弐、呪と祝

   *


 世界が生々流転する。

 瑞々しい若葉がいっせいに芽吹いたかと思えば、ほころんだ花たちが駆け足の如く彩りを増してゆく。空気と大地が潤って、陽光は日に日に強く熱くなるばかり。

 冬と夏のあわい。春と呼ぶには忙しなく、苛烈且つ鮮やかな夏を垣間見せる瑞々しいこの時季を、珊瑚島の民は潤初ウリズンと呼んでいる。

 切り立った岬に立つわたしの眼下には険しい岩場、その向こうに海、その果てに水平線。海水は深きところは青く、浅きところは淡いみどりを交え、珊瑚礁と触れ合うと金色めいた色を見せる。浅瀬は水底をたゆたう砂が透け、白い。

 わたしはきらめく海に向かってゆっくりと息を吸う。唇をひらいて、

「上がる三日月や、神ぎや金真弓カナマユミ

 高く舌足らずな、けれど弾むような声で、うたう。

 これは、天体を神の御物に例え言祝ぐ尊い神謡オモロ

「上がる赤星や、神ぎや金細矢カナママキ

 紡がれるコトバが風と絡み合い、空のあおに融けていく。

「上がるれ星や、神が差しクセ

 うたうと感覚が澄み、普段は聴こえない音たちが聴こえるようになる。

 耳で聴く音。耳以外の部位で感じる音。音は目に見えない。けれど世界は、音に満ちている。あらゆるものが音を放ち、あらゆるものに、音が宿っている。

 今もそうだ。耳が拾い上げる波のさざめきや樹々のざわめきに、肌で聴く空気の震えと、目で聴く陽光の拍。あまたの音がわたしを包みこんでいる。

 心が凪いで、守られているような心地がする。自分がまっさらになって、揺り籠で眠る嬰児にかえり、世界に祝福されている気すらしてくる。

 そんなはずは、ないのだけれど。

「あがる虹雲ノチクモは、神がマナきき帯」

 最後の一節をうたいあげ、額に浮かんだ汗を拭った。

「シギラ」

 低く落ち着きのある声に呼ばれて、弾かれるように振り向く。

「カナサさま」

 カナサさま——わたしのあるじは、普段顔の右半分を長い前髪と眼帯で覆い、汗ばむ陽気であるのに袖のある衣を身に纏っている。

 カナサさまの左手が、わたしの頬を包み込む。大きなてのひらは、暑い外気に反し驚くほどひんやりとしていて、その冷たさが火照る頬に心地よくしみいった。わたしは目を伏せてカナサさまの手に頬をする。

「カナサ、さま」

 このひとに触れるたびに、わたしは何かを言葉にしたくなる。けれど、その何かがわからなくて、いつも名前を呼ぶだけになってしまう。感情は、身のうちで浮かんでは消えてを繰り返し、発露にまで至らない。わたしは多くの表情を、あの洞窟に落として来てしまった。うまく顔がつくれないのだ。

「カナサさま」

 だから、名前を呼ぶことしかできない。

「なんだ」

「わたしのうた、どうでした」

「きれいだった」

 飾り気のない、ともすれば素っ気なくすらある賛辞すらもきらめいてきこえて、

「カサナさまのほうが、きれいです」

「……なにを言ってるんだか」

 苦笑すら、耳朶に触れれば心が震える。

 カナサさまの右手に触れ、袖に隠れた手首にまで指をすべらせると、硬質な何かに指先があたる。それは、玉虫の翅のごとく色を変える緑青の鱗、カナサさまが龍神に愛されているあかしだった。

「おれの存在を忘れてるでしょ、キミたち」

 呆れ返った声の主は、カナサさまの背後に立つ青年のものだ。

「あら、ユル。いたの」

「すげないなあ。シギラちゃん」

 武術と呪術、どちらの腕も立つ従者。けれどわたしは彼が好きではない。言葉も軽ければ態度も軽く、いつも顔に笑みを貼り付けていて何を考えているかちっともわからない。顔立ちは整っているけれど、ほんとうにそれだけ。彼と接していると、得体の知れないからっぽの何かと話しているような心地になる。

