第9話 お悩み相談

 作業机に置かれた「お悩み相談」の札。その向こうには、青いスポーツタオルを首にかけ、神妙な顔で椅子に坐る宇佐見先輩がいる。そして、たぶん私もそんな感じで坐っている。

 ここは、写真部の部室。でも今は『お悩み相談室』になってしまっている。

 宇佐見先輩と二人きりというシチュエーションは気まずい、などと考えていた今朝からは想像もつかない状態で、宇佐見先輩と差し向かいに坐っている。

 この感じ……何だか、高久さんと喫茶店で向かい合ったときみたい。

「別に、無理に悩み相談しなくていいけど……」

「いえ……せっかくのお悩み相談ですから……」

「そ、そうか」

「部長も、無理に標準語とか、使わなくていいですから」

「え?」

「だから……関西弁で話してください」

 そんなことを、何となく気恥ずかしくて、お互いに下を向いて言い合っていた。

 でも、いざ自分の言葉であの出来事を人に説明するとなると、それはとても難しいことだった。そもそも、私はこんなプライベートなことを友達にすら話したことがない。しかも、真面目に話そうと思ったことなんて、たぶん、一度もない! 

 今日も、セミはうるさい。校庭では野球部が練習していて、ボールをノックする音が遠くに聞こえる。

 あの喫茶店は涼しかったけど、ここは暑い。でも、目にしみるようなタバコの匂いがないから、まだましか……

「先輩は……タバコとか、吸わないですか?」

 唐突に、私はそんなことを口にしていた。

「俺、まだ子供やぞ」

 宇佐美先輩は間髪入れずに即答した。

 思わず、私は顔を上げて宇佐美先輩を見つめた。冗談を言ったつもりもないらしい。そこにはいつものように口を真一文字にして緊張した面持ちの宇佐美先輩がいた。

「じゃあ……大人になったら、吸いますか?」

「さあな……吸うかも。吸ってる人、かっこええし。絵になるからな。一度は……吸うかな」

 先輩は腕を組んで極めて真面目な顔つきでいる。私と目が合うと、スッと視線を横に逸らしたけど。何だか猫みたいだ、と思うと、少しおかしくなった。

 私も初めてのことをしようとしているけど、宇佐美先輩も初めてのことをやろうとしている。

 高久さんとは違うんだ……

 当たり前だけど、その事が私には嬉しい。

「終業式の後、駅で人を待ってたんですけど……その時、部長と会いましたよね? 覚えてますか?」

 恐る恐る、私は言葉を発っする。

 部長は唇を噛みしめるようにして、私の目を見ながら何度か小さく頷いた。

 私はそこで一度大きく深呼吸をした。「あの日」を宇佐美先輩が覚えていてくれた。ただそれだけでも、随分気持ちが楽になった。

 あの日、駅で宇佐美先輩に会う前に起こったことと、その後に起こったことをできるだけ正確に話そうと努めた。でも、こんな話を人にするのは、やっぱり怖いことだ。宇佐美先輩が私をからかっていたらどうしよう……そんなことをふと思い始めたら……

 私は急に頭が真っ白になって黙り込んでしまった。汗が頬を伝い、その都度タオル地のハンカチで拭う。

 そんな私の様子を見て、宇佐見先輩は一度席を立ち、扇風機を私の近くに持ってきてくれた。

 扇風機の風が心地いい。

 ふと宇佐美先輩の前に横たわる『お悩み相談』の札に目を遣る。のびのびした、元気のいい宇佐美先輩の筆跡。迷いのない、筆跡だった。

 宇佐美先輩の『お悩み相談』では、何でも思うままに話していいのかもしれない。ふと、そう思えた。

 自分の言葉で話そう! 今自分が話せる精一杯を!

「——私、お姉ちゃんの彼氏、ちょっと好きだったんです。大人の人として尊敬できるというか……とにかく、かっこよかったし……この人が義兄さんになるって、素敵なことだって、思った。でも、あんなことがあって……誰も悪くないって、どういうことかわかんないし……誰も悪くないのに、どうして私がこんなモヤモヤした気分でいるのかもわからないし……。お姉ちゃんもそうだけど、大人って……ムカつく……ほんっとに、超ムカつく!」

 結局、緊張しすぎて何をどう話したのか自分でもよく覚えていないけど、最後には宇佐美先輩を前におもいっきり愚痴ってしまっていた。


「それで……終わり?」

 宇佐美先輩が、話し終えて一息ついた私に尋ねた。

 私は黙って頷いた。

「あの日……大変やったんやな、松山」

 宇佐美先輩は独り言みたいに呟いて、首にかけたタオルで額の汗を拭い、窓の向こうを眺めた。

 どうしてか、私は泣きたいような気持ちになった。その時は、必死にこらえたけど。

「松山がムカつく気持ち、なんとなくわかるけどなぁ」

 宇佐美先輩は前屈みになって机に肘をつき、その手の甲に顎を乗せてチラッと私を見たけど、またすぐに窓の方に視線を転じる。

「だって、誰も悪くないなんて、嘘やから。みんなが悪いって言い方がな、矛盾してると思う。卑怯な気がするねん、俺は」

「卑怯……ですか?」

「その人、悪いのは自分って、松山のおっちゃんに謝ってたんやから、ずっとそれを貫かなあかんかったと思う。それは、松山の前でもそうやし。誰も悪くないけど、みんな悪いなんて言い方したら、自分はそこに含まれてないみたいな感じがして、他人ひと事みたいや」

 他人ひと事……それは妙にしっくりくる言葉だった。

「俺な……俺、なんか……そういう大人、嫌いや。自分のことやのに、他人ひと事みたいに言うヤツ。ほんまに、嫌いなんや」

 私は、何だか訳のわからない感情に襲われている。宇佐見先輩は、宇佐見先輩ではあるけど、今の先輩は私の知ってる宇佐見先輩ではないように思えた。

「もし、松山の立場やったら、俺……」

 先輩はそう言いかけて、私と目が合った瞬間、突然何事かを思い出したように、音を立てて椅子から立ち上がった。

「あかん! しゃべりすぎやな、俺!」

 宇佐美先輩が何を慌てているのかわからないけど、そう言うと自分の前にあった『お悩み相談』の札を手にとり、ひっくり返してまた同じ場所に置いた。さっきの札は、私の方から見ると『作業中』になっていた。

「お悩み相談とか、向いてないみたい……作業の続きやるわ!」

 宇佐美先輩は後ずさりしながら、そのまま暗室に入っていった。

「部長!」

 思わず私も先輩の後を追い暗室に駆け込んだ。

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