カミツレ

hiyu

カミツレ


 花を一輪。

 銀貨を一枚。

 その花を手折るのは、いつだって名も知らない誰か。

 花を全部、ありったけ。

 銀貨は何枚?

 その花を愛でるように、私に触れる。

 その手を取るだけ。

 それだけで、終わる。

 世界がすべて。


 花をくれ、と言われたら、私は手にしているカゴから一輪の花を差し出す。名も知らない小さな花だ。それは野で積んできた珍しくもないありふれた花で、お金を出さずとも手に入るようなものだ。

 私はそれを、売りに行く。

 銀貨一枚と引き換えに。

 カゴの花は一度に一輪、売ることになっている。

 私の手に銀貨を落とし、見知らぬ誰かが花を買った。目を合わせることなく、無言で、お互いの手で花と銀貨が交換されるだけだ。

 花は私。

 一輪の花と共に、私は買われる。

 目を閉じて、耳をふさいで、心を閉ざして、事が終わるのをひたすら待つ。

 路地裏、物陰、木立ち、茂み。

 私の身体は商品で、けれどそれはとても安物。私を気遣う人間は誰一人いなくて、手折られたあとはいつも一人で膝を抱える。

 汚れた身体を見るのが嫌で、震える身体を抱き締めながら、叫び出したくなるのを必死にこらえる。

 花を一輪。

 銀貨を一枚。

 それが私の値段。

 花を買う見知らぬ誰かは、いつも、手渡した花と私の両方をうち捨てて行く。

 私の横で、踏み潰されて、無残に散った名も知らない花を思って、私は泣く。

 自分のために泣くことはできなかった。だから、ゴミのように捨てられてしまうこの花のために、私は泣くのだ。

 土や草の汁で汚れた私の衣服は、何度洗っても汚れが落ちない。だからいつも、夕闇の中で花を売る。明るい日の光の下では、私はみすぼらしく見えてしまうから。

 花を一輪。銀顔を一枚。

 私の価値は、どのくらい?

