるように再度若鷹ヴェズルの意志が彼女に届く。それは彼女に、風を使っても大丈夫だ、と告げていた。そして、目の前の強大な存在精霊王悲しい呪縛・・・・・から解いてくれ、と願っていた。


「……分かったわ!」


 言葉ではなく視覚化された情報に接したリリアは、全てを理解する間も無くそう答える。そして、彼女は周囲を満たす風の精霊に意志の手を伸ばした。ヴェズルの意志が伝えた通り、風の精霊達は先ほどと打って変わって正常に彼女の求めに応じた。


「風よ集いて刃となれ、吹き荒れる嵐を起こせ!」


 凛とした声と共に船尾に旋風が起こると、それは一気に気圧を下げて暴風となる。リリアが使う精霊術では最も強力な「刃の嵐ブレードストーム」が具現化したのだ。連続する鎌鼬かまいたちの嵐が、射撃体勢に入った弓兵達と呪術師を襲う。高圧または真空の刃となった風は弓兵達を切り刻み、吹き上がる血潮を冷酷に旋風の中に閉じ込める。そうして吹き荒れる風はそのまま、船尾の策具や備品を吹き飛ばし、四番帆柱マストと五番帆柱の縦帆を切り裂く。そして、陸地へと架けられた桟橋すら吹き飛ばした。その威力は、同時に背後で起こった、ユーリーの放った魔術による炎と爆音、更に衝撃波をも遮断するほど分厚い風の層となり、当然、閉じ込められた敵の悲鳴をも掻き消すものだ。


 だが、そんな嵐の中で、リリアと共に無事な者が居た。それは、緋色のローブを纏った呪術師である。彼の周辺では依然として重く凝り固まった冷気が渦を巻き、それがリリアの風を完全に遮っていた。


「効かない! どうすれば――」


 絶望のような声が漏れる。だが、リリアがそれを言い終える前に変化が起こった。渦巻く暴風に遮られて聞き取れないが、呪術師が何かを叫んだのだ。そして、不意に頭を押さえて蹲る。同時に、上空の凍気が一気に温度を下げた。周囲に岩や船の甲板、策具の類にみるみる内に霜が降りた。


 急な変化は、敵である漆黒の怪鳥の力が増したことを示していた。その事実にリリアはヴェズルの姿を探す。彼女の視界は、漆黒の怪鳥を前に立ち向かう小さな鷹の姿を捉えた。明確に分かるほどまばゆい白の燐光を纏ったヴェズルは懸命に羽ばたき風を送っている。リリアにはその意味が分かった。ヴェズルは圧倒的な凍気をギリギリのところで中和しているのだ。だが、全力を発揮し尽くす幼い鷹に対して、漆黒の怪鳥が放つ凍気は、周囲を覆い尽くそうと、留まることなく温度を下げていく。


「ヴェズル!」


 成す術無く、只声を発して呼びかけるリリア。するとヴェズルの方から返事・・が有った。


(大丈夫、今ナラ風ガ届クヨ)

「えっ?」


 これまでは思念を明確な意志として伝えることさえ・・無かったヴェズルが、今この瞬間、意志だけではなく、明確な言葉としてリリアに返事をしたのだ。勿論耳から聞こえる言葉ではない、頭の中に直接響く明確な言葉だ。それも何処か少年のような響きを持った懸命な調子の声だ。


(早ク……母サン)


 余裕の無い思念が言葉となって伝わる。リリアは混乱する以前に、その意味を理解すると再び呪術師を見た。そして、更なる変化に気付いた。


 呪術師を取り巻き、守っていた黒い冷気の渦が消え去っていたのだ。それは「全ての力を以って」と命じた呪術師に言葉通りに応じた守護精霊アンズー・ルフが、盟約の対象者を護るために使っていた力を全て取り去り、目の前の寛風の精霊王へ叩きつけるために使った結果だった。


 リリアにはその詳細は分からない。だが、守りが無くなったことは分かった。その事実を一瞬で見て取ったリリアはその場で短槍を逆手に持ち替えると投擲の姿勢になる。そして、彼女の手から投げ放たれた槍は低い放物線を描くと、無防備な呪術師の緋色のローブの背中に突き立ち、胸から切っ先を飛び出させた。


 ゆっくり崩れ落ちる呪術師は何事か呟くが、それは誰にも聞き取れない怨嗟の言葉であった。


****************************************


 敵の作軍部長を魔術で葬ったユーリーは、船尾のリリアを援護するために駆け寄った。しかし、彼が戦いに加わる前に全ては決していたようだった。


「リリア、仕留めたのか?」

「うん」


 ユーリーの言葉に頷くリリアはその手に槍を取り戻している。不思議な事に、呪術師を貫いた槍の穂先には血糊が全くついていなかった。だが、そんな不可解な事実よりも二人の注意を集めているのは頭上に起こった変化であった。この二人だけでは無い、海洞の内部で戦っていた敵味方の傭兵、騎兵、兵士達も皆、戦いを忘れてその光景に注意を奪われていた。


 そこには、凶暴に吹き荒れた凍気を具現化していた存在があった。しかし、漆黒に染まった全身の羽根は今、色を失ったように透明に近い白色となっている。そして、禍々しい表情を浮かべていた獅子の顔は、いつの間にか白鳥のように優美な造形へと変じていた。それもまた、反対側の岩壁が透けて見えるほどの透明に近い白となっている。


