Episode_19 エピローグ


 広大な草原を渡る風は、四月に入ったとしても寒さを急に緩めることは無い。ただ、季節が移り変わると風は北風から西風へと変わる。しかし、風向きが変わったとしても、六月を過ぎるまでは、オーバリオンの草原を渡る風は冷たいものと相場が決まっているのだ。


 しかし、この日は違った。海から流れ込む西風は嫌な湿り気を帯びてギョッとするほど生暖かい。こんな風が吹くのはこの日に限ったことでは無かった。四月に入ってから度々このような風が吹く日があったのだ。それを遊牧民達は不吉な出来事の予兆と感じてざわめいていた。


 そんな西風が若草色に変じ始めた草原を渡って行く。遥か西に微かに見えるのはオーバリオンの王城だろう。見渡す限り周囲には一人の騎手を除いて人影は無かった。その騎手はオーバリオンの民らしく熟練した雰囲気を漂わせ馬上に佇んでいる。特質すべき点があるとすれば、その格好はオーバリオン王国が誇る軽装弓騎兵と同じような年季の入った装備を身に着けていること。そして、左腕の肘の先が切断されたように無くなっていることだ。その騎手は隻腕の騎手である。


 男の顔は加齢に見合った皺が刻まれ、元は明るい金髪だった髪も髭も、すっかり色を失いバサついた白髪となっている。その老騎手は、何とも言えない哀しい瞳で西を見詰めている。見詰める先にはオーバリオン城の尖塔が微かに見えた。


 その時、草原をひと際強い西風が駆け抜けた。老騎手は思わず目を伏せる。風は何故か血の匂いを孕んでいた。少なくともその老騎手にはそう感じられた。そんな不快な風が通り過ぎた後、老騎手は再び西を見る。しかし、その瞳は哀しみよりも強い決意を持っていた。そして、馬は西を目指して走り出す。隻腕とは思えない手綱捌きだ。正に人馬一体という滑らかな動きで草原を飛ぶように駆ける老騎手は、王都オーバリオンを目指す。王命により追放された、戻るべからざる場所だった。


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 オーバリオンの王城は渦巻く狂気に侵食されつつあった。王であるローランの挙動言動は三月上旬から徐々に、しかし確実に奇妙になって行った。下働きの者や王に仕える官僚達は、それを四都市連合の使節団が連れてきた降霊術師の女の仕業だと噂し合う。しかし、具体的に諌言をローランに上奏する者は居ない。特に、長く王の側に仕えた老臣の腕を切り落とし都の外へ追放してからは、同じ危険を冒す者は居なかった。


 そんな或る日、遂にローラン王の狂気が爆発した。


 その日ローランは夜通し眠ることなく過ごすと、早朝に供回りの騎兵を引き連れ義理の娘であるソマンの妃レーナムが居する離宮を訪れた。そして、目覚めたばかりのレーナム妃を強引に離宮から連れ出そうとした。レーナム妃は、今は亡きソマン王子の第一子を身籠っている。来月には産み月という身重の身体だ。しかし、ローランはそんな彼女の腕を掴むと無理矢理馬車に押し込めようとした。血走った両眼を爛々と光らせた王の様子に、離宮の下男下女は止めることなど思いも付かなかった。


 もしも、この時ローランの妻、王妃ナシルが離宮に滞在していなかったらレーナム妃はローランによって連れ去られていただろう。そして、如何いかがわしい降霊術の秘法の凄惨な生贄とされていたはずだ。しかし、何となく嫌な予感を感じていた王妃ナシルは、狂気に目を血走らせた夫に対して毅然と抵抗した。彼女は、ローランとレーナムの間に割って入ると、狂ってしまった夫を一喝したという。


「このような乱暴をソマンはどう見て居るでしょうか!」

「その、ソマンのため・・・・・・なのだ!」


 夫の言葉に、ナシル王妃は背筋が凍る思いを感じた。夫は降霊術師が語った反魂という法を行おうとしている。そして、そのためにはレーナムの胎の子が必要なのだ。それは、想像するだに悍ましい凶行である。しかし、ナシルは湧きあがる夫に対する恐怖心を抑え込むと、何とかその時はローランを王城へ追い返した。


 そして彼女は、驚き混乱しているレーナムに身支度を整えさせると出入りの商人を呼び寄せた。この際手の空いている者ならば誰でも良かった。そして、王妃の召し出しに応じたのは、風采の上がらない薬草売りの老人だった。本業は薬草売りだが、早朝から下働きの下女に頼まれ、市場へ買い出しに行くことが多いこの老人はいつも大きな荷車を手で曳いていた。それが、今の王妃には好都合だった。


