【西方風雲編】ハシバミ色の月
Episode_16.00 無口な青年
中原から遥かに東、ポルマズ海に浮かぶ群島の一つには、近隣の漁師達が嵐を避けて逃げ込むための小さな入り江と漁師小屋が幾つかあった。しかし、元々非常用に作られた小屋は年に一度も利用する者がいない、ということは当たり前だ。そのため、
そんな漁師小屋の一つから、嵐でもないこの夜、暖を取る焚火の明かりが密やかに漏れていた。
****************************************
暗く狭い小屋の中の空間に、パチパチと薪が爆ぜる音が響く。少ない燃料を節約するため、火にくべられた薪は少ない。そして小さな炎が、時折吹き入ってくる隙間風に頼りなく揺れると、壁に揺らめく陰影を投げかける。粗末な板張りの壁に立てかけた杖の先端で
そんな頼りない焚火の近く、板張りの床の上に一人の人物が寝そべっている。細い金髪の巻毛が滝のように白いうなじから鎖骨に掛けて垂れている。そして、その巻毛の先に続く曲線は甘やかな膨らみを想像させる柔らかさを持っていた。しかし、そこから先は不似合なほど粗末な荒麻の
アズールは、もう何度往復させたか分からない視線を、瞼を閉じることによって遮った。手を伸ばせば届く場所に、彼には想像もつかない甘美と謎を併せ持つ存在が、無防備に横たわっていた。
(ジュリームは……このような宝を地上で得ていたのか)
わざと思考を別にやるため、アズールは亡き弟を思う。そして、瞑目したまま時が過ぎ、横たわる女が目覚めるのを待つのであった。
不意に横たわった女が
「気が付いた……かな?」
目覚めた人物 ――魔術師アンナ―― は、突然掛けられた男の声に身を固める。
一方、彼女に話し掛けたのは、同じ板張りの床に座り込んだ男だった。座っているが、それと分かるほどの偉丈夫。焚火の弱い明かりを受けても、彼の表情は彫像のように凛々しく精悍で、その顔を縁取るように肩まで伸びた金髪が赤銅色に輝いて見える。
「私の名前はアズールという。貴女がそうして寝ているのは、私が此処まで運んだからだ。当然、そうやって寝かせた訳だから……貴女の身体には触っている。しかし、不必要に触った訳では無いので安心してほしい」
下界に降りてここ数年、人と話す事に慣れたアズールだったが、今の口調は多少言い訳めいていた。
「……人を裸にしておいて……」
対するアンナは、まだ意識が混濁している部分があり、反射的に浮かんだ言葉をそのまま口にしていた。
「ああ、貴女の着ていた服は……とても服の役には立たないほどボロボロになっていたから、ここに着替えがある」
アンナからは見えないが、男の視線は部屋の隅を指している。
(……そうだ、あの時元師の放った
アンナは、最も新しい記憶を手繰るように取り戻していく。あの時、転移門が作動せず、どうしようもなくなった自分は
(ああ……あの時、樫の木村で……)
不意にアンナの記憶が過去の出来事と結びついた。それはもう七年前の開拓村での出来事だった。
(どうりで、ラスドールスの意識が出てこない訳だ)
普段ならば、煩いほど意志を投げかけてくる古代の魔術師だが、今はその
「私はアンナ……助けてくれたのは貴方、アズールさん?」
ようやく名乗った人間の女に対して、アズールは優しく微笑みながら頷いていたのだった。
****************************************
アーシラ歴496年 10月中旬 港町ターポ
コルサス王国を二分する勢力の一つ、王弟派が支配する街ターポは古くからの港街だ。直ぐ近くには先だって民衆派が暴動を起こしたトリムの街がある。
ターポとトリムはどちらも似たような港街であったが、トリムの港が中原の諸国へ向けた玄関口であるのに対して、ターポの港はカルアニス島やその更に南に広がるアルゴニア王国へと繋がる海の玄関口である。
