1.灰色の邂逅4
山風が優しく頬を撫でる。遙真は草原で寝そべり、昼寝に勤しんでいた。
欧州北部に広がる、丘陵地の一角だ。青い空。輝く太陽。鳥のさえずり。草花の匂い。緑の絨毯が敷かれた大地。何もかもが心地よく、胸の蟠りを忘れさせる。
遙真が好んで訪れる場所、お気に入りの草原だった。
「遙真くん、見っけ」
鈴を転がしたような声がして、重たい瞼を片方だけ上げる。白いワンピースをなびかせ、見知った少女が立っている。遙真は瞼を閉じ、狸寝入りをした。
「お昼の用意できてるよ。食べないの?」
「いらない。腹減ってない」
「お父さんと喧嘩したんだって? 仲直りしなよ」
「嫌だ。俺、もう修行したくない。魔術師にはならない」
手に提げたバスケットを置き、少女は遙真の隣で膝を抱えた。
「ふうん、勿体ない。遙真くん、魔術の才能あるのになあ」
「当てこすりかよ。俺がやってる修行、絵空はいくつでやった?」
「んと、五年前。八つのとき」
「正直に言うな! 励まそうとしろ! 余計に自信失くす!」
「面倒臭いなあ。それが喧嘩の原因?」
見抜かれた。幼いながらに自尊心が傷つき、危うく泣きそうになった。
遙真も詳しいことは知らないが、少女の父は魔術界の名士であり、母国で知らぬ者はいないと聞く。彼の血を引く少女もまた、魔術の才に溢れていた。同い年だというのに、遙真より数段は上。差は年月を経るにつれ、広がっていく気さえする。
身近な人物の才能を妬み、卑屈になる自分を嫌悪した。
魔術の修行に取り組む最中、師に「魔術師なんて糞食らえ!」と暴言を吐いて、山小屋を飛び出したのは、その自己嫌悪が一因であった。
しかし、感情の爆発の最たる原因は、それとは別のところにある。
「はい、遙真くんのお昼。お腹が減っては戦はできないよ」
少女がバスケットを開けて、遙真に昼飯(?)を手渡した。
「……このサンドイッチ、形がおかしいぞ。丸っこい」
「遙真くん、パンよりもお米が好きでしょ。おにぎりを挟んでみました」
「お、おう……」
「残さずに食べてね。いただきます」
躊躇する遙真をよそに、サンドイッチ(?)を頬張る。少女のあどけない横顔は、遙真の沈んだ気分を紛らせた。だが、胸に渦巻く不安は消えない。
遙真と少女の隔たりは、懸命に努力しようとも、一向に縮まらない。近しい者だからこそ、こうして隣にいるときも、少女を遠くに感じた。
遙真が伸ばした手はいつの日か、少女に届かなくなるのでは……?
漠然とした不安と焦燥が、遙真を爆発させた原因だった。
強くなれなくていい。魔術師になれなくていい。一生、修行漬けの日々でいい。ただ、少女とともにいられるのなら。ただ、この手が届いているのなら――
遙真が黙り込んでいると、少女はやにわに口を開いた。
「覚えてる? 引っ越してきた初日、街に下りたときの事件」
「メアリたちに逢った日だろ」
「見ず知らずの子たちを助けて、いじめっ子たちと喧嘩して。遙真くん、ぼろぼろにやられてさ。すごく格好悪かった。いじめっ子も呆れてたし」
「どうせ格好悪い小者だ! 仕舞いには泣くよ!?」
「すごく格好悪かった。でも、すっごく格好良かった」
思いも寄らない言葉。少女は咲く花のような、とびきりの笑みを返した。
「私は知ってるから。普段は駄目駄目で、面倒臭くて、格好悪くても、やるときはやってくれる。遙真くんの格好いいところ、私は沢山知ってるから」
――不安と焦燥は晴れていない。だが、驚くほど心が軽くなる。
人が何かを思い悩んでいるとき、他人に求めるものは正答ではない。
いつだって少女はこう。遙真の胸中などお見通しで、遙真が欲しかった言葉を、的確に言ってのけるのだ。遙真は目元を腕で擦り、冗談めかして言った。
「俺も知ってるぜ。絵空の料理の下手っぴさ、嫌っってくらいにな」
「え? 何か言った?」ごごごっ。
「空耳デス。何も言ってマセン」
言わぬが花。沈黙は金。黙々とサンドイッチを食す。ライ麦パン、塩むすびの食べ合わせは、混沌の味わいだったが、ひと口ごとに気力が湧いた。
心が楽になる。気力が充実したからか、サンドイッチを平らげるや、
「絵空、俺と勝負しよう」
という思いつきの提案が、遙真の口を突いて出た。
「俺がうんと強くなって、師匠に守鍵を貰えたとき。真剣勝負だ。どっちが強いか白黒つけよう。そんでもって、俺が……お前に勝ったら……」
「勝ったら?」
言葉は続かず。遙真は金魚のように、口をぱくぱくさせた。顔がかっかと火照り、少女を見ていられない。言いかけた想いは、腹の底へ飲み下した。
「……やっぱりいいや。勝ったときに言う」
「そっか。わかった。遙真くんに負けるの、楽しみにしておく」
「余裕かましてろ! こてんぱんにしてやる!」
大口で威勢よく勝利予告をして、二つ目のサンドイッチを胃に放る。
パンでむせる遙真を眺め、少女は朗らかに笑っていた。
埋まらない差などない。縮まらない隔たりもない。伸ばすことをやめなければ、この手は明日も少女に届く。何年、何十年後でも、隣で笑っていられる。
このときの遙真は、そう思っていたのだ。そう、信じていたのだ。
爆風が皮膚を灼く。遙真はかすむ目を見開き、呆然と立ち尽くした。
広がる景色は地獄絵図だ。曇天の空。蔓延する瘴気。鳥や獣の屍骸。一面の焦土。遙真が一番好きだった場所は、無惨に変わり果てている。
これは夢か? 現実か? 記憶はおぼろげ。臭気で息苦しく、頭が働かない。夢だとしたら、悪夢でしかない。夢ならば醒めろ。悪夢であってくれ!
「お父さん……お父さん!」
夢ではない。父親を呼ぶ少女の声が、遙真を現実へと引き戻す。土煙に汚れたワンピースをなびかせ、少女は斜面の中頃で泣き叫んでいた。
斜面下方の黒焦げた平地では、二つの影が相対している。無精髭を生やした男と、八本の肢を持つ人面の大熊。後者は明らかに化け物――はぐれ魔だ。
化け熊が唸り、男に突進した。三メートル超の巨体が、生きた砲弾のごとく、八足歩行で突き進む。人間にあれが直撃すれば、体はばらばらに四散する。
艦の主砲並みの体当たりを、男は片手で押さえつけた。
(素手で止めた!?)
そんなわけはなく、魔術を用いたのだろう。反対の手に守鍵があった。
いかなる魔術の賜物か、男はびくともしない。はぐれ魔が猛り狂い、五体を裂こうとするが、闇雲に振り回す鉤爪は、守鍵の刀にいなされる。
刹那、刃が閃いた。刀身が人面をかち割り、はぐれ魔を斬り裂く。はぐれ魔は活動を停止。毛皮と骨が灰に、肉は黒い粒子となり、鈍色の空に舞い散った。
(本物の化け物より、こっちのが化け物だ)
『才能に差がある』『隔たりがある』どころではない。遙真とは『住む世界が違う』。遙真は斜面を下りながら、しわがれ声で男を呼んだ。
「師匠、何がどうなってる――」
「来るな、阿呆が! 絵空と居ろ!」
一喝される。師のらしからぬ大音声で、己の短慮に気が付いた。
あの大熊のはぐれ魔には、目前の惨状は作り出せない。
地上に地獄を現出した者、真の脅威は他にいるのだ。
「っ……了解! 絵空!」
遙真はすぐさま方向転換し、啜り泣く少女へ駆け寄った。
「どうしよう、遙真……くん……お父さんが……!」
「絵空、無事か? しっかりしろ。親父さんは大丈夫だ」
目立った外傷こそないが、少女は錯乱していた。どうすべきかわからず、少女の手を握ったとき、濃厚な妖気が充満し、空から人が降りてきた。
身を包むのは漆黒の法衣。風は凪いでいるのに、豊かな黒髪が巻き上がり、蛇のように波打っている。揺れ動く髪に隠され、人相は判然としない。辛うじて、通った鼻筋と小さな唇が、髪の切れ間にのぞいた。肌の艶からして、年若い女だ。
女は法衣の灰を払った。それだけでぞっとし、遙真の脚がすくむ。
脳が警鐘を鳴らした。女も師と同種の人間だと。『住む世界が違う』と。
「飲まれるな。曲がりなりにも、俺の弟子だろう」
師がこちらを見ず、低い声調で言う。師は懐に手を差し入れ、
「指示を二つ出す。一、絵空を連れて離脱しろ。命に代えても護れ。一、こいつを持っていけ。同じく、命に代えても護れ。決して奴に渡すな」
矩形の〈
〈匣〉を目に留めて、女の唇が弧を描く。……笑った?
「無駄話に費やす時間はない。とっとと行け」
「了解……後で会えるんだよな、師匠?」
「生意気だぞ、半人前の分際で。お前の師を誰だと思ってる」
「――了解!」
師らしいぞんざいな返事が、遙真の怯みを解いてくれる。愚図ついていられない。左手に〈匣〉を握り、右手で少女を引いて、遙真は走り出した。
「絵空、心配するな。必ず追いつく」
「お父さん……っ」
父娘を引き離す。少女の手は冷たく、小刻みに震えていた。
師に託されたのだ。護らなければならない。俺が彼女を護るのだ。
遙真の手が少女に――
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