第17話 こみ上げる思い

「部長は、いいですね」

 それは、少し意地悪な言い方だったかもしれない。

「何が?」

「楽しそうだから」

 何だか、宇佐美先輩が羨ましく思えた。

「そ、そうかなぁ……」

 宇佐美先輩は首をひねった。

「別に、松山が嫌なら、この写真も文化祭には出さへん……」

 少し拗ねたように言いながら、宇佐美先輩は柵の前に立ち、もう一度カメラのシャッターを切った。

 私も、もう一度カメラを手にし、ファインダーを覗いてみた。

 宇佐美先輩がこだわった夕暮れの町……

 ファインダー越しに見ると、とても小さな町で、小さな世界……

 全てが、次の瞬間には崩れてしまいそうで、もしかしたら、実際には存在だってしていないかもしれない……

 なんて、不確かな世界……

 なんて、不確かな……私の、思い……

 まばたきの後、夕日に視界がにじんで、不意にファインダー越しに見えてきたのは、町の景色ではなく……


 ——冗談はやめな。こんな所で……迷惑だろ。


 そう言った、高久さんの顔……

 怖い顔をしていた。

 豆カメラの小さなファインダー越しで、心が凍りついた。

 あんなに大好きで、あんなに憧れた男性ひと……だった。

 夏の夕暮れが心をざわつかせるのは、あの時と同じだからかもしれない。こんな時間帯、私はぐちゃぐちゃの気持ちで家路を急いだ。高久さんのことなんか、すぐに忘れると思って……忘れてやると思って、今目の前に広がる景色のどこかを、必死に走っていた。

 生暖かい風が頬を撫でる。耳を澄ませば、背後の山の息吹のような、街の息遣いのような、様々な音のさざめきが聴こえてくる。

 全ては、今この瞬間にはあって、次の瞬間には消えていくもの……

 あの日、庭先であのやりとりを聞くまで、何の疑いもなく信じていたことの全て……

 思い出すことを避け、忘れようとまでするのは……高久さんのことではなく……

 高久さん! どうして、あんな怖い顔をしたの!

 ショックだったのだ、それが。ただ、そのことが。

「あれが学校で……あれが俺らがスタートした駅やな……それで……」

 宇佐美先輩は、私がその方角を見ているかどうかも気にせず、遠くに見えるポイントを無邪気に指差していく。

 もう、ファインダーの向こうに景色は見えない。涙が私の両目を塞いで……溺れてるみたい。

「ほら! あそこの団地な、あれが俺の住んでるとこ」

 そんな宇佐美先輩の声が、別世界から聞こえて来る。

 まるで、それが何かの引き金のようだった。

 突然、自分でもよくわからない、胸をかき乱すような感情の波が次々に押し寄せて来た。未知の感情は私の全身を駆け巡り、その一瞬で、あまりにも多くのものを思い起こさせようとする。

 今日一日のことと、あの日、高久さんを駅で待っていた私と、あの日駅で声をかけてきた宇佐美先輩と、その後で会った高久さんと……

 走馬灯のようにって誰かが言った。本当にそんな感じに、ぐるぐると回りながら、あらゆる記憶を一瞬のうちに思い起こさせる。

 これは、現象?

 やっぱり、涙が溢れる……

 今日一日で何度も我慢した涙だったけど、今度は……我慢できそうにない。

 押し寄せる感情の波に追い打ちをかけるように、夕暮れは容赦なく全てを染め、急ぎ足で今日を連れ去ろうとする。

 喉の奥がヒュッと鳴る。鼻がヒクヒクしだし、しゃっくりのようなものが次第に嗚咽になり、そこからはもう、自分でも止めようがなかった。

 カメラを持つ手を下ろした時には、私は声を上げて泣いていた。

「お、おい! どうしたんや! 松山っ!」

 隣にいた宇佐美先輩が驚いて私に声をかける。

「お腹でも痛いんか? 急に……しんどくなったんか?」

 私のことなんてほうっておけばいいのにと、心のどこかで思っていた。もしかすると、今日一日、ずっと思ってたのかもしれない。

「俺が……こんなとこに連れて来たから悪かったんかな……」

 先輩の気の毒なぐらいの困惑ぶりに、かろうじて首をよこに振り「違う」の意思表示をしてみるけど、先輩に申し訳ないという思いが、余計私の大泣きに拍車をかける。

 私、バカみたいじゃん! 小さな子供みたいに大声あげて泣くなんて!

 でも、ここには宇佐美先輩以外に誰もいないんだ。そんなことも、どこかでわかっていた。その自分のずるさも、私を泣かす一因になる。

 先輩は何も悪くない。だから宇佐美先輩は、子供みたいに泣く私に腹を立てて怒りだしたってかまわないんだ。

 あの時の高久さんみたいに!

