第8話 意外な事

 そういえば、あの日駅で高久さんを待っているとき、宇佐美先輩と会ったことを思い出した。状況が状況だったので、先輩のことをあれこれ考える余裕がなかったけど、あの日、宇佐美先輩は自分から声をかけてきて、必要以上によくしゃべってた……ような気がする。

 それって、とても珍しいことじゃなかったのか? 

 あの時宇佐美先輩は何を言ってたんだろう? 思い出さなきゃ……

 そんなことを考えていたら、あの日の高久さんの印象が蘇ってくるようでイライラしてしまう。私は宇佐美先輩のことだけを思い出そうとしているのに!

「もーっ!」

 つい、自分の部屋にでもいるかのような声を出してしまった。心の声、本能の叫びってやつ。

 とっさに宇佐美先輩の方を向いてしまう。

 作業台の上に広げたスケッチブックに何やら書き込んでいた宇佐美先輩が、敵の存在をキャッチしたミーアキャットみたいな素振りで首を伸ばして私の方を見つめていた。

 その目が「何?」って感じで、どこか脅えて見えた。

「すいません……あの、別に何でもないんです。考え事してて……その……なかなか結論が出なくて」

 先輩は離れた席でコクコクと二度ほど頷いて、また机に伏して作業を続けた。

 もう本当に、考えること自体イヤになってきた。何も考えなくて、毎日のベルトコンベヤーに乗せられ自動的に明日に運ばれて、それで、昨日までの部分はほうきで掃かれてキレイになったら、どんなに楽だろうと思った。そのイメージは、我ながらしっくりくる形で思い描けた。そして、少しおかしくなった。

 私、宇佐美先輩に何言ってんだろう。訳わかんないヤツって、きっと思われてる。

 リュックから豆カメラを取り出してみる。あの日、高久さんに向けたこのカメラ。この小さなカメラのファインダーの向こうで、宇佐美先輩はどう見えるだろうと思った。

 豆カメラなら、先輩に向けても気づかれないだろう。

 ファインダーの向こうで見える、宇佐美先輩……


 ファインダー越しに見える先輩は、薬品棚の下の引き出しからセロテープを取り出して、また席に着いた。さっき考え事をしながら何やら書き込んでいたスケッチブックをちぎり、それを三つに折って、折り目をセロテープでとめた。三角柱を横にした立て札ができた。

 そこで、先輩は突然立ち上がって私の方を向いた。豆カメラのレンズを見つめているようだった。

 ハッとして私は上体を起こし、顔を上げた。

 宇佐美先輩は手作りの札を指差して、明らかにそれを私に見せつけ、読んでみなという顔をした。そこには極太のマジックで何か書いてあった。遠目でもわかるぐらい大きな文字。

 『お悩み相談』と書かれてある。

 先輩は私がそれを見て読んだであろうことを確認すると、その札を回転させた。今度は『作業中』となった。もう一度回転させると『めし』となり、更に回転させて元の『お悩み相談』に戻した。

「今はこれだ」

 と言って、先輩は『お悩み相談』の立て札を再び指差した。

 私はやる気のない体勢から、俄然、好奇心に火がついた子猫のように椅子から立ち上がった。跳び上がったと言ってもいい。

 部長が柄にもなく面白そうなことを始めた!

 呼ばれた訳じゃないけど、先輩の坐る机の前に駆け寄った。

「何ですか? それ」

 何だか……久々にワクワクがこみ上げて来る。

「『お悩み相談』……始めてみた」

「部長が悩みを聞くんですか?」

「夏だし……な」

「夏……だから?」

「夏だし、悩み相談、はじめてみました……」

「夏だから悩み相談? ……ですか」

「冷やし中華はじめました……みたいな……」

「冷やし中華……?」

「みたいな……感じで……」

 宇佐美先輩の声が消え入りそうになって、突然笑いがこみ上げてきた。つまり、部長は……

「部長、そんな冗談……言うんですね!」

 おかしかった。先輩の言った冗談より、先輩がそんなこと言うんだという意外性がおかしくて。私は久しぶりに声を出して笑った。

 でも、先輩は少し呆れたように、

「そんなに笑えるなら、悩みなんかないよな」

 と、いきなり『お悩み相談』の札を下ろし、そのままお開きにしてしまいそうだったので、私は焦って宇佐美先輩を引き止めた。

「ま、待ってください! 夏限定お悩み相談……食べますから! ……あ、いや……相談、します!」

 すると今度は先輩がプッと吹き出した。

「何やねんそれ! 悩み相談食べるって! どんな味やねん!」

「……」

 思わず、私の笑いが止まった。それはたぶん、劇的なシーンを目の当たりにしたため……だと思う。

 先輩がふと口にしたその言葉。関西弁のイントネーションがあまりにも自然過ぎて、今のは冗談に思えない。

「……あ」

 突然冷静になった宇佐美先輩は、視線を宙に漂わし、バツが悪そうに頭をかいた。

「あ……あの……なんや……じゃなくて……その……」

 でもすぐに「ま、えっか……」と言って苦笑する。

「俺……小五の時まで大阪にいたから……いっぱい話す時はこっちの方がええみたいで……たまに気を抜くと、関西弁が出てしまうから……」

 いっぱい話す……と今宇佐美先輩は言った。とても新鮮に私の中で響いたその言葉。「いっぱい話す」宇佐見先輩なんて、想像がつかなかった。

「関西の言葉って、キツ過ぎるのか……こっちでは怖がられてるみたい。……聞き苦しいか?」

「そんなことない! そっちの方が断然いいですよ! 先輩にとっては、その方が自然なんでしょう?」

 と私が言うと、「なんか、俺の方が悩み相談してるみたいや」と呟いて、宇佐美先輩はまた頭をかいた。

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