「王妃様、どのようなご用件で……」


 その薬草売りは、おっかなびっくりという風に王妃の前で平伏する。そんな薬草売りの老人にナシルは歩み寄ると、金貨の入った袋を渡して言う。


「済まないけど、この荷物をスウェイステッドのセバス王子・・・・・へ届けて欲しいの。急ぐのだけど、極力丁寧に運んで頂戴な」


 王妃はそう言うと傍らに置かれた長櫃を指差しつつ、息子セバスに宛てた手紙を老人に渡した。王妃が一介の薬草売りに直接頼み事をすることは異例中の異例であった。一方、老人は渡された金貨の重みに驚くと、思わず見上げた視線に王妃の真剣な表情を捉え、嫌とは言えず頷いてしまった。


 そして、薬草売りの老人は長櫃を積み込んだ荷車を押して第二城郭の城門を目指した。そこを抜ければオーバリオンの街に出る。そして、街道を北に丸二日進めばスウェイステッドたった。近場への御遣いとはいえないが、この薬草売りの老人は今でも月に一度はカナリッジに買い付けに赴いていた。くたびれた外見であるが、足腰は丈夫だった。


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 そんな薬草売りの老人は今や顔馴染みとなった城門の兵士に会釈するとオーバリオンの王城から街中へ出る。オーバリオンは王都としては大きな街ではない。しかし、午前の早い時間は朝市が立ち並び、人出は多かった。そんな通行の多い大通りを薬草売りの老人は黙々と荷車を曳いて街道を目指す。


 この老人がオーバリオンに越してきたのは三年前だろう。カナリッジで薬草類の密猟を行い、小金を貯め込んだ彼はのんびりと余生を過ごすためにオーバリオンにやって来たのだ。密猟者時代は心臓を病んでいた老人は、自分の寿命を長くて一年か二年と思っていた。そのため、死ぬまでの生活には困らないと思っていた。しかし、困ったことに、老人の健康は急速に回復して行った。医者が言うには、


「心臓は文字通り心の働きと繋がっている臓器だよ。心に病んだことが消え失せれば、心臓もまた軽く脈打つものだ、爺さん、良かったな。長生き出来るぞ」


 という事だった。「心に病んだことが消え失せた」という言葉に思い当たる節がある老人は、嬉しいような困ったような気持ちになっていた。長生き出来そうなことは嬉しかったが、そうなると死ぬまでの生活設計が狂う。そういった経緯で、密猟時代に培った薬草の知識を生かして薬草売りをやっているのだった。しかも、この老人はリムルベート王国のある侯爵家の元兵士である。それに老人とはいっても、未だ五十代半ばだ。壮健な足腰は、彼の行商生活を大いに助けていた。


「長生きも考えもんだぜ……」


 そんな愚痴を呟く老人は、既にオーバリオンの街を出て街道を北に向っている。途中に一度は野宿をしなければならないが、この時期ならば街道には有力な遊牧民の一族が居るはずだ。気の良い彼等に、天幕の片隅を宿として貸してもらうことは簡単な頼み事だった。


 そうして荷車を曳き続ける老人は、ふと、街道の先から一騎の騎馬が駆けてくるのを視界に留めた。その騎馬は可也かなりの速度で駆けているようでみるみる内に老人に近付いてくる。このまま進めば、丁度老人の横を通り過ぎることになるだろう、という位置関係だ。


「なんだぁ?」


 治安が良いオーバリオンに慣れきった老人は緊張感の無い声を発しつつ、その騎馬に道を譲るため、街道の脇へ避ける。そして、しばらくすると、土煙を上げながら騎馬は老人の横を通り過ぎた。その騎手は隻腕であった。


「ん? あれは、たしか弓騎兵総長のクランス……だったかな?」


 老人は噂程度で聞きかじった話を思い出す。ローラン王の不興を買い、片腕を落とされて追放された弓騎兵の重鎮の話だ。一方、その騎兵はすれ違いざまに老人とその荷車の上に置かれた長櫃を目に留めた。そして、全速に近い馬の速度を落とすため、急な動作で進行方向を変える。