 彼はカナサさまと対等かのような言葉遣いをするし、なにより、カナサさまとどことなく似ているのも気に食わない。細かい造形こそ違うが顔の雰囲気も、背格好も、足をするような歩き方もにている。そして口調こそ違えど、低く落ち着いた声があまりにも、同じで。苛々してしまう。

 血縁関係があることは明らかだったが、彼らはあくまでも主従のていで接していた。

 ユルに適当な一瞥をくれてやって、わたしはカナサさまの腕を引いた。

「カナサさま、これからどこにむかわれるのですか」

 三人であてどなく旅を続けて、早一年となる。ゆっくりと、村をひとつひとつ廻るように、ときにはひと月ほど留まったりなどして、わたしたちは、島の南端近くにある王都から離れるように、北に向かっていた。人々はカサナさまを龍神の寵児だと崇め奉り、歓迎する。引き止められそうになったことも数えきれず、路銀に困ったことはない。南の王の膝元から離れた北に進めば進むほどそれは顕著で、わたしは、彼がこれからも北の方に向かうのだろうと考えていた。おそらく、どんなに遅くともあと数ヶ月で、島の最北端に着くはずだ。

「お前は、どこに行きたい」

 言うことをきけと言ったくせに、カナサさまはよくわたしの望みを尋ねる。けれど、わたしの答えは決まり切っていた。

「わたしは、カナサさまがいきたいと思うところにいきたいです」

 カナサさまはしばし考え込んだ末、どこか儚げですらある容姿とは裏腹に逞しい両腕でわたしを抱え上げた。わたしは十六にしては随分小柄であったけれど、抱き上げるのはそう楽ではないはずだ。

「カナサさま。おろして下さい。腕が疲れてしまいます」

「大丈夫だ」

 膝と腰を抱えられたわたしは彼にしがみつく。カナサさまは深い色の双眸でわたしを見下ろし、静かに行き先を告げた。

「南に、行こうと思う」

——南。

「おい、南って。正気か?」

 ユルが棘のある声でカナサさまを呼び止める。カナサさまが彼に背を向けようとすると、ぐいと肩をつかんで引き寄せた。

「カナサ」

「……本気だ」

「カナサティーダ。わかってるのか?」

「わかってる」

 ユルは大きく舌打ちをして、一瞬、わたしに刃のように鋭い視線を向けた。思わず身体が震えるほどに、冷淡なまなざしだった。いつもの薄っぺらい笑顔すら、そのときばかりは影もかたちもない。冷たい炎のような感情が、切れ長の眸のなかに揺らいでいる。

「シギラ」

 カナサさまに呼ばれ、ユルから目をそらし「はい」と答える。カナサさまの衣に顔を寄せると、汗のにおいに混ざって太陽のにおいがして、安心した。

(カナサさま)

 幾度も、言葉にできぬ感情のかわりに、呼ぶ。

「やだなあ、おれのこと忘れていちゃいちゃしちゃって」

 ユルの声はいつもの調子に戻っていたが、表情は伺えない。

 わたしは抱き上げられたまま、ふいに、ここまでの一年間を思い返していた。ユルを従えわたしを洞窟から連れ出したカナサさまは、はじめはどこかに向かっているような節があった。それが徐々に不透明になりはじめたころから、わたしに神謡オモロを教えて下さるようになったのだ。わたしの声——人魚の呪いで授けられた霊力セジは、定められた詞と韻で縛ることによって、ある程度の制御が可能になった。今となっては、人の傷を癒したりなどはできなくとも、天気を少しばかり良くしたり、波を落ち着けたりすることができる。わたしの力を目にした人々は、さらにもてなして下さったし、わたしの行いがカナサさまの誉れになることは純粋に誇らしかったので、わたしは再びうたうことが好きになった。

