Episode_16.09 聖女


 伝書鳩は、鳩の持つ帰巣本能を利用した通信手段だ。アートン城の鳩小屋から持ち出された鳩たちは、放たれた後、真っ直ぐに数百キロ北東にあるアートン城を目指す。そして、同じ日の夜に二羽の鳩・・・・がアートン城の中庭にある鳩小屋に戻った。しかし最後の一羽は、同じアートン城内ながら、何故かイナシアが寝起きしている居館の一室の窓をコツコツと叩いていた。


 その時、イナシアは自室でリムンの街から避難してきたリシアと面談していた。イナシアは、リシアの双子の弟ユーリーが戦闘後行方不明になったことを祖父で宰相のマルコナから聞き知っていた。彼女自身も胸を締め付けられる思いがあったが、再会を果たしたばかりの双子の姉リシアは、さぞ心配しているだろう、と思い慰めるために呼んだのだった。


「リシア、元気を出してね。居場所が分かれば身代金だってきっと……」


 リムンの街の戦闘が集結してから四日間経過しているが、ユーリーに関する身代金交渉は全く音沙汰なしだった。しかし、イナシアは気休めでもそう言わなければいけない気持ちだったのだ。しかし、一方のリシアはそれほど動揺した様子は無く……いや全く平素の風で返事をする。


「あの子は大丈夫。生きている、分かるから」

「そ、そう……ならひと安心ね――」


 少し素っ気ない風にも感じるリシアの態度だったが、イナシアはリシアが取り乱すよりはずっとマシだと考えるようにした。


 その時、コツコツと窓を叩く音がした。


「なにかしら?」


 イナシアは窓に近寄ると、城で飼っている伝書鳩の姿を見つけて窓を開ける。イナシアが戯れに餌をやっていた事があったので、この伝書鳩はイナシアの部屋を自分の巣だと認識していたようだ。その鳩はエサを催促するように首を振るとホロッホーと鳴声を上げた。しかし、イナシアの注意はその足に括り付けられた小さな木筒に向かう。


「……」


 木筒の中には親指の先程に丸められた紙片が入っていた。それを慎重に広げたイナシアは書いてある文字を読む。そして、一気に蒼ざめたのだ。


 ――朝日に雲が差した、至急聖女をトトマ経由でディンスへ、途中で合流する可能性あり――


 一見すると意味不明の文章だが、流石に元公爵の孫であるイナシアにはその符丁ふちょうの意味が分かった。「朝日」とはコルサス王国の正当後継者であるレイモンド王子を指す。「雲が差す」は怪我または病気である。そして「聖女」とはそのままリシアの事を意味しているのだろう。要するに、レイモンド王子が怪我または病気になったので、聖女リシアをトトマ経由でディンスに送れ、という意味だった。


「イナシアさん、どうしたの?」


 真っ青になり小刻みに震えるイナシアの様子に、心配気なリシアが声を掛ける。鈴が鳴るような声は、動転したイナシアの心を涼しく治めるものだった。


「リシア、落ち着いて聞いてね。レイが――」


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 元公爵で現宰相のマルコナは寝入りばな・・にその報告を受けた。内容が内容だけに飛び起きると、寝間着のままで当直の兵達に指示を出す。そして、居ても立っても居られない、という風に自身も居館を飛び出すと、兵達に馬車の準備を命じる大声を発する。しかし、


「お爺様、行ってまいります!」


 厩舎の方から黒毛の軍馬が進み出ると、慌てて指示を飛ばすマルコナへ馬上から声を掛けてきた。


「イナシア! それに聖女様……」


 宰相マルコナの目の前に進み出たのは既に乗馬服に身形みなりを整えたイナシアと、その前に鞍にすっぽりと収まるように横乗りした普段通りのローブ姿のリシアだった。既に出発し掛けている二人に、マルコナは疑問を思い浮かべることは無かった。ただ、


「イナシア、必ず送り届けるんだ! 聖女様、頼みます!」


 と言うのが精一杯だった。遠くで開門を告げる兵士の声が響く。そして、乗り手ユーリーを失った黒毛の軍馬は新たな乗り手を得て、矢のようにアートン城を飛び出したのだった。


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 大分後になって、イナシアはその夜の遠乗りを、寝物語に・・・・夫に語ったことがあった。


