第2話 憧れの人……だった
「もういい……もう、帰ってくれ」
その言葉が最後の言葉だと思った。父さんは力が抜けたような声で言った。
怒りを押さえているのか、もう疲れてしまったのか、それとも、私同様、混乱してるのか……なんだか情けない声だった。
母さんは「どうしてなのよ……」と何度も呟いていた。
どうしよう……
私、もしかすると、もう
優しくて、頭が良くてハンサムで、大人の
私より全てが勝るお姉ちゃんだったから、普段はいけ好かないことも多かったけど、高久さんが家に来るようになって、お姉ちゃんに対する私の見方が少し変わったんだ。こんないい人を見つけてくるお姉ちゃんは、やっぱり私よりずっとずっと凄いんだって、素直にお姉ちゃんのことを認められるようになった。お姉ちゃんと比べれば、私なんてまだまだで、もっと頑張らなくちゃいけないって思えた。だから、この期末試験だって頑張ったんだ!
高久さんも勉強を教えてくれたから……英語が堪能で、学校の先生よりずっと教え方がうまかった。お姉ちゃんに意地の悪いこと言われても、いつも庇ってくれたし……
いろんなこと思い出すと、涙が出てくる。汗と、涙と、さっきかぶった生ぬるい水道の水と。それらが前髪を伝って私の目に入ってくる。私はそれを何度も手で拭った。
誰のせいだろうって、必死に考えたけど、わかるわけなかった。
何もわからない。理由がわからない。
私は腰を上げ、足音を忍ばせて玄関の方へまわった。
高久さんが出てくるより先に、門を出て走り出した。きっと、高久さんは駅に向かうはずだから、先回りしようと思った。
びしょびしょに濡れた制服のまま、私は暑い日差しの中に駆け出していた。
駅の前で、ただひたすら高久さんを待っていた。リュックを置いてきてしまったので、ハンカチが手元になくて、汗は手で拭うしかなかった。
制服は、この日差しのせいもあって乾くのが早かった。まだ少し湿っているけど、見た目には気づかれない程度に乾いていた。ただ、汗はいっこうに引かなかったから、内側にこもる熱気が不快だった。髪はプールに入った後みたいにパサパサしてる。それが少し気になって、私は手ぐしで何度もはねる髪をならそうとしていた。でも、襟足のはね癖がなおらない。最近髪を切ってショートヘアにしたことを後悔してしまう。
人目をはばからず、つい大きなため息をついてしまった。やるせない気分で、ただただ正面の壁を睨んでいたら、
「よう。何してるん」
と不意に真横から声をかけられた。
ドキッとして振り向くと、私が所属する写真部の部長、宇佐美先輩が立っていた。
今は、できるだけ知っている人に会いたくなかった。特に、この宇佐美先輩なんかには。私が密かに関心を持っている人でもあったから。もしかして、これって恋かも? なんて思ったりして、時々おかしくて一人で笑ってしまうこともある。こんな気持ち、照れ臭いから友達にすら話さないけど。
ただ、今はそういうことすら考える余裕がなかった。
笑顔のようなものを意識して作ってみたけど、自信がない。
汗臭くないかとか、そういうことを気にしていた。
「人待ってるんです」
小さな声で宇佐美先輩に告げた。
「デート?」
「そんなのじゃ、ないです」
「ふぅん……あっそ」
素っ気ない人だ。普段でもこういう会話しかしたことがない。それなのに、どうして宇佐美先輩に関心を持ってしまうのだろう。混乱しているせいで、いろんなことを考えてしまう。
「俺、この駅からスタートして、沿線の駅とか町の風景とか、片っ端から撮ってやろうと思ってさ……後の駅になるほど日も暮れてきて、空模様なんかもフィルムに収められたら面白いかもしれないし……人の流れも変わってくだろう。いい写真撮れると思うんだよな」
誰も聞いてないけど、首から下げた自慢のフィルムカメラを手に、宇佐美先輩はそんなことを教えてくれた。そういえば、先輩が肩にひっさげている鞄は、いつも部活に持ってきているカメラやレンズが入った専用の鞄だった。
「密かなる野望なのさ」
と言って先輩はニッと笑う。あまり笑ってるところも見かけない人だった。だから……たぶん本当なら、今日は大吉。
でも、直前に大凶があっただけに、その笑顔に応えることは難しい。
私は頷くことしかできなかった。
「んじゃな、行くわ」
また私は頷いた。
宇佐美先輩は切符を買うと、改札を出るまで私の方を見ていた。私も目だけで見送ってはみたけど、なんだか変な感じだった。
何かあった?
と、ずっと問われていたような気がした。だから、私の方から目をそらした。
アナウンスが聞こえ、電車はすぐに入って来たようなので、先輩もそれに乗って行ってしまったと思う。
私はすぐに、高久さん遅いなぁ、と思い始めていた。
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