一大消費地である王都コルベートも立派な港を有しているが、防衛上の理由から国内の港を行き来する内航船しか入港できない。そのため、地方港であるターポの港は荷物の積み替え基地として、古くから海洋交易の拠点とされる街である。嘗て、この国が内戦で割れる前は、北回りの街道がアートンからターポに繋がるため、現在以上に大変な賑わいだったというが、もう二十年以上昔の話である。
そんなターポの街の東側、港から街へ続く斜面の途中にある区画には、ターポとカルアニス島を繋ぐ航路における貿易の中心地というべき「四都市連合海運ギルド会館」が存在している。そんな場所柄、この区画には商船に同乗した商人や街道を行く隊商達が宿泊するための中程度の宿が軒を連ねていた。
そんな宿の一つ「懐かしの我が家」亭は、石造りの堅牢な三階建ての宿である。値段は一泊銀貨五枚と安くは無いが、清潔な館内と高めの価格設定を受け入れられる客層によって、全体的に落ち着いた雰囲気のある宿だった。
その宿には、今「暁旅団」という傭兵団が半ば貸切り状態で滞在していた。滞在は既に一週間を経過しているが、今月末までの宿賃を前払いした彼等は「一仕事を終えた」という雰囲気醸しつつも休息を取っている風だった。
傭兵団が貸し切った宿の三階の西側にある狭い角部屋は、一人の青年に割り当てられていた。線の細い、と言うよりも「引き締まった」と形容すべき体躯の青年は、耳に掛からない程度に切り揃えた艶のある黒髪をしているが、今は痛々しい包帯を巻いている。そして、普段ならば聡明さと快活さを併せ持つ黒曜石の瞳は、怪我のせいばかりでは無い憂いに沈んだようになっていた。
他の傭兵達は宿の中であっても帯剣しているが、この青年の腰には何も無い。ただ、右
その青年は、もう随分長い時間ベッドに腰掛けて目を瞑っている。時折、眉間に皺を寄せたり、コメカミの辺りがピクリと動いたりしている。また、良く見れば額には滲むように汗が光っている。その様子は魔術師達が行う瞑想に似ているが、それにしては随分と難儀そうに行っているのだった。
そしてある時、眉間の皺が一際険しくなったのを境に、青年は脱力するように盛大な溜息を吐き、目を開けた。そして、無言のまま頭を振るとベッドから立ち上がり窓辺へ歩み寄る。
西側、最上階の角部屋という立地ながら、青年は南の港湾地区とその先に広がるリムル海の景色を見る訳では無かった。彼は西向きの窓から、コルタリン山系が広がる北西の方角をジッと見詰める。
秋の午後の空は青く高い。連なる山々の上にも雲一つ無かった。しかし、晴れやかな好天が恨めしく思えるほど、青年の気持ちは沈んでいた。
「ヨシンは……レイは……ディンスの作戦はどうなったのだろうか?」
無自覚に言葉が口をついて出た。もう何度も繰り返した独白だった。その時、廊下を此方へやって来る人の気配がした。
その気配に、青年は表情を厳しく装うと、窓から離れて部屋の入口に向き合う。直ぐに、バタンという音ともに部屋の扉が開かれた。そこには、平服姿の両腰に小剣と
「ディンスの戦いに関する情報があった……知りたいだろう?」
中年の男は、青年を捕えた傭兵団の首領、つまり青年の敵だった。しかし、青年が知りたいであろう情報を仕入れてきたその男の様子は、捕虜に接遇する、というものではなかった。まるで、仲間の傭兵団の面々に接するときのように「気さく」だったのだ。
「……」
そんな気さくな様子と、今の今まで知りたいと欲していた話に、青年は無言ながら思わず頷いていた。
「よし、教えてやろう。コルベートから来た商人の話なんだがな――」
青年の様子に気を良くしたのか、傭兵団の首領は部屋の中に入って来ると、勝手に椅子に腰かけて語り出すのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます