Episode_15.14 罪の意味を知らぬ者達


 アートン城の城壁は、堅牢な山城にふさわしく頑丈な造りである。堅牢な居館を取り囲む二重の城壁の外周、つまり一番外側の城壁の上には常に数十名の兵士が見張りとして立っているのが常だった。しかし、一日中水も漏らさぬ警備体制というのは難しいもので、特に夜も深まったこの時間、幅の広い城壁の上を巡回する兵士はまばらだった。


 そんな城壁の上、北側の山岳地帯に面した城壁の上に一人の騎士が佇んでいる。彼は城壁の北側にそびえる山の稜線から北西の方角を向き、夜空を見詰めていた。まるでその先に在る天山山脈とその更に北側を漆黒の夜闇を通して透かし見ているような視線だ。


 長い年月によって風化した彫像のように彫りの深い顔立ち。しかし厳めしい顔立ちの奥には、優し気な双眸が光を湛えている。普段の彼はそう・・であるが、この夜は少し違ったようだ。北西の夜空へ向けられた視線は、迷い答えを求める者のように覚束なく揺れていた。


 そこへ、不意に足音が近付いた。軽い衣擦れを伴う足音は騎士の手前で止まると、少し躊躇うように逡巡したのち、慈しみの籠った声を掛けてきた。


「アーヴィル……ここにいたのね」

「……」


 イナシアの問い掛けに、アーヴィルは無言のままだ。親子ほど年の違う騎士のその様子に、晩餐を過ごした後のイナシアは心に冷や水を被った気持ちになる。以前に比べると、少しばかり想いが通じ合うようになり、人目の無い所ではイナシアの手を取って握ってくれるようになった彼だが、今は以前の彼に戻ってしまったように見える。


 しかし、彼の気持ちが分からないイナシアでは無かった。あらましはレイモンド王子から既に聞き知っているのである。その上で、晩餐にも顔を出さなかったアーヴィルを探してアートン城内を方々歩き回ったイナシアだった。そんな彼女は自分の背丈ほどの高さの鋸壁のこかべに背をもたれさせて、アーヴィルの顔を見る。


「貴方が思い悩むことは、もう無いのでは?」


 イナシアの言葉にアーヴィルは微かな身動みじろぎを示す。そして、


「……意味が、わかりません」


 かたくなな態度は、まるで殻を閉ざした貝のようだ。本当ならばそっとしておくのが一番良いのかもしれない。時間が解決できない心の問題は無いという。しかし、それではイナシアが困るのだ。どれほど求めても応じてくれない男の、硬く凝り固まった心をほぐすのは今しかない、イナシアはそう考えていた。だから、


「リーザリオンの騎士として、王命は既に果たされたのではない? 王子は健やかに聡明で逞しく育ち、姫もまた優しく美しく育った……二人とも自分の出自までは分からないようだけど、何故か姉弟であることは当然のように受け止めている。不思議なことね……でも、こういう事を運命と呼ぶのではない?」


 核心を突く言葉に、アーヴィルは顔をイナシアに向ける。


「お聞きになったのですか……」

「レイは、私と貴方の両方にとって、知ることが最も良いと考えたからこそ、私に話したのよ……彼を責めないでね」

「……」

「でも、貴方は何故――」


 何故、ユーリーとリシアが無事に育ち目の前に現れたことを喜ばないのか? そう言い掛けたイナシアは、アーヴィルの目に不意に現れた強い感情に息を呑む。そして、そのままアーヴィルが語る言葉を聞くのだった。


「当時の私には将来を誓い合った女性がいました。彼女は私のような騎士でありました。コルサスでは考えられない事ですが、私の祖国リーザリオンは小さな国で、有能な者は男女問わずに、マーティス様が召し抱えてしまうのです」