 身体は大きく巨鳥であるが、その造形は水鳥の王とも呼べる白鳥のそれである。それが守護精霊アンズー・ルフの本来の姿。漆黒の肌の乙女と血の盟約を交わす以前の存在。いや、世代交代しながら堕落して行ったアンズー族と命運を共にする前の、偉大なる南天の精霊王ルフの姿であった。


(……余を縛った血脈の枷は解かれた……寛風の王よ……)

「……」


 南天の精霊王ルフは、目の前の眷属に薄くなってしまった瞳から視線を向けた。対するヴェズルはその鷹の瞳に悲しみを浮かべる。


(悲しむことはない。吹き始めた風はやがて衰え大気に解ける。それが自然の摂理)

「クェ」


 ルフの意志を肯定するように、ヴェズルは短く鳴く。


(もの分かりの良い子だ。お前が天から地へ、そして地から天へ送る風に乗って、私の欠片も上空に還ろう……そして汚れてしまった存在を浄化し、再び地上に戻るだろう。幾星霜の後であるが、それがこの世の摂理だ)


 ルフの意志が語るのは大気の循環であり風の役割であった。それはヴェズルへ向けた意志だが、その場に居る者で、精霊と意識を交流する術を持つ者には聞き取ることが出来る内容だった。


(余を枷から解き放った女、お前が母と慕う存在に、私は何も礼が出来ないが……冷たい風が必要ならば、我が名を呼べばよい。幾らか残った力の残滓が助けになるだろう)


 その意志は、ヴェズルではなく、船の上から見上げるリリアに向けられていた。そして、時が満ちる。


(さらば、安らぎの風。寛風の王よ――ありがとう)

「クェッ!」


 そして、純白に変じた南天の精霊王ルフは次第に身体を透明に変じていくと、フッと吹く冷風を残してその姿を掻き消していた。


「リリア、アレは最後に何て言ったの?」

「……ありがとうって言ってたわ……なんだかとても寂しくて悲しい存在だったわ」


 しんみりと言うリリアの言葉にユーリーは頷いた。だが、次に上がった怒声によって現状を再認識した。それは、


「船を漕ぎ出せ! 離岸する、撤退だ、撤退!」

「浮輪とロープを放ってやれ!」

「提督、他の船は?」

「仕方がない、置いて行く! 急げ!」


 という、第二海兵団提督と海兵達の声だった。その声で、ユーリーとリリアは未だ敵の只中に居る事を思い出した。また、海洞内に留まっていた敵兵達も、立場が逆転し、自分達が危機的に追い詰められている事を思い出すと、我先にと海へ飛び込んだ。船へと続く桟橋をリリアの精霊術で破壊されている彼等には、それしか逃げる術が無かった。


「その二人を捕えろ! せめてカルアニスへの手土産にする!」


 そして続く指示はユーリーとリリアを指していた。船底にから甲板へと出た海兵達と甲板に残った弓兵達、船首付近に居た傭兵達も加わり、彼等を指揮する提督自らが剣を抜いて二人を包囲しようとする。


「リリア、そろそろ」

「そうね。逃げましょうか、ユーリー」


 そんな周囲の様子に、少し余裕を以って頷き合う二人は、船側から海洞内の水面へ飛び込んだ。泳ぐに適さない装備の二人はそれ以降しばらく、海面に上がって来ることは無かった。但し、魔術と精霊術を操る二人が海で溺れると事はないだろう。


****************************************


 王子派領のストラからトトマ近隣に掛けての海岸線を襲った襲撃事件は、王子派軍が四都市連合の仮設拠点を奪取する形で終結した。デルフィル領内の海洞に置いた仮設拠点を失った四都市連合の船団は、以後デルフィル湾奥部での活動を急速に縮小させることになった。


 一方、強引に越境して他国内で軍事活動を行ったコルサス王国の王子派軍に対して、デルフィル側の糾弾は当初こそ激しかったが、直ぐに下火になった。何と言っても、


 ――デルフィルこそ、四都市連合と結託して後方支援を行っていたのではないか?――


 という噂が、港湾地区を中心に流れたのだ。コルサス王国のディンスや、リムルベート王国領となったボンゼ、インバフィルとの海路の安全を取り戻した海商達は、概ねコルサス王国王子派の取った強引な行動とその結果に好意的であった。そんな背景が、デルフィルの為政者達に糾弾や疑いの目を向ける噂を流行させた。勿論、噂を陰で操っているのはスカース・アントであるが、その働きは巧妙に隠されている。


 結局デルフィル側は「再発防止」を求める書簡を送るに留まった。一方レイモンド王子側は、


「これを機に国境の管理を円滑にし、街道沿いの治安をより良いものにしよう」


 と提案したという。そして、平時にこの街道の治安を守っているトトマ衛兵団と、コルサス王国側の隊商達を管理するゴーマス、そしてデルフィル側の国境守備隊の間で定期的な交流が持たれることになった。


「転んでもタダでは起きない。王子も中々の商売人だ」


 というゴーマスの言葉の通り、この交流によってデルフィル側を出発する隊商の日程がより明確に分かるようになり、街道を護るトトマ衛兵団は大いに助かることとなった。


 越境軍事行動の後始末は王子派領にとって有益な提案を対応策とすることで一応の結末を迎えた。そして、王子派領で起こった沿岸域の襲撃事件はその後始末を含めてアーシラ歴四百九十七年の冬前には終結していた。人々は落ち着きを取り戻し、翌年を迎えようとしていた。

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