 高久さん……

 ああ……そうか。

 高久さんは、腹を立てたんだ……

 私が急に豆カメラを向けたから……

 ファインダーの向こうにいたのがきっと、真実ほんとうの高久さんだったから……

 それで私……ずっと、そんな高久さんの真実ほんとうが、自分でも想像以上にショックだったんだ。

 受け容れ難いと、思う程に……

 誰も知らないことだったから……

 私の思い……

 どれほど、あなたが好きだったかということなんて……

 もう少し私が大人だったら、お姉ちゃんから高久さんを奪ってやったのにと思ったことも……誰も、知らない……

 そして、高久さんの真実なんて、私も知りたくなかった……

 大人気ない、高久さんの最後の姿なんて!

 そんなこと、今になって気づいたのは……

 宇佐美先輩のせいだ!

 私は宇佐美先輩に背を向けて泣いた。

「俺……どうしたらええんや……」

 泣いていたけど、先輩の声はちゃんと聴こえている。

 頭が熱いし息も苦しい……でも、それに反して思考はどこか冷静だった。

 私はこんなふうに泣いたことがなかったから、泣き方さえわかってなかった。だから、呼吸がおかしくなって、胸が苦しくなり立っていられなくなって、地面にしゃがみ込んだ。

「だ、大丈夫か! 松山……救急車とか……」

 先輩は私の前に回り込んで、いよいよ慌てた様子だった。

 私はしゃがんだまま、そんな宇佐美先輩の方に手を伸ばした。「大丈夫」と言いたかったのだけど、指先に先輩の腕が触れたら、思わずギュッとつかんでしまった。汗ばんで、熱い先輩の腕だった。

 宇佐美先輩がそこにいることを確かめたくて、しょうがなかったのかもしれない。

 嘘みたいに呆気なく訪れた高久さんとお姉ちゃんの幕切れ。

 宇佐美先輩も、次の瞬間に消えてしまいそうな気がしたから?

 高久さんにはできなかったこと。高久さんには届かなかった、私の手。

「苦しいんか?」

 私は俯いたまま首を振った。苦しいのは間違いないけど、苦しいから泣くんじゃない。私にもわけのわからない感情のせいで、泣いていた。説明できない思いのせいで……

 それで……やっぱり、宇佐美先輩のせいです……

 高久さんよりずっと子供のくせに……

 何もかも、高久さんとは全然違って、高久さんなんかより全然かっこよくもないくせに!

 どうして……

 どうしてたった一日で高久さんがこんなにも遠のいて、先輩がこんなにそばにいるの!


 ——俺、まだ子供やぞ……


 まるで、私の心の声に応えるように、『お悩み相談』で宇佐美先輩が口にした言葉が私の中で閃いた。

 それは、とっても単純で明快な事実。

 高久さんのことが好きだった……大人ぶった私の気持ち、背伸びした思い。どうしたって、届かないのに……

 それに、本当はもう、わかってる。

 自分の気持ちもうまく説明できず……大泣きして……

 私も……まだ、子供です。

 だから、宇佐美先輩のそばにいられるんだ……

 こんな、恥ずかしい私のそばに、宇佐美先輩はいてくれるんだ……

 それなら……私、まだ子供でよかった。

 本当に、子供で、よかった!

 高久さんのことが遠のいても、しっかりとつかんでいたい腕が今ここにある……

 この瞬間が……とても、大事。

 そのことがわかったときに、やっと冷静になれて、泣き止むことができた。

 宇佐美先輩はどこへも行かず、まだ、そばにいる。

「急に……すみません」

 手の届く距離と、実際の感触が、こんなにも安心できる。

「気持ちの、問題……だと、思います」

「ああ……」

「今泣かないとって、思ったんで……泣いておかないとって……」

「どこも悪くないんか?」

「はい……」

「なら……ええわ」

「ごめんなさい」

「女子って、面倒やな」

「先輩は……面倒な人に、ならないでください」

「……俺、すでに自分で自分のこと、面倒なヤツやなぁって、おもてる」

 私は先輩の腕に軽く手をかけたまま、顔を上げた。先輩も私の方を向いていた。

「人間はけっこう面倒臭い。すでに、そうおもてる。だから写真撮るねん」

 その時の宇佐美先輩の顔……私に見せた表情……


 ——……俺はそんな瞬間を……つかまえたいんや……


 ああ! ……このことか!

 全部逃さず、つかまえておきたい! そんな景色!

 だって、きっとそれは、真実ほんとうでしかないから。

 私はその時、首から下げたカメラを掴み、先輩に向けて咄嗟とっさにシャッターを切った。ファインダーも覗いてないし、ピントも合わせてないけど、その時の先輩をつかまえておきたかったから。

 でも、変な体勢で慌ててシャッターを切ったものだから、私は反動でそのまま後ろにゴロンと転がるしかなかった。

 先に立ち上がった先輩が手を貸してくれて、私を引っ張り起こしてくれた。

「不意打ち過ぎるやろ、それ。カメラマン魂はすごいけど、パンツ丸見えやったで」

 私は恥ずかしさのあまり、もう一度泣きたくなってしまった。

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