 そう語るアーヴィルの目には、別の女性が映っているのだろう。そう直感したイナシアだが、それを憎らしく思うことは無かった。


「しかしある時突然、隣国ユングが雪崩をうって攻め寄せて来ました。大国の猛攻に、リーザリオンは防戦空しく、次々と砦を落とされ、今日明日にでも敵は王城に押し寄せてくるという窮地に立たされました。そんな時、マーティス様は、姫君エルアナ様とお生まれになったばかりの双子を私と彼女に託されたのです」


 五指に足りない手を握り締めるアーヴィル。ワナワナと小刻みに動く手が、力の籠り具合を示していた。そして、語気が一段と強くなる。


「私は国と共に、マーティス様と共に、そして弟や仲間達と共にユングと戦い、そして散るべきだった! しかし、その時の私は、浅ましくも別の未来を見たのです。彼女と逃げ延び別の国で安穏と暮らす、そんな未来を見てしまった……」


 もう何度も何度も、数えきれないほど心の中で繰り返した後悔と懺悔なのだろう。しかし、何年経っても、その思いはアーヴィルの心を斬り付ける刃の鋭さを失わなかった。そんな血を吐くような声に、イナシアもまた心に痛みを感じる。


「しかし、エルアナ様は間際で城に戻ることを決意され、天山山脈を南に逃れるのは私と彼女、それに未だ乳飲み子のユリーシス様とリスティアナ様の四人のみ。何とか難所を切り抜け、最後の雪渓を渡った時……私達は魔物に襲われ、彼女はリスティアナ様と共に谷底へ落ちてしまった……あの時、咄嗟に伸ばした手が、リスティアナ様でなく彼女を掴もうとしたから、二人とも救えなかった。谷底に落ちる瞬間の彼女の瞳は……『なぜ?』と、なぜリスティアナ様でなく自分に手を差し伸べるのだ、そう私を責めていました!」


 一気にそう言うアーヴィルの頬を、既に枯れてしまった涙が伝うことは無かった。しかし、イナシアは別だ。彼女は美しい碧眼に涙を浮かべると、それが溢れて両頬を伝うに任せていた。後悔と懺悔、諦めと自責、あがない切れない罪悪感と喪失感に苛まれ続けたアーヴィルの心を思う。同情など何の足しにもならないだろうが、それでも心底あわれだと感じた。


 しかし、今アーヴィルに必要なのは優しい憐れみの情で無い。イナシアはふとそんな風に感じていた。一方、アーヴィルの血を吐くような告白は続く。


「……私は、大切な所で目を曇らせ過ちを犯した男です……我が子とも我が弟とも想うレイモンド王子に忠節を誓うべき身でありながら、この期に及んで、その忠節すら向ける先が覚束ない。もしもレイモンド王子とユリーシス様、そしてリスティアナ様の身に同じだけの危難が降り掛かったならば、どちらを助けるべきか迷うに違いありません」


 最後の方は力ない呟きのようになったアーヴィルの告白に、イナシアは意を決して言葉を掛ける。毅然として言いたかったが、止まらない涙は仕方なく、彼女の言葉は涙声だ。


「アーヴィル、貴方に必要なのは慰めではなく断罪ね……貴方と将来を誓い合ったその女騎士ひとが、最期の時に貴方を責めていたかなど、誰にも分からない。だけれども、今貴方は託された二人の御子の成長した姿に出会ったの……二人の前で、貴方が自分の過ちだと思う出来事を告白しなさい。そして、ゆるしを乞う気になれないならば、いっそ罰を望みなさい」


(そうしなければ、貴方は前に進めない……から)


 敢えて厳しい言葉を選んで投げ掛けるイナシアの声は、アーヴィルに雷撃のような衝撃を与えた。そして、後悔と自責に疲れ果てた騎士の心に、罰を受ける、という光明が差したのだ。