 カナサさまに連れ添って、カナサさまのために力を使うことが、わたしにとっての幸せで、——ユルのことは正直邪魔だと思っているけれど、カナサさまが傍に居て下さるのならば他には何も要らなかった。

「海がきれいですね、カナサさま」

 カナサさまは寡黙だけれど、わたしの言葉には律儀に返答をしてくれる。それがまた嬉しくて、どうでも良いことまで口にしてしまう。

「見飽きただろう」

「そんなことないです」

 そうか、とカナサさまは呟くと立ち止まり、わたしを見下ろす。なにものにも遮られぬ左目、黒曜石のような眸がわたしをとらえ、一瞬ゆらいだ。言葉を探しているようだった。

「浜辺に降りてみるか?」

「……いいのです?」

 理由はわからないが、普段カナサさまが海辺を避けて歩いているのを、わたしは知っている。

「たまには悪くない」

 そう言って歩を進めるカナサさまを止めるべきか迷う。先ほどのやりとりが脳裏をよぎる。

——南に、行く。

 つまり、戻るということだ。わたしの故郷のある方角へと。その理由を尋ねたいが、尋ねられない。その他にも訊きたいことはたくさんあるのだけれど、訊くことができない。

 カナサティーダと、ユルはカナサさまを呼んだ。太陽。その名を冠するひとを、わたしは知っている気がする。誰だっただろう。

(いやだ、な)

 不安になる。

(はなれたく、ない)

 わたしとおなじなのは、カナサさまだけ。

 わたしは身の内に人ならざぬ力を宿している。

 カナサさまは身体に人ならざる鱗を纏っている。

 わたしたちは人として生まれながらも、人ではなくなった人間だ。

 わたしは人魚に呪われた存在で、カナサさまは龍神の祝福を受けた存在だけれども。カナサさまがわたしと同じ『人ではないひと』であることに慰められている。口には出せない暗い感情であるとわかっていたけれど、嬉しいし、独りではないと、感じる。

(はなれたくない)

 ぎゅうと胸元の衣を握りしめる。カナサさまは微苦笑を浮かべてわたしを見ていた。

「ユル、シギラとふたりにしてくれないか。適当な時間に迎えに来てほしい」

「——はいよ」

 ユルがカナサさまを置いてどこかにふらりといくことはたびたびあったけれど、カナサさまがユルを遠ざけるの初めてで、わたしは嬉しいを通り越して驚いてしまう。そして、どうしようもなく不安になる。

 いつもどおりでいいのだ。それ以上はなにも望まないのに。その『いつも』が、わたしから離れていこうとしている気がしてならなかった。


    *


 ぱしゃぱしゃと、足先を海に浸しながら、わたしは浜辺に座るカナサさまを見た。

「カナサさまは何故、海にお近づきにならないのですか」

「俺は海には入れない。身体が融けてしまうから」

「からだが?」

 ああ、とカナサさまは淡々とした口調で答える。とける。からだが。わたしの我が儘で海に近づけるのではなかったと、一気に血の気が引いていく。慌てて海から足を持ち上げると、

「気にするな。浸からなければ平気だ」

 カナサさまは目を細めてわらった。カナサさまはいつも、少し困った風に、あるいはかなしそうに、わらう。わたしはその笑みを見るたびに、胸が痛む。

「知っているか。珊瑚は海に融けた龍の骨だと言われている」

「はじめて、ききました」

「この島は広くはないのに、南と北では、伝承からして大きく異なるからな。無理もない」

「カナサさまは、北のお生まれなのですか。ユルも?」

「ああ、そうだ」

 この島は、北ノ国、中ノ国、南ノ国の三つに分かれている。わたしが生まれ育った南ノ国は、外海の国との交易が盛んな豊かな土地で、いずれは南が三国を統一するだろうというのが、南ノ民の見解だった。わたしが洞窟に籠められたころには丁度中ノ国を制圧する渦中であったと記憶している。そういえば、北ノ国への国境を歩いても小競り合いなどは見受けられなかったが、今はどうなっているのだろう。休戦中なのだろうか。鄙びた村に生まれたもの知らずのわたしは、難しいことがわからない。

