第4話 誰が悪いのか

「大人にはいろいろあるんだよ」

 まず、そんなことを言われた。

 冷房の効いた喫茶店で、私はどこか鳥肌が立つ感じがした。急に涼しい場所に入ったからというのではなくて、その高久たかくさんが口にした言葉にだった。

 わからない! そんな理由じゃわからないし、通用しない!

 高久さんは何食わぬようにズボンのポケットからタバコを取り出して吸い始めた。

 いつもなら、タバコを吸う前に「いいかな?」って聞いてくれるのに、今日はそれはなかった。

 なんだか、高久さんが別人みたいな気がした。

「何でも好きなもの頼んでいいよ」

 私が黙ったままでいると、アイスコーヒーでいいかい? と高久さんが聞いてきた。私は頷いた。コーヒーなんて苦いから嫌い! 内心はそう叫んでいたけど。

 私は中学生、中学二年生、十四歳だった。

 ……だからね、大人のことは君にはわからないんだよ。知らなくてもいいんだよ。そんな声が聞こえてくるような気がした。

「誰が悪いの……」

 私はポツリと呟いた。高久さんが顔を上げたから、声が聞こえていたのだろう。

「誰が悪いんですか?」

 今度ははっきりとした声で言ってみた。

「誰って……誰も……悪い人はいないよ」

「そんなはずないよ! 悪い人がいなかったら高久さんだって父さんに謝らなくていいはずでしょう? お姉ちゃんだってこのまま結婚式ができるはずじゃない! 誰も傷ついたりしないはずだよ! 私すごく……」

 私すごく傷ついた……と思わず叫んでしまいそうになった。また全身が熱くなって、ジワリと額に汗が湧く。私には父さんの血が流れているんだ。げきしやすい性格だったって、はじめて気がついた。高久さんのように穏やかに物が言えなかった。感情に流されている気がする……やっぱり、子供なんだ。

「……」

 高久さんはさすがに答えに窮している様子だった。

 私ってイヤな子だと思った。

「……難しいね、そういうのは」

 高久さんは少し離れた位置にあった灰皿を自分の前に引き寄せ、タバコの灰を落とした。ここは喫煙席だったから、他のお客さんもタバコを吸っていて、煙たくて仕方がなかった。喉がイガイガして苦しくなる。高久さんがタバコを吸うのは知ってたけど、中学生に喫煙席なんて、ひどいよ。

「悪いと言えば……みんな悪いし」

 高久さんは気持ち良さげにタバコの煙を吐いて、そう言った。

 それはどこか、絶望的な光景に思えた。私が納得できるような答えなんて、この先高久さんはきっと口にしないだろう。

 今の高久さんの前では、私がどれだけ言葉を尽くして話しても、何も伝わらないような気がした。さっきまで私の中に溢れていた言葉が、急速に死んでいく気がした。涙が出そうだった。きっと、悔しいんだ。

 優しくていい人だとずっと思ってた。今までは、高久さんのそんな面しか見えてなかったし、見なかったのかもしれない。

 でも、たぶん、高久さんと一緒に暮らし始めていたお姉ちゃんには、いろんな面が見えていたのかもしれない。

「性格の不一致とか……価値観の違いですか?」

 離婚原因の常套句みたいなことを言ってやった。初めて私も感情を抑えて物が言えたという気がした。でも、それは逆に押さえてることがバレバレの、へたくそな演技だったに違いない。

「へぇ〜、文夏ふみかちゃん、難しい言葉知ってるね」

 高久さんは茶化したように言った。

「そうだね。……文夏ちゃんのお父さんやお母さんに迷惑かけちゃったけど、たぶん僕たちがこのまま結婚しても、すぐに別れるよ。それなら今……籍を入れる前の方が、お互いに自由でいられる」

 もっともらしく高久さんは言うけど、私にはまだよくわからない。それに、高久さんの言う「自由」の意味も、校則の不自由に縛られている私には想像しにくかった。

 でも、一つわかったことがある。私が高久さんに今感じている不自然さは、あの冷静さだったんだ。ただ、この大人らしい態度に憧れていたし、そんな高久さんが好きだった。高久さんみたいな大人なら尊敬できると思った。だからお姉ちゃんの結婚も素直に喜んでいた。

