2.招かれざるもの

「おはようございます。早起きで感心感心。夜更けですけど」


 睡魔の誘惑を振り切って、遙真の意識は回帰する。気怠さを伴った覚醒に次いで、体の節々に痛みが走った。寝姿勢が悪かったのか、手足は痺れている。

 本日二度目の起床。ただし、寝床の中ではなく、硬い石の床の上で。

 牢屋か独房のようだった。人が何人か入れば、すし詰めになる狭さ。鉄扉は閉ざされており、内部と外部との繋がりは、格子をはめた覗き窓のみ。電燈や寝台はなく、房内は薄ら寒い。片隅に黄ばんだ桶がある。……何用かは考えないでおこう。

 守鍵は没収されていたが、幸いにも、胸元の〈匣〉は健在である。

 ずきずきと頭皮が疼き、後頭部に手をやると、拳大の腫れができていた。出血はしていない。取り押さえられたときの、痛烈な一撃によるものだ。


 意識を失う前の悶着は、もれなく憶えている。

 ひとつひとつを思い返してみて、遙真は己を殴りたくなった。


(俺は大馬鹿野郎だ! 餓鬼のまんまじゃねえか!)


 情動に身を委ね、後先は考えもせず。手遅れとなってしまってから、しでかしたことの愚かさを知る。無知な子供のように。あのときのように。


『どうしたの? 殺さないの?』


 鈴の響きが耳を離れない。今なお、耳元で囁かれるかのごとく。

 短くはない歳月をかけて、気持ちの整理はつけた……つもりだった。だが、遙真の心は千々に乱れている。喉が嗄れ果てるまで、吠えていたかった。

 みっともなく喚くのに、この房はあつらえ向き。だと言うのに、遙真がそうしなかったのは、鉄扉を挟んだ独房の外に、聞き耳を立てる者がいたから。


「比奈くん、比奈くん、比ー奈くん。いつまでも放置しないで、私に構ってくれませんかね。唄ちゃん、放置は好きません。つまらないと死ねます」


 待ち惚けに痺れを切らし、手前勝手な不平が飛んだ。

 覗き窓の格子越し、壁に吊られた角灯の下で、灰白の髪が白光を返す。

 通路に立っていた唄が、覗き窓一杯に顔を出した。


「つまらないと死ぬとか、お前は兎かっつの」


「私は〈灰鬼〉ですよ。兎に角はないでしょう?」


「その角の一本もへし折れりゃ、可愛げのある兎になるのかもな」


「語弊があります。角が生えていても、可愛げは十二分です」


 両手の人差し指を立て、二本の鬼の角を模し、頭の左右にくっつける。「鬼ぃ、鬼ぃ」と奇声(鬼の鳴き声?)を発する唄に、遙真は引っかかりを感じた。


(こいつ、ここまで調子者だったか?)


 おどけぶりが大仰なような……平常運行であるような。

 一方的に付け回す側と、付け回される側という、気を許せない二人の関係性。なればこそ、たった数日の付き合いの中、唄の地金は露見し始めていた。

 しかし生憎、唄の素行が奇抜だろうと、甚だしく奇抜だろうと、知ったことではなかった。そんな引っかかりの解消に割く、心のゆとりの持ち合わせはない。

 遙真は寝返りを打ち、覗き窓に尻を向けた。波立つ心に蓋をして、


「お前と閑談で宵っ張りは、俺も丁重に願い下げだ。つまらないなら帰れ」


「ふむふむ、切れが足りませんが、及第点の嫌み節ですね。ああも無様な醜態を晒して、こうも虚勢を張る健気さ、私は嫌いじゃありません」


「……うるさい。帰れよ」


 その場しのぎの強がりは、あえなく見透かされる。唄は朝の悶着をひと通り、目と鼻の先で観ていたのだ。うやむやにするなど、土台無茶な話であった。諸々の事情を抜きにしても、他人に虚勢がばれるのは、ひどく惨めでばつが悪い。

