1.灰色の邂逅5

 ――見たくはない。思い出したくはない。だが、忘却は許されない。


 四棟ある学生寮のひとつ、男子寮〈玄冬寮〉の一室。寝台で寝ていた遙真は、呼気も荒く飛び起きた。寝巻きは汗でびっしょり。最低の寝覚めだ。


(あの夢……近頃は見なかったのにな)


 一年ないし二年前であれば、数日は塞ぎ込んでいる。

 久方ぶりに見た――思い出した悪夢は、何か大事の前触れか。首から鎖で下げた〈匣〉が、朝日の窓明かりを反射し、胸元で微かに輝いていた。

 寝汗が気持ち悪い。遙真は濡れた着物を脱ぎ、制服に着替えようとした。


「おはようございます。早起きで感心感心」


「おう、おはよ。朝飯当番してたから、習慣になってるんだ」


「炊事ができるんですか。今度、御馳走してください」


「いいぜ――よくねえ! 何でお前がいる!?」


 堂々とされすぎて、疑問に思うのが遅れた。かび臭い空き寝台の縁に、我が物顔の唄が腰掛けている。ただでさえ最低な寝覚めは、どん底の寝覚めとなった。


「えへへ、来ちゃった♡」


「来ちゃった、じゃねえよ! 不法侵入だろが!」


 神出〈鬼〉没にも程がある。就寝前に部屋の鍵は掛けたのだが。とりあえず、唄に「あっち向いてろ!」と言い、脱ぎかけていた寝巻きを着直す。


「用件は何だ? 仕合は引き分けでいい、ってお前が言ったんだぞ」


 頬にこさえた火傷と、焦げた頭髪に触れ、遙真は眉根を寄せた。

 運動場で催された賭け仕合。結果は遙真の惨敗だったが、唄が仕合の取り決めを破り、決着後に暴挙に出たとあって、唄自身が賭けの取り消しと、痛み分けを申し出ていた。遙真はそれを承諾した。よって、二人は未だ友達未満である。


「昨日のことはすみません。私ともあろう者が取り乱しました。反省しています。……でも、比奈くんにも落ち度はあります。女の機微を酌めないなんて、殿方としては失格ですよ。西洋の語を借りるなら、デリカシーに欠けてます」


「その言葉、お前に二割増しで返したい」


「本題に入りましょう。徹頭徹尾、私の用件はぶれません」


 寝台の上で居住まいを正し、笑顔で握手を求めてくる。


「私と友達になってください」


「嫌だ」


「今なら特別大盤振る舞い、お団子一年分を贈呈しちゃいます」


「断る」


「そう無下にせず。友誼の結びを賭物にした、私の考えが軽率でした。あなたと一からきちんと、親睦を深めたいんです。清廉潔白な友情を育みましょう」


「たった今、物で釣ろうとしてなかった?」


 唄の適当さが際立つ。一から親睦を深めるどころか、唄への信用はゼロを下回り、負の域に突入しかけている。併せて、目論見も外れてしまった。

 遙真が唄と仕合をしたのは、挑発に乗せられたから、という面もなくはない。しかし、学がないなりに胸算用を立て、一計を案じての行動でもある。

 唄の裏で糸を引く学校長。なぜ遙真の編入を許したのか、遙真の目的に関して、どこまで知っているのかなど、彼女には不明瞭な点が多い。師へ直に連絡を取って、裏を取れればよいのだが……こちらからの連絡は、その師に禁じられていた。


(てか、連絡先を知らないしな)


 いずれにせよ、唄に監視をさせる時点で、完全な味方とは思えない。完全な味方でないのなら、どれだけ抗拒したとしても、遙真を野放しにしないだろう。


 ――遙真という懸念材料に、未知性がある限りは。


 全力を以て仕合に臨むことが、遙真の案じた一計だった。

 唄に実力を晒し、取るに足らない小者、容易く制圧できる、と評してもらう。多少なりとも警戒心が薄れ、監視が甘くなれば儲け物。そう目論んでいたのだ。


(策とも呼べない希望的観測だ。上手くいくわけないか)