「リシア様がユーリーさんの黒馬に言ったの『あなたは疲れない、翼の足を楽しみなさい』って。あの時、あの馬の足には本当に翼が生えていたようだったわ……」


 そんな彼女の言葉が示すとおり、どんなに急いでも一日半掛かるアートンとトトマの間を、その時の彼女達は一晩で駆け抜けていたのだ。


「ああ、後を追い掛けた騎士達が一度も追いつけなかったと聞いている、正に奇跡だな」


 そんな妻の言葉に相槌を打った夫は、ベッドの上で背を向けて横たわるイナシアを抱き寄せる。後ろから回した左手が五指に満たない掌で豊な膨らみを押し包む。不器用な愛撫だが、その手を愛おしむようにそっと自分の手を重ねたイナシアは、少し甘い声色で呟いた。


「でも、あの後の奇跡に比べれば……ねぇ、アーヴィル」

「ん……」

「もう、あんな事・・・・しないでね」

「ああ……約束する、絶対しない」


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 瀕死のレイモンド王子と、ディンスの街の聖職者二人、それに騎士アーヴィルを乗せた荷馬車は、ヨシン達遊撃騎兵隊に護衛されながら街道を北上していた。ディンスの街で徴発した「魔石」を大量に消費して、揺れる馬車の上で、交代で神蹟術や魔術を試みながらの行程であった。


 途中の北の丘で負傷兵の救護に当たっていたカテジナと老魔術師アグムも合流していたが、カテジナの神蹟術はいうに及ばず、老魔術師アグムの「解呪デ・スペル」をもってしても、レイモンド王子に掛けられた魔術具の効果は取り払えなかった。


 そして、襲撃があった翌日の午後、一行はエトシア砦に辿り着いたが、そこで本当に動けなくなった。レイモンド王子の容態が急変したからだ。


 それまでは、魔石の魔力を消費しながら毒の進行を押し留めていたが、遂に魔石が尽きたのだ。そして、レイモンド王子の身体は急速に毒に蝕まれていく。毒は、出血性の毒と麻痺性の毒を混ぜた特殊な物、というのが老魔術師アグムの見立てであった。


 砦の居館の一階に馬車の荷台を突っ込んで、その上に寝かされたレイモンドを見守る一行である。騎兵達はトトマの街にいる聖職者や救護院の人々、そして一軒だけある魔術具店に走っている。そのため、この場に残ったのはアーヴィル、ヨシン、ダレスに、カテジナとアグム、そしてディンスの街から付き添ってきた聖職者二人だった。


 左腿の切り傷から侵入した毒により、レイモンド王子の左足は既に青黒く変色し壊死の兆候を見せ始めていた。また、首筋に付いたか掠り傷からも毒が侵入しており、握り拳大の赤黒い腫れを生じていた。その状態でレイモンドの身体は再び激しい痙攣と硬直に襲われていた。


 こうなると、周りの人々にはもう成す術が無かった。とっくに意識を手放しているレイモンド王子の耳元で励まし、元気づけるような言葉を掛けるしか手が無かった。そして、その状態が小一時間ほど経過したとき、不意にレイモンドを襲った痙攣と硬直が止んだ。そして、荒々しく浅かった呼吸が徐々に弱くなっていく。


「レイ! 死ぬな! おいっ!」


 レイモンド王子の耳元でヨシンが叫ぶ。しかし、徐々に弱くなった呼吸は最後の一度を、はぁ、と小さく吐いて遂に止まってしまった。


 その様子に、アーヴィルは無表情のまま自身の剣を引き抜き、それを自分の首に当てる。


「ちょっと、アーヴィルさん! なにやってんだ! ヨシン!」


 自害しようとするアーヴィルの腕を寸前のところで押し留めたのはダレス。しかし、振りほどこうとするアーヴィルを押え切れず、ヨシンの名を呼んだ。一方、その光景を目にしたヨシンは無意識のうちにアーヴィルの顔面に拳を叩き込んでいた。気持ちは分かるが、言葉にならない。


 その時、


「イナシア様、聖女様がご到着です!」


 砦の警備をしている衛兵長が駆け込んできた。


****************************************


 馬から飛び降りたイナシアは、ふらつく足元に転倒してしまったが、直ぐに起き上がると両足を踏みしめるように居館に向かう。既にリシアは中に入っていた。その後を追うように居館に入ったイナシアは、荷馬車の荷台の上のレイモンドよりも、真っ先に床に突っ伏して嗚咽を上げるアーヴィルの姿が目に入った。鼻血を流しながら突っ伏す彼の隣には、彼の剣を奪ったヨシンが複雑な表情で立っていた。


 一瞬で状況を察したイナシアは、ヨシンに小さく


「ありがとう」


 と伝えていた。


 一方、荷台に駆け上がったリシアは、そこで変わり果てたレイモンドの姿に対面していた。土気色の顔、赤黒く腫れ上がった首、そしてジクジクと血を垂れ流す足は青黒く壊死していた。


