Episode_21.20 肉迫戦闘


 リリアは蝙蝠のように海洞の天井に張り付くと、細いロープを腰のポーチから取り出す。潤滑油を含んだ細いロープの先端はフック状の金具が取り付けてある。それを、目隠し布を縛って作った結び目に引っ掛けると、腰のベルトにもう片方の金具を掛ける。眼下の帆船の海兵も、海洞の傭兵も、全員の注目は進入してきた軍勢に向けられている。誰も頭上を気にする者は居ない。その注意の間隙を縫い取るように、リリアは一気に宙へ飛び出した。自由落下の勢いに腰のベルトの金具が軋みを上げるが、彼女は落下の速度を両脚にロープを挟み内腿の筋力で制御すると、頭から先に真っ逆さまに降下する。そして、ひと際大きな帆船「海魔の五指」の船首付近の甲板上でピタリと降下を止めた彼女は、全身をしなやかに捻ると両脚で音も無く帆船に降り立った。


(太ってなくて良かったわ)


 無事に敵後方、しかも旗艦の内部に潜入を果たした彼女は、敢えて他愛の無い事を頭に浮かべた。十代中盤と比べれば、彼女の身体は否応なく丸み・・という「女らしさ」を帯びていた。だが、生来の運動神経とそれを必要とする日々が、彼女に肥え太る暇を与えることは無かった。


 他愛もない感想を心に浮かべるのは平静を保つ努力の一環である。そんなリリアが降り立ったのは戦場の後方、敵の只中である船の上だ。彼女は落ち着いた心で油断なく周囲の気配に意識を配る。甲板上の海兵の姿は疎らだが、船の内部には大勢の人間の気配を感じ取ることが出来た。


(出発の準備をしている……)


 海洞に入って来た帆船が櫂を出して、それで水面を漕いでいた光景が蘇る。大勢の気配が船尾に集中している状態に、彼女は船が戦いと同時に出発の準備を進めていると直感した。その事実は余り時間が残されていないことを示すものだ。だが一方で、リリアは標的の存在も探り当てていた。そして、リリアは松明と篝火が造り出す影を選んでそこへ飛び込む。風の精霊を使うまでも無い。標的の緋色のローブの男は十メートル先の船の中央部、船側付近から眼下の戦いを見下すように胸を反らして立っていたのだ。その少し先には弩弓を構える敵兵が居るが、彼等は船尾の船縁に張り付いているため、ローブの男とは距離があった。


(アレをヤル……のね)


 索具が造る影に隠れたリリアはそう考えた瞬間、不意に沸き起こった緊張感に支配された。それは、彼女にとって無理もない反応なのかもしれない。これまでは、只管ひたすらユーリー愛する男の側に立つこと、そして彼の役に立つことを願って研鑽を積んで来た。その過程で恋人を助けるために、力を使い破壊を行ってきた。その結果として人を殺してしまった事は一度や二度ではない。


 決していたずらに破壊を行い、命を奪った訳ではない。それらは全て闘い、争いの中での出来事だった。人であれ、魔物であれ「我が生きるか彼が生きるか」という闘争の中でのやむを得ない所業だったとリリアは自分を納得させている。


 だが今の彼女は、無警戒に背中を見せるローブの男を討ち取る事に躊躇いを感じていた。今彼女が行おうとしている行為、それは、彼女の養父ジムが敢えて彼女に道を示さなかった「暗殺」という所業に他ならない。更には、そのローブの男はどう見ても只の痩せた男にしか見えない。「オーラ視」の能力を持つリリアが見ても、特に大きな力を持っているようには見えなかった。全く普通の人間である。凍てつく風の王を従えるような力を持っているとは、とても思えない。


(見当違い……だったのかしら?)


 そう不安に思うほどであった。しかし彼女の躊躇いはローブの男が声を発した瞬間に否定された。


「偉大なる守護精霊アンズー・ルフよ、来たりて我に助勢せよ」


 ローブの男は尊大な調子で高らかに声を発した。その瞬間、リリアの目は何の変哲も無かった男のオーラが、昏い褐色を経て漆黒に変化する様子を捉えた。それは、まるで周囲の外気が纏わり付いて濃度を増したような変化であった。身体から滲み出る通常のオーラと違う様相は、何者かの力を外から得ている証拠だった。


 そして、周囲の空気が一気に温度を下げた瞬間、リリアは物陰から飛び出していた。一時迷った事を後悔した彼女の手には伸縮式の槍ストレッチスピアが握られている。彼女は、その穂先となった暗殺者の剣先で緋色のローブの背中に狙いを定める。


