夏のあの日をつかまえる

十笈ひび

第1話 夏の庭で

 終業式が終わった。

 中学二年、一学期の通知表はまずまずの成績。期末試験は中間よりも点数が良かった。夏休みが近いから、自分なりに頑張ったんだ。きっとその努力が報われたに違いない。

 夏休みだ!

 夏休みがやって来る!

 夏休みには、お姉ちゃんの結婚式がある!

 そして、高久たかくさんが私のお義兄にいさんになる!

 セミが鳴いていた。

 草の匂いがする。空が高くて、眩しくて……そして、暑い!



 ——私は家の門の前で立ち止まった。

 話し声が聞こえたから。

 高久さんの声? ……父さんの声もする。

 今朝母さんが高久さんが来るって言ってたけど、こんなに早く来るなんて聞いてなかった。まだ日は高いし、夕飯までだいぶ時間がある。

 学校は終業式があって、午後からの授業は短縮になり、部活もないし普段よりは早く帰れるから、部屋の掃除してめかし込んで、高久さん迎えなきゃって、急いで帰ってきたのに……

 間に合わなかったか。

 門を開け、短いアプローチを進み玄関のドアを開けようとした——その時、

「もう一度言ってみろ!」

 父さんの怒鳴る声が聞こえた。

 私は思わず手にしたリュックを落としてしまった。

 ただ事じゃない。考えるより先に体が反応して、全身が強張った。

 私は玄関のドアにかけた手を引き寄せ、身を屈めた。リュックを拾わなきゃ、そう自分に言い聞かせて。

 その間も、ずっと囁くような話し声が聞こえていた。

 リュックを拾い上げ脇に抱えたけど、玄関のドアを開ける気になれなくて、しばらくたたずんでた。ボソボソと、早口でまくしたてるような声が聴こえてくる。……父さん? 高久さん? 母さん? お姉ちゃん? あまりにも重く低い声は誰の声だか聞き取れない。

 でも時々、その中にはっきりと聞き取れる言葉が混ざる。

「すみません……」

 これは、高久さんの声だ!

 どうして!?

 私はリュックを胸に抱えた。とても不安になった。何が不安かはまだわからないけど、心臓がドキドキする。

 私は裏口に回り、今高久さんや父さんがいる和室の窓の下に腰を屈めて潜り込んだ。突然話し声が聞こえるようになる。

 網戸にしてるの? クーラーをつけるのも忘れてるんだろうか。声が近所にも聞こえるよ! 恥ずかしいよ!

「どうしてなのか、私たちにわかるように説明してちょうだい」

 母さんの声だ。困惑してるみたい。

「すみません。僕の責任です。全部、僕が悪いんです!」

「バカかお前は! さっきから何回同じことを言ったら気がすむんだ!」

 また父さんの怒鳴り声……

「すみません……」

 高久さん……。どうして? どうして謝ってるの!

 簡単にできる想像だった。学期末の試験なんてわけないくらいに。

雪那ゆきな、あなた、それで納得してるの? 高久さんの言うことわかってるのね」

 やっぱり……お姉ちゃんもいるんだ。

 母さんは無理矢理に冷静さを装おうとしているようだった。

「雪那! ちょっと待ちなさい! どこ行くの!」

 慌ただしい足音と力任せに襖を閉める音。

「雪那!」

「ほっとけ!」

 乱暴に階段を踏み鳴らしながら駆け上る音が遠のいて聞こえた。お姉ちゃんが自室に向かったのだろう。

 私は固唾を飲んで高久さんの言葉を待っている。「すみません」以外の言葉を。

 自分が汗まみれになっているのも忘れていた。ただ夏の日は眩しくて、とても暑かった。

 ——沈黙。

 部屋の空気が窓から漂ってきそうな気がする。私はその場にいないのに、重苦しさに押しつぶされそうだった。呼吸が苦しい。

 暑い……いや、全身が熱い。額にわいた汗のつぶが頬を流れる。

 私はリュックを横に置き、塀にもたれて地面に坐り込み膝を抱いた。目の前の植木が辛うじて、午後の眩しい日差しから私を守っていてくれてるようだった。

 この木にもセミがとまっているのか、ミンミンとうるさかったけど。

 沈黙はまだ続く。

 高久さんは、お姉ちゃんの婚約者だ。今年の夏、つまり来月に結婚式を挙げる予定なんだ。予定……なんだよ。誰もが信じて疑わない、予定。

「……もう、いい。頭をあげろ」

 父さんの声。怒りのためか、少し震えている。

「すみません……」

 高久さんはさっきからずっと頭を下げてたのかな? それって、土下座してたってことだろうか? 高久さんの声は小さかった。

「どうすればいいのかしら……もう、招待状も送ったんでしょう? ご近所にだって言ってしまったのに……どうしてこんなことになるんですか! 雪那も……あの子だって」

 母さんが感極まったのか、涙声になった。

「泣くな! こんなヤツの前で!」

 父さんがまた怒鳴った。

「すみません」

 高久さんは、本当にその言葉しか話せないというように、何度も繰り返した。

 何があったのよ!

 一番叫びたいのは私かもしれないと思った。

 どうして、高久さんは謝るのか?

 どうして父さんは怒鳴るのか?

 どうしてお姉ちゃんはどこかへ行っちゃったのか?

 どうして母さんは困惑しているのか?

 すべての答が導く結果を考えたくなかった。

 私はすぐ横にあった蛇口に手を伸ばし、無意識にそのまま捻っていた。どんぐりの木の枝に引っかけてあった散水ノズルから、生ぬるいシャワーが私の頭に降り注いだ。話は全部聞かれてるよって、気づいてほしい気持ちも少しあったけど、誰も気づくはずもない。

 全身びしょ濡れだ。制服が体にへばりついて気持ち悪い。こんなCMあったかなって思う。画面の中に清々しく登場した女の子がにっこり笑って、手にした清涼飲料水を飲んでた。ホースの水は、彼女の全身に虹の光を発しながら降り注ぐ。とても涼しそうに私には見えた。でも、嘘だよ。あれは嘘だ。あんなに爽快な顔にはならない。今にも泣き出しそうだよ。そんな顔してる、私。きっと、汗か涙か、水か何だかわからなくて、何もかもわからなくなって、悲しくなってくるんだ。みじめな気持ちになるだけだよ!

 夏の日差しは容赦ない。セミも、さっきよりうるさくなった。

 誰も知らない。きっと、誰も気づいてないことだけど、私、私ね……

 私、高久さんのこと、好きだったんだ……

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