「そんな……」


ドクンッ


 そこには、はにかんだ笑顔を浮かべる王子の姿は無かった。


ドクンッ


 ぎこちなく自分の手を握ってくれた大きな手は急速に冷えて行く。


ドクンッ


 優しい言葉や、国と民の将来を熱っぽく語る言葉はもう紡がれない。


ドクンッ


 今度は口同士で口付けしようと思っていた、形の良い唇は青黒く力なく開いたまま……


 短い間だったが、強烈な想いを彼女に刻み付けた青年が目の前で骸となっている。その事実をリシアは断固として受け入れない。心臓の鼓動が徐々に早くなる。そして、自分の中で「力」が膨れ上がるのを感じていた。


 その「力」は、彼女が本能的に恐れ、抑えていた力だった。それが起こったのは、目の前でユーリーが瀕死の傷を負った時、そしてトリムで自分が襲われた時の二回だけ。どちらも無我夢中の状態だった。しかし、今のリシアは注意を内面に向けている。そして、積極的にその力を使おうとした。


(何がどうなっても構わない……でも、これだけは駄目……)


「レイ様!」


 「力」を使うのは難しいようで本当は簡単な事だった。ただ、自分の心の中にある扉を開けるだけ。それだけで良かった。そしてその扉は、恋に落ちた相手の名前そのもの・・・・だった。


 それを叫んだリシアは、次の瞬間眩い光に包まれた。リシアを包み込んだ光は周囲へ洪水のように溢れ出し、人々の視力を眩惑すると同時に、彼女の頭上に集まり光の輪となった。


 光と共に波動が周囲へ広がる。物理的な力さえ伴った光の波動は、居館の一階で渦を巻き、居合わせた人々を弾き飛ばす。そして、硬く閉ざされた木戸や窓を全て吹き飛ばして外へ伝わって行く。


 そんな光の渦の中で、リシアは無造作に左手を振るう。まるで蜘蛛の巣を払うような仕草だが、それに呼応してレイモンドの身体を覆っていた黒紫の薄い膜が引き裂かれ霧散した。そして、


「レイ様、もう大丈夫よ」


 そういうと、虚空に微笑み掛け、そして手を伸ばし何かを抱き締める仕草をする。リシアは、その状態でゆっくりとレイモンド王子の骸の上に折り重なる。


 砦の居館を中心に発した光は、起こった時と同様に突然消えていた。そして、光の渦の中心にいたリシアは、レイモンド王子の身体の上に折り重なるように倒れて気を失っていた。しかし、その聖女の身体の下では、血色を取り戻したレイモンドが規則正しい呼吸を繰り返していたのだった。


****************************************


 世界の東の果てにある孤島。その浜辺にある漁師小屋で二人の男女が肌を合わせていた。ぎこちなく律動する影が、小さい焚火の明かりを受けて粗末な小屋の壁に映っている。


 止められない動きの中で、男も女も自分のしている事を「狂っている」と感じていた。しかし、そう思いながらも何度も何度も、飽きる事無く行為を繰り返しているのだった。


 やがて、男が何度目かの頂き・・へ到達する。誰にはばかる事も無く上げる雄叫びに、女の嬌声が被さった。


 そして、しばらくの沈黙が訪れる。


「私は、もう行かなければ……アズールはどうするの?」

「その島には『正塔』があるのだろう。西の正塔、私もそこへ行く」

「でも飛んで来たら目立つから……船にした方が良いわよ」


 アンナは少し寂しそうに言う。対してアズールは微笑みを浮かべながら言うのだ。


「分かっている。ベートか何処かの港から船に乗るさ……きっとまた会える」


 アンナはその言葉に頷くと、漁師達が小屋に着替えとして置いていた男物の服を身にまとった。そして、


「じゃぁ、カルアニスでね」


 と言うと、紅玉石を頂いた杖を片手に虚空に模様を描く。


(ふん! ようやく飽きたか……この色狂いめ)


 不意に頭の中に響くのは古代の魔術師の思念だった。


(なんだ、消えたんじゃなかったのね、残念)


 その魔術師の思念に厭味たっぷりで返したアンナは、次の瞬間掻き消えるように姿を消していた。


 そして一人残されたアズールだが、丁度アンナが「相移転」の魔術で姿を消した次の瞬間、大気を揺らす独特の波動を感じ取っていた。


「ユーリーか……いや違う……ならば双子の姉の方か……」


 世界の西で起こり、東の果てまで伝ってきた強力な波動に、アズールは得も言われぬ胸騒ぎを感じるのだった。

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