 馬は驚いた様子ながらも、騎手の操作に従い、街道を外れると草原に足を踏み入れつつ大きな弧を描くように回頭し、速度を落としながら老人の元へ戻ってきた。


「御免! 一つ伺うが、その長櫃はどのようにして手に入れたのか?」


 馬上から飛び降りた老騎手は、詰め寄るような剣幕で老人に語りかける。


「い……えぇ……いや、なんと……」


 もしもこの老騎手が老人の思うようなクランスという名の元弓騎兵ならば、それは「雷神クランス」と異名を取った嘗てのリムルベート・オーバリオン戦争の英雄である。もう三十年以上昔の話であるが、当時からウェスタ侯爵家に兵士として仕えていた老人にはその名と武勇はよく知ったものであった。そのため、老人は言葉を継げなくなる。


 一方、その老騎兵は、詰まって言葉を発せられない老人を睨むと無遠慮に荷車に近寄り長櫃を検分する。それは、大人一人が寝そべって中に入る事が出来る程大きな物だ。しかし、その大きさよりも、老騎手クランスには忘れられない紋章が彫り込んであった。それは馬上の短弓と三本の矢を意匠化したオーバリオン王国の王太子の紋章である。この老騎手が知る限り、この紋章を現在使うことが出来るのは、無くなった王太子ソマンただ一人である。しかも、


(む……やはりこの長櫃、見覚えがある)


 という事だった。クランスは記憶を辿る。そして、思い出したのはソマン王子とレーナム王妃の婚姻から数か月後、晴れて夫婦になったソマン王子とレーナム王妃に招待され離宮を訪れた時の光景だった。その時ソマン王子は、嫁いできた有力遊牧民の娘であるレーナムが輿入れ道具として馬具一式と弓を持って来た話を愉快そうに話していた。そして、その輿入れ道具が入れられていたのがこの長櫃だったのだ。


「御免、中をあらためる」


 既に公職を追われ、王都追放処分の身であるクランスだが、彼はその事を忘れたようにそう言うと、長櫃の蓋に手を掛ける。そして、それをゆっくりとずらしたところで、彼の顔は驚愕に満たされた。しかし、同時に老人も焦ったような声を出す。


 老人と老騎手の注目は別の所へ向けられている。クランスは長櫃の中身を、驚きを持って見つつも、退かした蓋を非常に丁寧に元に戻した。一方薬草売りの老人は街道の王都側を見て言う。


「なんだ、なんだ、なんで騎兵隊が?」


 薬草売りの老人の視線の先には土煙を上げて此方へ迫る五騎の騎兵の姿があった。まるで、罪人を追うような鬼気迫る雰囲気は、遠く離れていても伝わってくる。しかし、クランスはその様子をチラと認めてから薬草売りの老人に話し掛ける。


「この長櫃をどういう経緯で運んでいるのかな?」

「そ、それは――」


 騎兵が迫るなか、それを意に介しないように語りかける老騎手クランスの言葉に、薬草売りの老人は端的に事情を伝えた。すると、


「そうか、ナシル様の御手配か……ご老人、呼び止めてあい済まぬ。先を急がれよ」

「しかし、あの騎兵は?」

「ああ、あんな若造どもは儂に任せておけ。少ししたら合流する。共にスウェイステッドのセバス様を訪ねよう」


 老騎手クランスはそう言うと、馬の鼻先を再び王都へ向ける。その先には迫る五騎の騎兵の姿があった。しかし、クランスは臆することなく、その騎兵達へ向けて馬を走らせていた。


 その時の光景をこの薬草売りの老人は死ぬまで忘れないだろう。隻腕では弓も弾けない。そんな老騎手は猛然とした勢いで五騎に肉迫すると、少なく声を交わした後、あっという間に五騎の騎兵を落馬させたのだ。全く以ってどうやったのか分からないが、結果として五人の騎兵は落馬した。そして、彼等の愛馬は蜘蛛の子を散らすように草原へ逃げて行ったのだ。


 事が済んで老人の元に戻ってきた老騎手クランスは、少し息が上がった風だったが、老人を急かした。


「御仁、何なら荷車を馬に繋ごうか? そのほうが何かと早かろう」


 そして、言われるままに荷車を馬に繋いだ薬草売りの老人は、荷車の上で長櫃の隣に腰掛けるとオーバリオンの王都の方を振り返った。何となく、もう王都には戻れない気がしたのだった。


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 後の世で、オーバリオンを混乱に陥れた王位継承問題の発端は、このような経緯で始まった。しかし、その出来事が隣国リムルベートの巷で噂話を彩るまでにはまだしばらく時間を要したのだった。

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