Episode_21.10 守護精霊アンズー・ルフ


 漆黒の怪鳥は戦場となった村へ舞い降りた。丁度横隊陣を組んだ王子派遊撃兵団の歩兵小隊の正面だ。一方、その巨体の背後では、傭兵達の指揮官が声を限りに部隊を後退させようとしている。周囲はいつの間にか真冬のような凍える空気に満たされていた。


 怪鳥の足は太く逞しく大地を掴むようにして立つ。五指が揃った巨大な腕のようであるが、隙間なく黒い羽根に覆われている。そして、降り立った場所を中心とした周囲はあっという間に白い霜に覆われてしまう。その巨体全身から吹き出す凍気が周囲の温度を一気に引き下げた。


 遊撃兵団の歩兵小隊は、その存在の出現に直ぐには対応できなかった。対人戦闘の修練を積み経験を備えた兵士であっても、このような異形の存在と対峙することは想定していない。そのため、アデール一家も元ダレス班の面々も、誰もが言葉すら発せられなかった。彼等の目には、聳えるように降り立った異形の怪鳥がそのまま冷たい死・・・・、逃れられない運命のように映ったのだ。


「アデール! 兵を退け」


 本能的な恐怖から硬直していた歩兵の中で、最初に声を上げたのはユーリーだった。彼は敵が後退した左翼から横隊の中央へ駆け戻ると、そのまま兵達を背中に庇うようにして怪鳥の前に出てて声を発した。


「早く!」


 ユーリーは叫ぶように声を上げると、次いで補助動作を行い、魔術を発動した。目の前に浮かび上がるのは太い炎の矢「火爆矢ファイヤボルト」である。それは、一瞬だけユーリーの目の前に留まった後、凍てつく空気を切り裂いて怪鳥目掛けて飛ぶ。


 ――ブオォォ


 その瞬間、怪鳥は大きく一歩飛び下がりつつ黒い翼を羽ばたかせた。凄まじい冷気が巻き起こると、それは魔力によって造られた炎の矢に干渉し、その軌道を地面の方へ押し下げる。そして「火爆矢」は飛び退さがった怪鳥の手前に着弾すると小規模な爆発を起こす。しかし、生じた熱は周囲を満たした極寒の空気に吸い取られ、歩兵達にもユーリーにも伝わることは無かった。


「わ、分かった、全員後退だ! 街道まで退くぞ!」


 ユーリーの先制攻撃は相手に何の損害も与えなかったが、恐怖に竦んだ歩兵達に再び動く切っ掛けを与える事は出来た。我に返ったアデールは兵達に号令を発する。そして兵達は、まるでその号令を待っていたかのように、一斉に街道目掛けて走り始めた。その様は、最早後退と呼べるものでは無かった。


「リリアも、早く!」


 目の前の漆黒の怪鳥と、逃げる歩兵達、両方を視界に入れるユーリーは只一人立ち竦んだままのリリアにも声を掛ける。しかし、リリアは蒼白な顔色のまま、ユーリーの言葉が耳に入らないように、怪鳥を見詰めるばかりだった。


****************************************


 逃げ去って行く人間達を獅子の目で見る怪鳥は、目の前に留まった二人に注意を向ける。上空に在った時から、この二人の存在は彼の注意を惹いていた。一人は強力な風の力に守られた女、古いエルフの血の匂いを感じる存在だ。そして、もう一人の男はまばゆいほどの生命力エーテルを内包した光の翼を持つ存在だった。


 その二つの存在に、妙な懐かしさを覚えた怪鳥は、悠久の時の彼方に置き去った記憶を呼び起こそうとする。しかし、その二つの存在に似た者達の記憶に辿り着く前に、上書きされた別の記憶が呼び起こされた。それは、


 ――南天の凍気を司る風の王ルフよ……私の命と引き換えに一族、親兄弟、娘達、そして私達の土地をお守りください――


 という悲しい祈りで始まる記憶だ。その祈りが発せられた背景や、それを受け入れた理由は既に記憶から消え去っている。ただ、その乙女の祈りを受け入れた時から凍える風の主、南天の精霊王ルフは、その乙女の一族 ――アンズー族―― を守る守護精霊アンズー・ルフとなった。そして、乙女の血を浴びた精霊王は、その乙女の肌色の如く漆黒に全身を染めると、殺戮の道を進んだ。