 機知に富む文句は浮かばず、陳腐な返しが精々だった。


「空気が重苦しくて、盛り下がります。男の子と女の子が二人揃ったなら、盛り上げ役は男の子でしょうに。まあ、発破をかけるのも友達の務めですか」


 消沈する遙真に何を思ったか。唄が柔らかい物腰で続けた。


「閑談がお気に召さないなら、実のある四方山話はいかがです?」


「実のある話? 会話が噛み合わないのに、実があるも糞もないだろ」


「それはどうでしょう。今宵の私は口が軽いんです」


 迂遠な言い回しで焦らし、制帽を指でくるくる回す。


「私は〈鍵束〉。比奈くんやそこらの学生よりか、学内の細事に通じています。訊きたいことがあれば、言ってみてくださいな。答えられる範囲で答え――」


「教えろ」


 食い気味な遙真の言葉が、石造りの房内に反響した。バネ仕掛けのように跳ね起き、覗き窓の格子に額を押しつけ、遙真は疎ましい相手に訊ねた。


「あいつのことを教えろ。何でもいい――絵空あいつのことを」


 教えを乞うにしては、不遜が過ぎる頼み方だ。しかし、遙真の唄への不信、反発心を考えれば、彼女にものを頼むこと自体、本意に背いた行動である。

 何でもいい。実感が欲しかった。確証を得たかった。

 今朝の軽挙は挽回できる、と。目的の達成へと至る行路を、踏み外さずに歩けている、と。逸る気持ちを落ち着かせ、乱れた心を鎮めたかったのだ。


 唄は表情を消した。切れ長の目をより細め、暗がりに灯る二点の光、遙真の双眸を見つめている。息の詰まる十数秒ののち、弄っていた制帽を浅く被り、


「男女の語らいの場で、他の子の話題だなんて。無粋ですよ、比奈くん」


 白磁然とした表情のない面に、胡散臭い微笑を上書きする。遙真が口にする『あいつ』が、誰を指し示しているかは、確認せずとも察したらしい。


「比奈くんの眼、餓えた獣みたいになってます。そうがっつかなくても、ちゃんと教えますから。当校切っての才媛の姫さま、南ノ宮絵空さんについて」


「南ノ宮……絵空……」


 口に出しては一度、心のうちでは百度、遙真はその名を反芻した。


「それがあいつの名前で、間違いはないんだな? あいつが名乗ってるのか? 学生の身上調査はしてるんだろ。名や素性を騙ってる可能性は?」


「奇妙なことを言いますね。あの人は正真正銘、南ノ宮絵空さんです」


 疑惑をばっさり切り捨てて、唄が怪訝そうに太鼓判を押す。

 北門と南ノ宮。二人の絵空の相違は目下、姓の違いに留まっている。実際、遙真の魔術師としての第六感は、二人が同一人物だと告げていた。

 魔術による容貌の欺瞞はなく、名を偽ることさえしていない。そのうえで、世間の耳目を否応なしに引く、音に聞こえし学府の首席に、彼女は公然と居座っている。――解せない。そうする利がどこにある。こちらを誘い出す餌? それとも、


(俺たちの存在なんぞ、眼中にないわけか)


