たらればを空想すれば病むほどに口惜しさが湧き上がる。あの時こうしていれば、ああしていれば、たられば。きっと人生の三叉路でもっとがんばっていれば、未来は変わっていたと。だが、いままでの人生をがんばって来なかったはずが無かった。つまりは努力不足でなく、もともとこの程度ってことだ。

 天才だったら環境に左右される事もなく成功していたはずだ。落ちこぼれだったら環境に左右される事もなく失敗していたはずだ。失敗ばかり目立つ人生のあちらこちらで成功があるから、自分はただの凡人でしかない。

 自他共に認める自分以下の人間が、特別な努力もせず、自分より上の立場にいると知った時にやりきれなくなった。その時の光景がふとしたときに強く思い出される。彼女は笑っていた。もしくは嗤っていたのかもしれないが、それは考えすぎで、ともかくあのイヤリングこそ自分にとって敗北の証だった。そのシーンから人生はやおら動き出した。

 人生は良い事も悪い事もある、プラスマイナス0だ。なんてのは成功者であるプラス側の言い分だ。がんばって成功者になろうとしてる人が交通事故で死んだら採算の取れないマイナスだ。努力は人を裏切らないなんてのも勝ち組のセリフで、そんな奴らが臆面もなく語るから、努力している人の居場所が無くなって、努力が足りないだなんだと簡単に人を嘲笑するようになった。運だけで勝ち組になる奴もいれば、運だけで這い蹲る奴だっている。

 途中まではうまくいってたな、なんてくだらないたらればが口から出るようになれば、きっと立派な落伍者だ。

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曲がった木 撫牛 史 @hubito

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