 花をくれ。

 カゴの中から花を一輪。銀貨と引き換えにそれを渡す。

 その花をきれいだと言ってくれる人は一人もいなくて、まるで事務的に、機械的にそれを受け取る。

 嘘でもいいから、その花をきれいだと言って欲しかった。

 野に咲く名も知らぬ小さなこの花を、美しいと褒めてほしかった。

 それだけできっと、私の心は救われるのに。

 その花を持ち帰って飾ってくれるならば、きっと、私自身も救われるのに。

 花を一輪。

 そう、たった一輪。

 誰も彼も、それを愛でる余裕すらない。

 私は目を閉じる。

 耳をふさぐ。

 心を閉ざす。

 ただひたすら、時間が過ぎるの待つ。

 誰も花を愛でてはくれない。

 誰も私を、愛でてはくれない。

 汚れた私は、一人で泣く。無残に散った花を思って。


 花を一輪。

 そう声をかけられた。

 私の目を見て、その人は言った。

「花を一輪、売ってくれますか」

 私はうなずく。

 野に咲く名も知らぬ小さな花を、そっと差し出す。

「値段は」

 その人の問いに、私は答える

「銀貨一枚」

「銀貨一枚」

 その人が繰り返す。まるで確認するかのように。

 高いのか、安いのか、私には分からなかった。

 その人が私の手に銀貨を落とす。私はそれを受け取り、花を渡す。その人は花を手にしてそっとその香りをかいだ。

「甘くさわやかな香りがしますね」

 私は戸惑う。この花を摘み、こうして売りに来ているのに、その花の香りを確かめたことは一度もなかったことに気付いたからだ。

「あなたのように」

 その人の手が私に伸びてきて、そっと私の髪を、そして頬を撫でた。

 優しく微笑むその顔が、なぜか急に私の心を乱した。

「いただいていきます」

 私の頬から手を引いて、その人は言った。

 花を一輪。

 その人は、買った。

 銀貨一枚で。

「花を──」

 私はその背中に声をかける。

「買ったのですか?」

 こんな小さな、名も知れぬ花を。

 私ではなく。

 その人は振り返らなかった。私の声が聞こえていなかったのかもしれない。その姿は通りを歩いていき、雑踏に消えた。

 私は震える指先で自分の頬に触れた。その人に触れられた場所が、とても熱い、と思った。


 花を一輪。

 私はいつものように銀貨を受け取る。踏みにじられた花を見つめて、膝を抱える。そしてその花のために今日も泣く。

 目を閉じていても、耳をふさいでいても、心を閉ざしていても、いつの間にか私はいつかのあの人を思い出していた。

 銀貨一枚で小さな花を、花だけを買った人。

 私に熱を落として。


「花をください」

 あの人がまた、来てくれた。

 私はうなずき、カゴの中から一輪の花を選び出す。今日積んできた花の中で一番きれいに咲いたそれを。

「花一輪は、銀貨一枚」

 まるで歌うようにその人は言った。そして私の手のひらにぴかぴかの銀貨を落とす。

「その花は、すべて売り物ですか?」

 私はうなずく。

「きれいな花ですね」

 その人はそう言って微笑んだ。

 私の心が大きく揺れる。

 花をきれいだと言ってくれた人は初めてだった。

「それに、とてもいい香りがします」

 受け取った花の香りをかいで、それをそっと私に近づけた。

 甘くてどこか涼しげな香りが私の鼻先をくすぐった。

「ね、あなたのようでしょう?」

 その人の手が、私の髪を撫でる。優しく。

 私はぼんやりとその人を見つめた。大きな手がゆっくりと私の頬に下りてきて、親指の先でなぞるように私の唇に触れた。

「銀貨一枚」

 その人の唇が動く。

「それであなたを買いますか?」

 吐息が頬をくすぐるように、私に届いた。

 はい、と私は答える。

 それは花の値段なのか、それとも私の値段なのか。

 私を買ってください。

 できたら、この花をきれいだと言ってくれたあなたに、私は買われたいのです。

 私の唇にあなたの吐息を感じた。

 私は目を閉じたけれど、いつものように耳をふさぐことも、心を閉ざすこともなかった。

「花を一輪」

 あなたの声が耳元に聞こえた。

「美しい花を」

 それだけで充分だった。

 私は林檎にも似た甘い香りの花と共に、その人に抱かれた。


 あの人からもらった銀貨はとてもきれいで輝いていた。いつも私の手に落とされるそれは、くすんで汚れたものばかりだった。まるでそれがお前にはお似合いだといわれているような気がして、私は少し悲しかった。

 けれどこの銀貨はぴかぴかと光っていて、私の価値を上げてくれたような気がしていた。

 稼いだお金はすべて搾取される。

 親の作った借金のために、私は花を売っている。

 だから、仕方のないことだった。

 けれどこの美しい銀貨だけはどうしても手放したくないと思った。

 花を一輪。

 あの人が買ってくれた花。あの人が買ってくれた私。

 時間が過ぎるのを悲しく感じたのは初めてだった。

 あの人は優しく私を抱き締めて、手渡した花を大事に持ち帰ってくれた。

 花を一輪。

 銀貨を一枚。

 その花を手折るのは、いつだって名も知らない誰か。

 けれど私はもうこの花の香りを知っている。

 だから一人で膝を抱えて、散った花のために泣くのはやめた。

 踏み潰されても、散らされても、この花はとてもいい香りを放つ。淡く、それは私の元へ届く。


「花を──」

 あの人がまた来てくれた。私は微笑む。

 私に優しく声をかけてくれるその人は、まるで花を愛でるように私に触れる。

「花を売ってくれますか」

 私はうなずく。今日も、とっておきの一輪を選び出した。

 その人は首を振る。

 私は少し、不安になった。

 カゴいっぱいのこの花を、もうきれいだとは言ってくれないのかと思った。

「その花を──全部。ありったけ」

 その人は私の持つカゴを指差した。

「銀貨は何枚、必要ですか?」

 私は答えられない。

 花は一度に一輪。そう決まっていた。

「花を──」

 その人がもう一度繰り返す。

「売ってくれますか?」

 名も知らぬ小さな白い花。カゴいっぱいのそれは、私がこれからも売り続けなくてはいけないものだ。

 私はうつむく。

 どうしたらいいか分からなかった。

「一輪だけ」

 そうつぶやいた声が、自分でも驚くくらい震えていた。

「一度に一輪だけと決まっています」

「では一輪」

 私は顔を上げ、花を手渡す。その人は私の手に銀貨を落とす。

「──花を売ってください」

 その人が、言った。

「花を一輪」

 花はもう、一輪売った。私は戸惑い、その人を見返す。その人は優しく微笑み、私の手に再び銀貨を落とした。

「花を売ってください。一輪」

 私の手が震えた。3枚目の銀貨が手のひらに落ちた。その重さに胸がどきどきと大きく鳴った。

「花を──」

 銀貨3枚。私にそんな価値はない。

 もちろん、野で積んだこの小さな花にも。

 私はぽろぽろと涙をこぼしていた。その人が黙って私の頭を撫でる。

「花を一輪売ってください。私のために」

 そう言って私の頬に優しく口付ける。

 私はこの先も、ずっと、花を売り続ける。それを投げ出すことはできなかった。それがさだめで、私が生きていく理由でもあった。

 逃げ出すことなど考えられなかったし、そうしようとさえ思わなかった。

 けれど。

 見たこともないくらいの量の銀貨が、私の手に次々に落とされていく。

 このままでは、私のすべてが変わってしまうような気がしていた。

 花を売ることだけが私のすべてで、それが私の世界だった。

「花を──この甘い香りのする花を、すべて」

 その人の声が私の身体にしみこんでいく。

 もう、銀貨は私の手から零れ落ち始めていた。

「私が買います」

 その人の言葉に、私は泣いた。花のためではなく、自分自身のために。

 足元に零れる銀貨。

 カゴの中の花は、すべてその人の手にあった。

「銀貨一枚」

 最後に私の手に落とされた銀貨は──

「あなたを買います」

 足元には沢山の小さな白い花と大量の銀貨。

「まるであなたのような、その花の名はね──」

 耳元でささやくように、その花の名前を、その人が教えてくれた。

「この花と共に、あなたを」

 初めて知ったその花の名前を、私は一生忘れることはないだろう。

 私を抱き締めるその人の手を、私は取るべきなのだろうか。

 けれどそれで、私のすべてが終わる。

 花を売るだけの私のすべてが。

 それだけで、終わる。

 世界がすべて。

 この甘くさわやかな香りのする花と共に。


 了



 花を買いに来てくれるだけでよかった。

 自分自身が買われてしまったら、自分の世界は崩壊するような気がする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カミツレ hiyu @bittersweet

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