 そんな二人の様子を、夜空の頂点に差し掛かった下弦の月が見下ろしていた。


****************************************


 西方辺境地域でも最西部に位置する森の国ドルド。エルフ達の街、樹上都市ドリステッドの中心に聳える一際高い古代樹の枝から、明け方前の西の空を眺める者がいた。


 彼女の瞳は森の木々の梢の上に淡く光る「双明星」と呼ばれる双子星の姿を見詰めていた。光を増す場所によって「明けの明星」や「宵の明星」と呼ばれる双子星は、星の巡りを司る神秘の働きにより、夫々違う動きで星海を巡っている。それが今、殆ど重なり合うような相を夜空に見せていた。


「出会ったのね……良かったわね、マーティス、リサちゃん」


 そう呟くレオノールに答える者はいなかった。しかし、彼女は何かを聞いたように短く頷く。そして、


「そろそろ、あの子も出番が来るわね」


 と言うのだ。


 明け方近くの西の空には、淡く光る双子星と、それを追い掛けるように地平線を目指す下弦の月があった。夜明けはもう少し先だ。


****************************************


 ――同じ夜、ターポの街――


 その青年は身綺麗にしていれば風采の立つ美男子だろう。しかし、薄汚れた金髪と淀んだ碧眼、そして垢じみた衣服は見る者に下賤な印象を与えている。そんな人物は、ターポの街の中心に位置する建物の中で、ある人物と面談していた。


「ほう、リムンに抜け道があると言うのか」


 先ほどまで男が語っていた内容に、興味を示すのは王弟派第一騎士団長スメリノである。数週間前に、暴動中のトリムの城砦から救い出された彼は茫然自失 ――忘我―― の重篤な異常状態にあった。ターポの城砦に収容された彼は、王都コルベートから派遣されたミスラ教とマルス教の聖職者の手によって「覚醒リカムマインド」の神蹟術を施され一週間前に異常状態から回復したばかりであった。


 大失態だった。伯父である宰相ロルドールの権力を以ってしても、全てを隠すことは出来なかった。そんなスメリノに対して、父親である王弟ライアードから直接の叱責は無かったが、一方で、第一騎士団長の任を解くべきという声が聞かれるのは事実だった。


 誰からも表だって非難は上がらない。しかし日頃の素行の悪さも手伝い、王宮内でスメリノの失態を積極的に擁護する声は少なかった。そんな状態なのは、当然スメリノも承知していた。


 失敗を取り戻そうと、若いスメリノは必死になって善後策を考える。トリムを攻め落とす事も考えたが、それは出来ない話だった。トリムは自治を宣言しただけで、まだ王弟ライアードの支配下に留まっている。税も変わらず治めるという約束であるし、或る程度の自治を認めるなら、太守が戻っても良いと言って来ている。巧みな政治交渉の可能性はあるが、馬脚を現さない以上、今攻めるには理由が無かった。


 そんなスメリノに面談を申し込んだのがこの男だった。驚いたことに、彼は自分を


「アルキム・アートン……アートン公爵領の正式な相続者です」


 と名乗っていた。確かに昨年の「八月事件」以後、ドルフリー・アートンの長子アルキムが供回りと共に行方不明になっているという情報は掴んでいたスメリノだが、その自己紹介には驚きを隠せなかった。しかし、驚きと同時に汚名をすすぐ絶好の機会が巡って来たと、内心は喝采を上げていたのだ。


 そして、アルキムを名乗る男は、難攻不落と思われたリムン峠の砦について抜け道があると伝えて来たのだった。


「しばし、この館に留まられよ……その上アルキム殿が言うような抜け道が存在したならば……貴殿は何を望むのだ?」


 スメリノの言葉に、アルキムは卑しい表情を浮かべて言う。


「ライアード陛下の元に治世が定まりました後は、アートンの領地を安堵して頂きたい」


 アルキムの答えはスメリノの予想通りのものだった。そのため、少し相好が崩れたスメリノだが、快活な調子を装い即答するのだった。


「お安い御用だ! 先ずは抜け道を確かめた後だが……ゆるりと寛ぎ朗報を待たれよ」


 全く守る気のない約束を気前良く交わすスメリノと、彼の狡猾さを知らないアルキムは、噛み合わない思惑のまま、しばし笑合うのだった。

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