Episode_16.27 明るい笑顔


 ブルガルトからリムルベートに関する情報を聞いた後、ユーリーはしばらく裏庭の四阿あずまやに留まっていた。そして小一時間後に、ふと我に返るようになった彼は、部屋へ戻っていた。途中で宿の玄関ホールにいた使用人に、装備を手入れするためのボロ布を求める。流石に傭兵達が多く宿泊する宿だけあって、準備良く必要なものは整っていた。小銅貨一枚を心付け代わりに渡したユーリーは、それを持って三階の小部屋へ戻った。


 流石にリリアが戻ってくるには未だ時間がありそうだったので、ユーリーは一人で装備の手入れに掛かった。何かしていないと、居ても立っても居られない気分だったのだ。そんな彼は、ボロ布を少し水で濡らして手甲や鎧の各部分の汚れを落とす。


 山の王国ドガルダコ王から頂戴したミスリル製の手甲ガントレットと仕掛け盾は、流石に装備品として超一級の素材を用いているだけあって、大きな傷や凹みは無かった。しかし、表面に貼り付けられた黒灰色くろばいいろの銀板には所々大きな傷が出来ているし、良く見ると地金のミスリルにも一か所大きな傷がついていた。それは、エトシアの戦いでドリムから受けた一撃だった。ユーリーはその時の強烈な一撃と骨折の痛みを思い出すと溜息を吐く。


 一方、もう三年近く手入れと補修や補強を繰り返した軽装板金鎧ライトプレート彼方此方あちこちに凹み傷や剣による鉤傷が出来ていた。傷の場所は後から塗られた黒い塗装が剥がれていて、地金の鋼色はがねいろが出てしまっている。ユーリーは、今回の船旅で、潮風を受け錆びるかと心配したが、今の所は錆が浮くような事にはなっていなかった。


 ホッとしたユーリーは別のボロ布に少量の油蝋ワックスを取ると、丁寧に磨くように全体に塗り込めていく。しばらくその作業に没頭するユーリーだが、頭の中は自然と砦に孤立していると聞いたアルヴァンの安否を想うのだった。


(食料や水は足りているのか……怪我なんかしてないと良いけど……ノヴァさんは一緒なのかな? もしも違うなら、何か行動を起こしているかもしれないな)


 状況が全く分からないだけに不安ばかりが募る。そして、それを考えないようにしようとしても、どうしてもそちら・・・へ思考が向くのだった。そんなユーリーは手を止めたり、再び動かしたり、と言う風になりながら作業を進めていく。そして、防具類の手入れが終わった頃には部屋の中は薄暗くなっていた。


「ちょっと、暗いな」


 燭台を見ると、昨日燃え尽きた蝋燭の燃え殻はそのままだった。ユーリーは蝋燭の交換を貰おうかとも考えたが、魔術で代用することにすると天井付近に灯火の明かりを浮かべる。白っぽい明かりは蝋燭のものとは異なり揺らぐことが無く、作業がやり易い。


 そしてユーリーは今や愛剣となった魔剣「蒼牙」を抜く。刀身は相変わらずの曇った風に光沢の乏しい青味を帯びた様子だ。極浅く湾曲し、切っ先近くで両刃に変化する刀身は傷一つ無い。ユーリーはそれを確認すると鞘に仕舞い。柄や護拳の部分をボロ布で拭いていく。山の王国直営店で柄拵つかごしらえを新しくしただけあって、この部分は今も補修の必要は無さそうだった。


 そうして、蒼牙の手入れを終えたユーリーが弓に手を掛けたところで、リリアが戻ってきた。


「ただいま! ちょっと遅くなっちゃった」


 溌剌はつらつと言う彼女は、大きな包み布を片手で抱えて、もう片方の手には大き目の木の盆を載せ、紐の付いた素焼きの壺を腕に下げている。その状態で扉を開けて部屋に入って来たのだから、一体どうやったのだろう? と疑問に思うユーリーだった。


 その器用な様子に見惚れてしまいそうになるが、それも一瞬のことで、ユーリーは立ち上がると少女から木の盆を受け取る。上には屋台で買ってきたのだろうか、炭火で焼いた魚の切り身や鶏肉、削ぎ切りのチーズに生野菜とピクルス、それに見慣れない薄焼きのパンが重なって盛られていた。


「あ、ありがと……昨日のお店で外套を受け取って来たのよ。それで少し遅くなっちゃった……それに……昨日の今日だし、あの屋台の辺りで食べるのはちょっとね……だから、別の所で買ってきたの。このワインも美味しいっていうから一緒に買って来ちゃった」


 そう言うリリアは、まるで大輪の百合リリーが咲いたような笑顔だった。


「……ありがとう」


 ユーリーはリリアの笑顔につられるように、笑って返事をしていた。


****************************************


 ユーリーは、どうやっても沈んでしまう気持ちをリリアに助けられたような気になっていた。何も出来ることが無く、ただ遠くにいる親友を心配するばかりの無為な時間が、彼女の笑顔と存在感で吹き飛ばされたように感じたのだ。


 そして二人は、小机の上に盆を置くと隣り合うようにして椅子を並べて座った。椅子を動かしたのはユーリーだった。他人の目の無い部屋の中で、相対して座るよりも横にいたい気持ちだった。


 一方のリリアは、そうするユーリーに何も言葉を掛けることはせずに、買ってきたワインを壺から素焼きのカップに注ぐ。


「はい、ユーリー」


 リリアからカップを受け取ったユーリーは、リリアの持つそれと一度合わせる。コツンという素焼き独特の音が響いた。口を付けると酸味よりも甘味を先に感じる飲みやすい口当たりだった。そしてリリアは、木皿の上から薄焼きのパンを取り出すと、具材を適当にその上に乗せて、それを巻くようにしてからユーリーに差し出す。


「はい、あーん」

「あーん、って?」


 ユーリーはどういう意味か分からずに、そのまま訊き返していた。一方リリアは、意味が通じなかったことに恥ずかしくなると、顔を赤らめながら、


「食べさせてあげるって意味よ! はい口開けて、あーん」

「え……あーん?」


 不思議な気分だったが、そうやって食べさせられた物は、シットリとした薄焼きパンに中の少し苦味がある野菜の歯ごたえやピクルスの酸味、そして香辛料が効いた魚の旨みが加わった独特の味わいだった。


「南のアルゴニアの食べ物らしいわよ」


 美味しそうにモグモグとやっているユーリーにリリアはそう言うと、自分用に手早く包んで口に持っていこうとする。しかし、それをユーリーはパシッと止めた。


「ぼぐもやる――」

「大丈夫よ、それにユーリーってなんだかいきなり口の中・・・・・・・に突っ込んできそうで……昨日みたいに」

「ぶっ!」


 反撃を意図したユーリーの行動は、予想外の、しかし見事な口撃による返り討ちを受けていた。ユーリーは口の中の物を吹き出しそうになるのを寸前のところで押し留めるのがやっとだった。


「ふふ……嫌じゃないから、安心してね」


 勝ち誇ったように言うリリアは、ユーリーの手を外してヒョイとそれを口に放り込むのだった。一方、追い討ちを掛けられた気分のユーリーはカップのワインをグイっと空けた。顔が赤いのは酒精のせいか、リリアのせいか……


 いつの間にか、親友アルヴァンを案じるだけの無為無策な状況に沈んでいたユーリーの心は、一途いちずな少女によってきほぐされていた。しかし、敏感なリリアはユーリーの中にある屈託くったくを見抜いていた。言うか言うまいか、訊くか訊くまいか。それを探るために色々と話しかけたり、ちょっかいを掛けながら、その微妙な線を探るのは少女といえども、女ならではの繊細さだろう。そして、リリアは意を決して言う。


「ねぇユーリー、何かあったの?」

「えっ……ああ、あった」


 少し酔いが入ったユーリーは、それを認めると事のあらまし・・・・をリリアに伝えた。それは、幼い日に出会った女魔術師アンナとの再びの邂逅、そしてブルガルトから聞いたアルヴァンの危急だった。


 一方リリアは驚きつつもトトマでの会話を思い出していた。


「ご、ゴメンなさいユーリー! 私、その話を聞いていたの……でも、言い忘れてて」


 そう言う彼女は、トトマ街道会館での会話をユーリーに伝えていた。


「そうか、ヨシンは行ったんだな……そうか」


 リリアの話を聞いたユーリーは何処かホッとしたような顔になった。そして、


「リリアが報せてくれたとしても、これまでの状況だと、何もどうすることも出来なかった。お前・・が謝ることじゃないよ」


 謝るリリアに「気にするな」と言うユーリーだったが、その後しばらく無言の時間になる。そんな無言の時間にリリアは不意にユーリーの身体に手を回して抱き締めると、耳の上辺りに口を押し当てた。そして、耳元で言う。


「行きましょう、アルヴァン様を助けに」

「え?」

「行くんでしょ?」

「……ああ、行くよ。手伝ってくれる?」

「バカ……当然でしょ」


 粗方の食事を終えた二人は、ワインの酔いも手伝ったのだろう、見詰め合うとそのまま口付け合う。一度絡めあったてのひら同士は短い別れを告げると、お互いの想いがおもむくままに互いの身体をまさぐる。やがて慣れた手触りに糸口を見つけだした二人の指先は、夫々の服の紐やボタンを解き放とうと動き出す。しかし、


「お客さーん、お湯もってきたよー」


 昨日と違う若い男の声に、二人の動きはピタリと止まった。そして、どちらともなく笑い合う。


「フフフ……ちょっと、綺麗にした方が良いかなって……お湯だけだけど」


 言い訳めいたリリアの言葉にユーリーは腕を解くと扉へ向かう。そして、熱い湯と黄麻布バーラップの布を畳んで重ねたものを受け取ると、少年のような使用人に小銅貨一枚を渡した。


「明日の朝――」

「分かってるよ、おやすみ」


 少年の使用人は機嫌よく去って行った。一方ユーリーは、後ろ手に扉閉めると内鍵を掛けた。カチャリという音が部屋に響く。対するリリアは何とも言えない魅力的な微笑みで、それを受け止めていた。


****************************************


 その夜、いや未明といえる時間にユーリーは不意に目を覚ましていた。夜の早い時間から色々・・と始めて、力尽きるまで精根を振り絞り合った愛する少女は隣で安らかな寝息を立てていた。


 ベッドの辺りに立ち込める青臭い匂いを、自分が発したものだと感じたユーリーは顔をしかめそうになる。しかし直ぐに、それを嫌な顔一つせずに受け入れた少女の姿を思い出していた。同時に、そんな少女の濃密な愛情に答えるように、拙いながらに全霊を籠めて責め立てた自分を思い出す。魔術による灯火の明かりは、明け透けに全てを見通すような光を投げ掛けていたが、それを意に介さずに、愛する少女リリアは全てを曝け出していた。


 ユーリーは、自分を受け止めてくれる少女の前髪をくすぐるように撫でる。短く細い茶色の髪は、月明かりだけの部屋で灰色に染まって揺れていた。規則正しい寝息は変わる様子はない。今更ながら、綺麗な寝顔だと思う。


「――」

「ん?」


 その時ユーリーは不思議な感覚を覚えた。「音階の無い声」とでも言うのだろうか? 呼びかける言葉から、空気の振動だけを取り払ったような不思議な「音」が聞こえたような気がした。


「なんだ?」


 勿論、ユーリーの問いに答える者はいない。だが、彼は確実に自分に向けて発せられる波動のような声を聞いていた。


 そして彼はベッドを抜け出すと、脱ぎ去ったままの服を身につける。そして、少女が持ち帰った外套マントを羽織ると、静かに部屋を後にするのだった。

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