 負け恥を晒した甲斐なく、遙真は相も変わらず、唄に付きまとわれている。とんだ骨折り損に、長い吐息が漏れた。そこへ追い打ちをかけるように、


「どうかしました? 恋煩いで胸が苦しいとか?」


「胸じゃなくて頭が痛いんだよ。お前のせいで」


「私のせいですか? ああ、すみません。思春期真っ盛り男子学生の、健全な想いに気付けずに――はっ! ここには私たち二人きり……きゃー襲われるー」


「お前は! 今すぐに! 帰れ!」


「どうどう、どうどう。それにしても、幸運でしたね」


 手のひらで『待った』を表現し、唄はぐるりと室内を見回した。


「独り部屋を貰える学生は、本来、成績優秀者だけなんですよ」


 得意げに「私みたいな」と付け加え、慎ましい胸を大胆に張る。暗に遙真を腐していたが、そこに異議は申せないので、柳に風と聞き流しておく。


「生活してるのが俺一人なだけで、独り部屋ではないけどな」


 寮は相部屋が原則だ。男子寮は最大で四人、女子寮は二人でひと部屋を使う。寮長に聞かされた話によると、遙真にも二人の同居人がいる。

 だが、寮に住み始めてから三日、同居人に会えたことはない。彼らの布団はきっちり畳まれ、自習机は埃が積もっていた。ここ最近、人が使った形跡はない。


「一人は置き手紙していってたぞ。『捜索無用』だとさ」


「落伍者ですね。珍しくはありません」


 唄はあっけらかんと言った。ままある事例のようだ。

 魔術が全盛のこの時世、優れた魔性を持つ人材の発掘、育成は国力増強に直結する。魔術教育は各国の急務であり、注がれる力の比重は大きかった。

 畢竟、教育を受ける側の人間は、相応の成果を求められた。零高の学生ともなれば、かかる重圧は殊更重く、耐えられなかった者は、瞬く間に潰れていく。

 日の本一の教育機関。善かれ悪しかれ、その肩書きは伊達ではなし、か。


「つくづく感じる。俺なんかがいる場所じゃねえよ、この学校は」


「それじゃあ、比奈くんは何をしに来たんです?」


「さりげなく訊いても無駄だ。赤の他人のお前に、微塵も話すもんか」


「けーち」


 唄が口をすぼめる。遙真は取り合わず、部屋の戸口を指差した。


「用件は済んだろ。俺は着替えがしたいの。大体、女子が男子寮に潜入とか、恋仲じゃあるまいし。誰かに見つかってたら、優等生の名に傷がつくぜ?」


「恋仲ですか。友達を却下と言うなら、そっちでいいです」


「友達の妥協で恋仲になるな! 適当ばっか言いやがって!」


「私の顔をよく見てください。この顔が嘘を吐いていると?」にやにや。


「にやにやしてるじゃん!」


「……わかりました。ひとつ、いいことを教えます」


 唄はにやにやを顔面から剥がし、いかにも神妙な面持ちで告げた。


「朝食の終了時刻まで、三分を切りました」


「あ」


 寮の食事は朝晩と二回あり、時間帯が決まっている。

 唄を廊下へと放り出し、迅速に着替えをして、遙真は食堂に駆け込んだ。


「――では、授業に行きましょう。一限目は独語ですよ」


 慌ただしく朝食を終え、遙真が玄冬寮を出ると、立ち木に唄がもたれていた。相手にしてはいけない。知らん振りを決め込んで、小走りで校舎へ向かう。

 唄はねちこくついてきて、何やかやと話しかけてくる。耳にたこができそうだ。それでも知らん振りを貫くと――とっておきの爆弾が投下された。


「時に朝のことですが、悪い夢でも見ました?」


 背に冷たいものが落ち、心臓が締めつけられた。焼かれた草原が、泣き叫ぶ声が、漆黒の女が、悪夢の断片が乱雑に巡り、遙真の頭の中を掻き回す。


「俺、うなされてた……のか? ……聞いたか?」


「えらくうなされてましたね。聞いたか、とは? 何をです?」


「何かを、だ。何か寝言を聞いたのか?」


 聞かれた内容如何によっては、目的遂行の致命傷となる。語勢強めに追及してみるが、唄はうんともすんとも答えず。意味深長に目を細めた。

 深追いは裏目に出る。それ以上の追及はやめ、平静を取り繕った。

 唄をどうにかしなければ、寝言も自由に言えやしない。厄介っぷりを再認識した。何よりも、あのときの出来事を、第三者に知られたくはない。

 本筋の目的と唄の排除。為すべきことが倍増した。だが、時間は無情なほどに有限であり、愚鈍な人間は置いてきぼりだ。刻限は刻々と差し迫る。


 遙真がなけなしの知恵を絞り、手段を模索していたときだった。


「朝っぱらから騒がしいな。こちとら、考えごと中だってのに」


 視線を投げた進行方向、大講堂へ繋がる通りに、人垣ができている。

 既視感を覚えた。校門前を唄と歩いたとき、唄を敬遠した学生たちが、似たように道を譲っていた。遙真の思考を先回りしてか、唄が訊いてもいないのに、


「おや? 試験や式典もない日に、彼女が人前に出るなんて」


 一般学生が捌けた通りを、五人の学生が歩いている。四人は黒マントを羽織って、五人目の四方を囲う位置取り。一糸乱れぬ足運びで、縦横と一定の間隔を保つ。前方の男子二人、後方の女子一人は、かなりの手練れと見て取れた。


 そして、四人に取り囲まれた、五人目の『彼女』。


「前学期の成績は実技一位、座学が二位の学内総合一位。〈鍵束〉の一人に数えられる、南ノ宮みなみのみやの姫君〈天理迦具夜てんりかぐや〉。通称、迦具夜の姫さまです」


 『彼女』に視線を釘付けにされ、説明は右から左へ抜けていく。

 冴え冴えとしていた瞳は暗く、底の見えない古井戸のようで、およそ心緒を読み取れない。腰まで伸びていた茶髪は、短めに切り揃えてあった。記憶にこびりついた風采と、至るところで食い違う。しかし、面差しはあのときのままで――


「……てやる」


「はい?」


 拍動が胸板を激しく叩き、聞き返す唄の声が遠のく。なぜここに、と論理的になるよりも早く、唄に制止されるよりも早く、遙真は人垣に割り込んだ。

 学生を荒っぽく押し退け、無我夢中で通りに躍り出る。

 一団の後方に出た。全速力で距離を詰める。取り巻きの学生たちは聡く、不届き者の出現を逸早く感知。こちらを振り向いて、守鍵に手を掛けた。

 遙真は止まらなかったし、止まろうともしなかった。

 四人ともが適切に対処したなら、或いは取り押さえられただろう。

 だが、後方にいた男子学生は、身のこなしが今ひとつ。他の三人に見劣りした。気が動転したのもあり、守鍵を取り出し損ねて、指で地面に弾き落とす。

 その男子学生に肉薄し、顎を腕で突き上げる。男子学生は折好くよろけて、後方の女子学生を巻き込む。前方の取り巻きは間に合わない。道が開けた。


 長らく捜し求めた『彼女』が、遙真の手の届く場所にいる。

 声にならない声を漏らす。遙真は『彼女』を――を押し倒し、




「殺し……てやる。殺して、殺して、殺してっ……殺してやる!」




 馬乗りで刀を振りかざして、怨嗟の喚声をぶちまけた。


「ぶっ殺す! 俺がぶっ殺す! 俺が! 俺がっ!」


 脳髄が灼熱する。守鍵を握る腕が強張る。血を吐くように叫ぶ。

 真っ白に染まる心の水面に、ぽつ、ぽつ、と澱んだ黒が垂れ落ちる。


 殺す。殺す。殺す。殺す。殺せ。殺す。殺させろ。殺す。殺す。嫌だ。殺す。殺す。殺す。嫌だ。殺す。嫌だ。殺すんだ。殺せ。殺す。嫌だ。嫌だ。……嫌だ。


「どうしたの? 殺さないの?」


 洞穴に鈴を転がしたような、玲瓏な響きが耳朶を打った。

 絵空の空虚な瞳が、遙真を見据えていて。その瞳の奥に巣食う闇に、湧き立つ激情を吸われて。遙真の眼をこぼれたものが、絵空の頬を伝っていって。


「殺してえよ……殺したいさ……。だけど……だけど、お前は――」


 ごすっ、と後頭部を強打され、言葉尻が宙に浮く。

 数人に取り押さえられながら、遙真は緩やかに意識を手放した。

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