 考えごとをしながら足許をみていると、ゆらゆらと揺れる水面に酔ってしまいそうだった。思い切って水を跳ね上げ、一歩二歩と進む。ばしゃんばしゃんと響く音が楽しい。海に触れるのは久方ぶりのことだ。村にいたころは、毎日のように泳いでいたのに。

「楽しいか」

 楽しいという表情が浮かべられない代わりに、わたしは大きな声でこたえた。

「はい」

 頬杖を付きながら、カナサさまはじっとわたしを見ている。

「カナサさま。そんなに見られると、はずかしいです」

「シギラ」

 カナサさまの声は、やさしい。

「こっちにこないか」

 手招きで呼ばれて、わたしはゆっくりと浜に上がった。白い砂の感触を爪先で確かめるように歩いて、カナサさまのおそばに寄る。

 わたしの足、そして衣はずいぶんと濡れそぼってしまっている。こんなすがたでカナサさまの隣に座っても、良いものだろうか。

「触れてもだいじょうぶですか。とけて、きえてしまいませんか」

「大丈夫だよ」

 カナサさまの腕が伸びてきたかと思うと、わたしはそっと引き寄せられ、カナサさまの膝のうえに座らされた。カナサさまとともに、海に顔をむけるかたちになる。子どものようでどうにも恥ずかしい。

「カナサさま」

「なんで、」

 後ろから、カナサさまの声が聞こえる。背中に触れるカナサさまの胸板から、カナサさまの心音が伝わってきた。カナサさまの声のように、ゆっくりとして落ち着いた、心地の良い鼓動だった。

「なんでお前は、何回も名前を呼ぶ」

「お嫌ですか」

「いや」

 ぎゅう、とふいに抱きしめられてわたしは驚きのあまり硬直してしまった。

「カ、カナサさま。わたし、濡れています。あまり触れない方が」

「——融けたりしない」

 だからこのままで、と。か細く吐き出された言葉に、わたしはどう返せばいいのかわからない。

「わかってるんだろう、シギラ」

「わたしは、カナサさまの言葉だけを信じています」

 それが、カナサさまとわたしの約束であるから。

 だから、早くいつも通りに戻りたかった。こんな、張り裂けてしまいそうな想いをしたくなかった。境界ぎりぎりを歩くような緊張なんていらないから、カナサさまを見て、カナサさまの声を聞いて、それだけで満足できる日々に戻りたかった。

「わたし、カナサさまのご命令ならなんでもできます」

「そんなことを言うもんじゃない」

「カナサさまがわたしにそうあれと仰ったんじゃないですか」

「シギラ」

「好きにしろなんて、言わないで下さい。そんなのもう、わからないのに」

「……悪かった」

 わたしはぽつりぽつりと、思うままに言葉を吐き出す。

「いつもどおりでいてください。いつもどおり、わたしをおそばにおいてください。わたしはそれで、十分なんです」

 こんな、まるで先の幸せを前借りするような状況、耐えきれない。次には「さよなら」と言われてしまいそうで、怖くて怖くて仕方がない。

 カナサさまは思い立ったようにわたしを抱え上げ、わたしが歌っていた岬へともう一度戻った。崖の淵に座りながら、カナサさまはわたしを手放すことなく、なにを話すでもなく、お互いの温度だけを感じあうだけのまま時間が過ぎていった。いつしか空は紅く、海は茜色に染まっている。

 夜が、やってくる。

「ごっこアシびはこれで終わりだ」

 冷たい声に振り向くと、銀の刃がカナサさまの首筋にあてがわれていた。

「覚悟は出来てるんだろ、カナサ様。おれに殺される覚悟がさ」

 まるで闇の化身のように暗い眸をしたユルが、そこに立っていた。

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