 だけど、今こういうことになった後だと、それは私には何もかも嘘くさいものに思える。その冷静さだって、まるで自分の感情や真実を覆い隠す分厚い壁みたいな気がした。

 壁があまりにも分厚いと……高久さんの顔が見えなくなる。

 それじゃあ、私が嫌いな大人と何も変わらない。

「高久さん……もう家に来ないんですよね?」

「文夏ちゃんちの敷居はまたげないだろうね、一生」

「お姉ちゃんのこと嫌いになった?」

 単純な質問だったけど、私はまだ何かにこだわっている。

 高久さんはしばらく考えていた。

雪那ゆきなのことは嫌いじゃないよ。お互いに決断するまでたくさん話したからね、それでこんなギリギリになっちゃったんだ。嫌いでもないのに別れるって、何だか変な感じだし、おかしいって文夏ちゃんは思うかもしれないけど……憎しみ合ったりしないだけよかったんじゃないかなって思うよ」

 私はその淀みなく語られる高久さんの言い方が、どこか学校の先生みたいでイヤだと思った。それに、心のどこかで「憎しみ合えばいいんだ!」と言ってる自分に気づいてやりきれなくなった。でも、その方がいい。その方がわかりやすいよ。

 高久さんはまたタバコを取りだした。手持ち無沙汰のように、ライターとタバコの箱を交互に弄んでいた。後一本吸うことを躊躇ためらっているようだった。どうせ、もうすぐ店を出るから……なんて。

 不意に、さっき会った宇佐美先輩のことを思い出した。

 宇佐美先輩が大人になると、こんなふうになるのだろうか。十四歳の女の子に、こんなにも不安を与えてしまう大人になるんだろうか?

 そういや私、まだ宇佐美先輩のこと、それ程知らない。私が一方的に先輩に興味を持ってるだけだから。いつか、宇佐美先輩に聞けたらいいのに……

 宇佐美先輩のことを思い出すと、なんだか少しホッとする。

 私は小さく息を吸って、スカートのウエストを少し引き上げてみた。その時、右側に何か重たい感触があった。

 ポケットに手を突っ込んで思い出した。

 学期末の最後の部活で、写真部の後輩にお祖父じいちゃんがくれた豆カメラを見せてやったのだ。手のひらに載せて、ギュッと握れるぐらいに小さなカメラ。特殊なフィルムが必要で、今はそれが入ってないから写真は撮れないけど、とても精巧にできていて珍しい物だったので、その話をすると後輩部員はみな興味津々で見たいと言いだした。

 あの日、あれからすぐに部室の掃除があって、それを鞄に仕舞い損ねて、スカートのポケットに入れたままにしていたのだ。

 私は豆カメラをポケットから取り出して膝の上で確認した。

 さっき水に濡れたせいで、本当に壊れてしまったかもしれない。

 ファインダーの向こうを覗く瞬間、その瞬間には真実しかないと言った人がいます……

 これ、誰が言ったんだっけ?

 私は豆カメラを高久さんに向けてみた。

 そして、片目をつぶって小さなファインダーを覗く。

 ファインダー越しに見える高久さんは、驚いて目を丸くした。でも、すぐに真顔になり、非難めいた眼差しを隠すこともなく、こちらを睨みつけた。

「冗談はやめな。こんな所で……迷惑だろ」

 苛立たしげに、高久さんは大人の権限を使った。

 その瞬間に、高久さんが見せた真実を説明する言葉は、私の中に見つからない。探したくもなかったのかもしれない。

 今までにあなたの写真を、通信端末のカメラを使って何枚撮ったと思ってるの? その中に、今みたいな表情は、一枚もない。

 バカみたい……高久さん……

「このカメラ、壊れてるの。フィルムも入ってないし……」

 それが最後の言葉だった。

 私はアイスコーヒーを全部飲み干すと、高久さんにさよならを言って店を出た。

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