 甲板を音も無い風が駆け抜けた。


****************************************


 ユーリー達遊撃騎兵隊と騎士コモンズ率いる三個小隊は、スカースの宿場町を突破するとそのまま街道を西へ進んだ。町から追手が出た気配は無い。何と言っても宿場に駐留していたデルフィルの兵士よりも、ユーリー達一団の方が、数が多いのだから追う気にならないのだろう。


 そうして街道を進んだ一団は、途中で待機していた誘導役の傭兵達と合流すると、街道を南に逸れた。茅が生い茂る原野を傭兵達の先導で南へ進んだ一団は、一時間ほど進むと海岸線に到達する。


 海岸線の崖上には「骸中隊」の弓兵三十人程が待機していた。その様子に「オークの舌」の誘導役だった傭兵は舌打ち混じりに言う。


「ちっ、始まってたのか」


 その状況に王子派の軍勢は下馬すると戦闘準備に取り掛かった。長くユーリーの頭や肩に止まっていた若鷹ヴェズルはこの段階でユーリーの元を離れると上空へ舞い上がる。そんな中、ユーリーは駆け寄ってくる「骸中隊」の弓兵達に説明を求めた。


「地形、状況、説明してくれ!」

「この崖下が洞窟になっててな、そこに船を隠している。下への降り口は二箇所だ、右に舌の連中・・・・、左にウチの連中・・・・が向かった。左が押されている」


 その状況報告に、ユーリーはダレスと騎士コモンズを見る。


「ダレス、左の援護へ!」

「応!」

「コモンズさんは、状況次第で対応を任せます」

「分かった、両方に斥候を出して状況を見極める」


 短いやり取りだが、ユーリーの指示にダレスは従う。振り返れば、いつの間にか・・・・・・の長い付き合いである。彼は目の前の黒い甲冑を身に纏った青年騎士の凄みを良く知っている。反論などするつもりも無い。一方、歴戦の騎士ココモンズは、妥当な指示に反論することも無い。指示を受ける立場なのかは曖昧だが「ユーリー」という名は王子派の軍に加わってから度々耳にしていたのだ。彼が聞いた話は、どれもその青年騎士の機転と勇気と強さを語る話だった。


「あ、あとユーリーさん。リリアちゃんが単身で崖から直接敵の船へ侵入したよ!」


 そこで、各自持ち場へ散りかけた一団だが、そんな彼等の中のユーリーを呼び止めたのは骸中隊の弓兵だった。彼は先のアドルムを巡る戦いでユーリーやリリアと共に神殿の鐘塔で待機していた弓兵だった。その彼は見知ったリリアの(この弓兵の価値観では)無謀と思える行動を是非彼女の恋人に伝えたかったようだ。その言葉は、彼女の身を案じる声色が籠っていた。


「え? 本当?」

「本当だ、嘘つく意味が無いだろ!」

「くっ……そこから?」


 当然のやり取りのあと、ユーリーは崖の先端を指した。そこには地面に打込まれた鉄製の杭に目隠し用の布の上端が引っ掛かったままで残っていた。その時、崖先の白み始めた水平線を白い燐光が過る。それは上空から一気に高度を落としたヴェズルの姿だった。但し尋常な速さではなく、しかも若鷹の姿をした存在ヴェズルが超常的な力を発揮する際に見せる燐光を纏っている。


「そうだよ、でも――」


 その弓兵は、ユーリーの雰囲気から或る事を察して彼を止めようとした。しかし、ユーリーは一人、左右の降り口へ向かう味方の兵達から離れると崖へ駆け出した。


「ちょっとユーリーさん! どうするつも――」


 その弓兵の言葉が全く耳に届いていないユーリーは、左手で魔術陣を描くと、走りながらそれを展開する。そして、発動と共に崖の縁を蹴って宙へ飛び出した。ヴェズルの後を追うように自由落下する彼の身体を浮遊レビテーションの力場が絡め取る。黒塗りの軽装板金鎧ライトプレートの身体はゆっくりと落下を続ける。その最中、ユーリーは半閉式の兜ハーフクローズの面貌を下ろすとミスリル製の仕掛け盾を展開ながら腰の「蒼牙」を抜き放った。そして、ありったけ・・・・・の魔力を魔剣に叩き込む。ユーリーの右手の中で、魔剣の柄が戦いの予感に喜び震えるように脈打った。


 制御された落下の先、ひと際大きな帆船の艦首部分を眼下に捉えたユーリーは、着地地点に縺れ力場エンタングルメントを展開すると、自身に最大強度の強化付与術を施した。やがて、彼の長靴ブーツの爪先が帆船の甲板を打った。周囲には季節と場所にそぐわない・・・・・ほどの異常な冷気が満ちている。しかし、ユーリーは前方の光景に釘付けとなった。そして、


(リリア! 今行く!)


 猛然と駆け出す彼の目の前には絶望的な戦いに曝された恋人の後ろ姿が有った。

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