 南方大陸の南端は、北から迫る人間達の王国が仕掛けた戦いに曝されていた。その後何世代にも渡り続いた悲惨な戦いで、北からの侵攻を食い止め打ち払ったのは守護精霊アンズー・ルフの力のお蔭であった。しかし、彼が持つ強力な力は、次第に乙女の祈りを捻じ曲げていく。乙女の血脈に通じる者の言葉に従い力を振るうアンズー・ルフの存在は、その血脈の者を絶対的な支配者へと変貌させた。また、本来自然の動きを司る存在である彼自身もまた、多くの血に塗れて存在を歪ませていった。


 そうして、北方からの侵略を跳ね除けたアンズー族は、今度は南方大陸深奥部を平定すると、逆に北の帝国アルゴニアに戦いを挑んだ。最早、全ての始まりであった乙女の祈りなど、片鱗も記憶に残っていないアンズーの王は、際限の無い支配欲を守護精霊アンズー・ルフの力で実現しようとしたのだ。そして起こった無用な戦争の結果、敗れたのはアンズー族であった。


 しかし、アンズー族の王の血脈は保たれた。アルゴニア帝国にとって有用な軍事力だと判断されたのだ。そして一族は「南の下賤な血」「深南の賤民」と蔑まれながらも、その後に続いた中原地方との戦争に駆り出され続けた。


 今、アンズー・ルフが大昔の盟約に従い守護するのは僅かに残ったアンズーの王族、精霊と意志を交わす力を失って久しい矮小な者だった。


「我が守護者たる南天山の凍風の化身、アンズー・ルフよ、我が声に応え彼の敵を打ち払い給え!」


 それでも盟約の力は、矮小なる者呪術師の言葉をアンズー・ルフの脳裏に直接送り込み、そして強制力を持たせる。その事が堪らなく腹立たしい彼は、その怒りを目の前の二人に叩き付けようとした。


(不遜ナル者共メ……)


 誰に向けた怒りなのかも判然としない感情が、凍てつく吹雪のように荒れ狂った。


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 リリアは漆黒の怪鳥を目の前にし、絶望に似た恐怖を感じていた。それは経験した者にしか分からない絶望だった。リリアは、目の前の怪鳥がかつてドルドの森で対峙した北風の王フレイズベルグと本質的に同等の存在であると理解していた。それは人間が足掻いて太刀打ちできる存在ではない。それが絶望の理由だった。


 しかも、漆黒の怪鳥が持つ獅子の瞳は冷たい怒りに打ち震えている。それは無意識に発したリリアの意識が怪鳥から感じ取った感情の断片である。その一点において、傲慢で尊大であったが、一方で理性的であった北風の王よりも目の前の存在は性質が悪い。


(ユーリーに伝えなければ……戦っては駄目だと)


 リリアは必至になって息を吸おうとする、声を出そうとした。しかし、


「僕が時間を稼ぐ、その隙に逃げて!」


 彼女の想いはユーリーには届かなかった。そして、ユーリーは言葉通り、怪鳥の注意を自分に引き付けようと立て続けに炎の魔術を撃ち放った。しかし、次々と打ち出される白熱した炎の矢は、全て怪鳥の身体を逸れてしまう。本来魔力以外の外力に攪乱されないはずの投射型魔術が、怪鳥を取り巻く冷気の渦によって軌道を逸らしてしまうのだ。


「クソッ、どうなってるんだ!」


 ユーリーの悪態が響く。その瞬間、リリアの脳裏に怪鳥の発した怒りが鳴り響いた。


(滅ビヨ、不遜デ矮小ナル者共!)


「駄目! ユーリー、逃げて!」

「え――」


 次の瞬間、怪鳥を取り巻いていた冷気の渦は一か所に凝縮すると、まるで投石器カタパルトから撃ち出される岩のように塊となってユーリーの身体を打ち据えた。極低の凍える空気の塊を受けて、ユーリーの身体は弾き飛ばされるように宙を舞う。


「……いや」


 リリアは目を背けることも出来ず、その光景を見るしかなかった。


****************************************


 上空を舞っていた若鷹は眼下の光景に恐れを感じていた。そこには、漆黒の怪鳥がいるのだが、ヴェズルの瞳に、それは冷たく黒く荒れ狂う怒りの塊と映っていた。それはヴェズルが生まれ持った「寛風」とは対極に在る存在だ。ただ只管ひたすらに壊し、奪い、終わらせるだけの力である。しかも、その力の根源は幼い若鷹の形を取ったヴェズルと同じ風の精霊王である。


