龍神あしび
青嶺トウコ
壱、龍神の愛児
「ここから出たいか?」
わたしをまどろみの淵から引き上げたのは男の声だった。低く掠れた、けれど濁りのない声が
手足を縛られたわたしは岩肌に身を横たえたまま、声の主がいるとおぼしき方に顔を向けた。白い目隠し布の向こう側で、灯りがゆらめいている。松明だろうか。布を通して見るあわい光ですらひどく眩く目を突いた。
大きな掌が私の頭を持ち上げ、猿轡を解いた。空気が一気に喉に押し寄せ、咳込む。男はわたしの頭を支えたまま黙っていた。
なぜここに人がいるのだろう。ここは限られたものしか立ち入れぬ
北と中央と南、三つの国に分かたれた珊瑚島・ウル。
わたしが生まれ育ったのは、南の国の南端の鄙びた漁村だった。毎日漁獲の網の手入れをして、海に潜って貝を探す。働き者の父と母と送る、代わり映えはなくとも平穏な暮らし。わたしは歌うことが好きで、暇さえあれば思いつくままに言葉を旋律にのせていた。父も母もわたしの歌を喜び、村ではわたしの歌がちょっとした娯楽のような存在にもなりつつあった。夜、薪を囲んで村のみんなで歌い明かす。当たり前すぎて言葉にすることはなかったけれど、しあわせな生活だった。
そんなわたしは、十六歳の儀を数ヶ月後に控えていたある日、突然酷い熱に浮かされて生死の境を彷徨った。熱とともに身体を蝕んだのは、何かが無理やり喉に根を張ろうとしているかのような痛みだった。
人魚。人間の上半身と魚の下半身を有する海の魔物。その声で嵐や津波などのあらゆる災禍を招く彼あるいは彼女らは、極稀に人を呪っては、その者の声を自らと同じものに変じさせる。わたしの声、わたしの歌、わたしの存在は。人魚の気まぐれでひとつで忌むべきものとなったのだった。
人魚に呪われた者は四肢を縛り視界と声を奪って洞窟に籠めるのが習わしだそうだ。この十数年村には人魚に呪われる人間はなく、したがってわたしはその残酷な習わしを目にする機会もなかった。ましてやおのれの身に降りかかるなど、思ってもみなかった。
ここに閉じ込められてから、一体どれほどの時間が経ったのだろう。現状を鑑みるに、死んでしまっても構わないと思われているのは確かだ。
寝ては起きてを幾度も繰り返し、何年もここにいるような気がしている。けれども、飢餓感はさほどない。実際は一日も経っておらず、わたしの感覚が狂っているだけなのだろうか。
だとしても。
「ここをでたいか」
もう一度、静かに問われる。
「……でたい」
一度言葉にしてしまうと、もう止まらなかった。
肘を支えに、身体をよじりながらどうにか上半身を起こす。ひとの気配がより近くなる。布越しに見えるぼやけた灯りが目にしみた。
「でたい。そとに、いきたい。ここはやだ。ひとりは、いや、だ」
やだ、やだ、と駄々をこねるように繰り返すわたしの片頬に何かがあてがわれた。少しかさついていて、硬くて、けれどもあたたかい人間の手。
「俺の言葉だけを信じて、何も考えず、俺の言う通りに力を使えるなら、ここから連れ出す。——できるか?」
わたしはその手を既に放し難いものに感じていた。
「でき、る。できます」
目隠し布が外される。ゆっくりと目を慣らしながらまぶたを持ち上げる。そこにいたのはひとりの青年だった。声の落ち着きようから漠然と壮年の男を思い浮かべていたわたしは、思わず面食らってしまう。
青年は細身で、先刻の口調とは裏腹に、悪く言えば気弱そうな、よく言えば優しそうな面もちをしていた。そしてなによりわたしを驚かせたのは——彼の右半身が鱗で覆われていることだった。暗闇ゆえに色は知れなかったけれど、松明の明かりを反射してきらきらと輝いていた。
彼の姿は、珊瑚島の人々が最も崇め奉る存在を想起させた。
「龍神さま?」
惚けた声を漏らすと、青年は苦笑する。
「私はカナサ。ただの人だよ」
ただの人? そんなはずがない。
「カナサ。カナサ、さま」
わたしのように人魚に呪いを受ける人がいる一方で、人の身でありがなら、神の寵愛を一身に受けてその身に変異をきたす者もいる。神の寵愛とはすなわち霊力。森羅万象に働きかける、祝福の力だ。
そんなひとはみたことがなかった。けれど、わかってしまった。わたしの目の前にいるひとがまとう鱗は、まごうことなく龍神の寵愛を示していた。
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