 どちらも憶測だが、ともあれ好都合だ。こちらを誘い出しているなら、行方をくらませはしないはず。眼中にないのであれば、目にものを見せてやる。


「南ノ宮絵空の情報、詳しく知りたい。あるだけを教えろ」


「ええとですね。教えたいのはやまやまですが……」


「何だよ。見返りの要求か?」


「比奈くんの妄想の中の私、がめつすぎるでしょう。失礼しちゃいます」


 唄は不服そうに口を尖らせ、おもむろに腕組みをした。


「率直に言うと、私は教えられません。意地悪じゃないですよ。教えたくても、教えられない。教えられる情報がない。姫さまの詳細は不明なんです」


「……お前、ちゃんと教えます、って言ってたよな?」


「はい、言いました。で、彼女は委細不明だと、ちゃんと教えました」


 得意の屁理屈を抜かす。口車に乗せられた、俺が間抜けだった。

 名と容貌。〈鍵束〉の一人で首席。才色兼備の女学生。〈天理加具夜〉の通り名。既出の情報を羅列するも、碌な情報は得られていない。


 だが、碌な情報がないがゆえに、ある一点が強調されていた。


「腑に落ちねえ。俺の素性は調べ上げて、監視までしておいて。露骨に怪しい首席さまより、善良な一学生が怪しいのかよ。日の本は四民平等って聞いたぞ」


「無茶を言わないでください、自称善良な一学生さん。いくら私が優等な一学生でも、気の進まないことはあります。南ノ宮は嗅ぎ回れません」


「そこだ。その南ノ宮って家は、どこの誰んちなんだ?」


 ずこーっ、と盛大に音を立てて、通路で唄がつんのめった。


「南ノ宮を知らない……? あーゆーじゃぱにーず? ニホンゴおけー?」


「常識知らずで悪かったな」


 一〇年ぶりのうえ、急遽の帰国である。日本語を復習するのが関の山で、一般常識や日本史はからきしだ。そも、必要になると思っていなかった。


「常識知らずは怖いもの知らず。無知とは恐ろしや、恐ろしや」


 羨ましくもありますが、と皮肉を言い添え、唄はとうとうと解説した。


「南ノ宮――日の本の魔術の歴史、その影に彼の名在り。陰陽家を前身とした、純魔術師の名家であり、日本魔術界の最大派閥。四民平等の埒外、華族のお家筋です。当校に属する学生のざっと六割は、何らかの繋がりがあるでしょう」


「要するに貴族の分限者か。大層な肩書きなこった」


「大層ではありますが、大袈裟ではありません。はぐれ魔退治で勲を立て、津々浦々に盛名を馳せ、鎌倉の世より権勢を振るう。この国の陰の覇者ですよ」


「お偉い家柄なのはわかった。となると、だ。肝心のあいつは何者だ? 国抱えの学校の敷地内で、護衛を四人も侍らせといて、一介の華族の出はないだろう」


「姫さまこと南ノ宮絵空さんは、当代の南ノ宮当主の息女です」


 ――思いがけぬ不意打ちに、遙真は表情を翳らせた。

 腹に小指より細い穴を穿たれ、そこから侵入してきた毒蟲に、内臓の表面を這われるような。どうしようもない不快感が、じわりと染み込んでくる。

 覗き窓越しの暗所にいるからか、唄に悟られてはいないようだが。


「〈姫さま〉とは〈南ノ宮の姫〉の意。宗家の有力な跡継ぎ候補、ともっぱら噂されています。そんなことすら知らず、彼女を襲撃したんですか?」


「知らなかった……これっぽっちも」


 そう、何も知らなかった。俺は何も知らないのだ。

 自戒する。感傷に浸っている場合か? 不快感に溺れている場合か? 何も知らない俺に、選択の権利はない。知りたくなかったなど、口が裂けても言えない。

 あのときの無力だった俺と、ここにいる俺が違うことを、証明しなければならない。証明する方法はわかっている。過去に犯した過ちを清算し、失ったものを取り戻せばよい。それが俺の為すべき目的で、この国へ帰ってきた理由。


 当初の構想であれば、絵空の捜索は師の役割であり、遙真の役割はまた別にあった。南ノ宮絵空との邂逅は、構想外ではあるものの――むしろ千載一遇の好機だ。

 諸手を挙げて喜びこそすれ、気落ちしている場合ではない。


「ありがとよ。おかげで色々と知れた」


「え。あ、いいえ。それほどでも」


 礼を言われると思わなかったのか、唄は間の抜けた面で受け答えする。遙真自身も驚いていた。よもや、唄に感謝する羽目になろうとは。

 遙真は〈匣〉を握り込むと、その拳を額へ押し当てた。


 もう歩みを止めない。もう立ち止まらない。立ち止まれない。

 うつむくな。前を見ろ。見続けろ。後戻りはできない。進むしかないのだ。

 手を伸ばせ。届かせろ。俺ならやり遂げられる。頑張れ。頑張れ――


(そう言うだろう、お前なら。そう言って、くれるよな?)


 欲しい言葉をくれる者も、答えてくれる者もなし。だが、遙真の心は鎮まった。ひんやりと寒い房内にあって、心に切られた炉が熱量を増す。

 くすんだ両刃の刀のように、片頬と唇を歪ませる遙真。

 その双眸が宿した光の危うさに、当人はついぞ気の付かぬまま。格子の向こうに立つ唄だけが、見定めているかのような瞳で、朝比奈遙真を見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る