 ヴェズルはそれを本能的に自分と同等の存在であると察知したが、同時に産まれて間もない自分と、遥か昔にこの世に現れた存在では力の差が歴然としていることも悟った。だがそんな彼の眼下では、母とその恋人が、そんな存在に立ち向かっている。立ち向かってはいけない存在に対して、光の翼を背負った男が、母を逃がすために立ち向かっているのだ。


 その光景に、小さなヴェズルは怖れと同時に対抗心を感じた。だが、そこに飛び込む勇気が持てなかった。今までのように好奇心だけで行動することが出来ないのは、幾ばくかの成長の証しであったが、それが今の彼には枷となった。


 しかし、躊躇う時間は長くは続かない。次の瞬間、地上では極低温の嵐が吹き荒れる。それと同時に母の恋人が冷気をまともに受けて弾き飛ばされた。そして、


(ユーリーが!)


 と、強烈な母の感情がヴェズルに流れ込んだ。その瞬間、若鷹を躊躇わせていた恐怖と対抗心は全て勇気へと形を変えた。にわか・・・に燐光を発した鷹の身体は一直線に地上を目指す矢となった。


****************************************


「ユーリー!」


 弾き飛ばされ、糸が切れた操り人形のように地面を転がったユーリーへリリアが駆け寄る。その背後には獅子の瞳を巡らせる黒い怪鳥の姿が在ったが、今のリリアは目の前の男の事しか見えていなかった。


「しっかりして、ユーリー。ユーリーィっ!」


 助け起こそうと身体に掛けた掌が、冷え切って霜が降りた金属鎧の感触に驚く。恐らく一気に熱を奪われたのだろう、その黒い瞳は堅く閉じられ、血色のよい唇は紫色に変じていた。


「お願い! 目を開けてよ!」


 悲痛な叫びを上げるリリアの背後には再び渦を成した冷気の塊が出来つつあった。しかし、彼女は全ての変化を拒否するように只管ユーリーの身体を揺すり続ける。そして、折り重なるような二人を再び冷気が包み込む ――その一瞬前、頭上から強烈な爆音が響いた。


 怖れを乗り越え勇気を持ち得た若鷹ヴェズルは空の高い所から、周囲の大気を引き連れて地上に降りた。爆音は、地上にわだかまった冷たく重い空気を上空の空気が引き裂いた音だ。そして周囲を荒れ狂う颶風ぐふうが包み込んだ。砂を巻き上げ地面を抉り、炎を上げて燃える家屋から炎を吹き飛ばし、撤退する両軍の兵士達を転倒させるほどの強烈な風が荒れ狂った。


 その空気の激流の中心で、二つの存在が睨み合う。片方は産まれたばかりの風、もう片方は堕落し失墜したが古くから凍える風を統べてきた精霊王。両者の間には力の差があった。その証拠に、一度吹き散らされた冷気が一段と濃くなりながら周囲に戻り始める。ヴェズルは負けじと翼を羽ばたかせるが、ジワリと冷気の包囲が狭くなる。


(アンズー・ルフ! そっちはもう良いから、舟を進める風を送れ!)


 冷気の渦がユーリーとリリア、そしてヴェズルに覆いかぶさろうとした瞬間、怪鳥の脳裏にそんな指示が伝わった。伝えてきたのは海岸線まで後退した呪術師だ。彼を含む傭兵部隊は、王子派の別働隊である騎兵達を躱すと海岸線に出て、沖へ漕ぎ出す準備を整えたのだ。但し専門の海兵は全員倒されたか逃げ出した後だった。そのため、素早く沖へ出る助けとして風を欲したのだった。


(……)


 漆黒の怪鳥は、その弱々しい意志の力を無視してしまうとする。しかし、その考えは脳裏に焼き付いた乙女の祈りによって掻き消された。それが、この存在を縛る盟約の力だった。


 ギャァァァァァァッ!


 一度だけ、魂が凍えるような鳴声を発した怪鳥は、ヴェズルの存在を全く無視すると、その場から飛び去った。残されたのは、力無く倒れ伏したユーリーとそれに取り縋って泣くリリア、そして怪鳥が飛び去った先の空を睨むように見続けるヴェズルだけであった。

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