1.灰色の邂逅2
「比奈くん、こっちこっち。席取っておきました」
ひらひらと唄に手を振られ、遙真は蕎麦の器を落としかけた。
見る間に過ぎる学生生活初日。午前の授業は終わり、学生たちで混み合う、昼休みの食堂にて。勘定を済ませた遙真が、席を探していたときだった。
(あいつ、何を企んでやがる?)
唄は恐らくは学校長の差し金。迂闊に近付くのは危険だ。
しかし、逃げるのも癪だ。唄がいるのは二人掛けの席で、彼女の正面が空いていた。遙真は何食わぬ顔で、蕎麦を載せた膳を降ろし、その空席に収まった。
「いただきます」
唄とは目を合わさず、黙々と蕎麦を啜る。唄と同席しているせいか、学生たちの注目を浴び、途轍もなく居心地が悪い。蕎麦を味わえない。
「慣れてますね、箸の使い方」
先に食べ終えた唄が、感嘆するように言った。
「外国暮らしが長いと聞いたので、てっきり日本文化に疎いのかと」
「六つまではこっちにいたんだよ」
「一〇年も外国に? 何をしていたんです?」
「お前に教える義理はない」
「つれないですね」
肩をすくめる。唄の態度にかちんと来て、遙真は反撃に打って出た。
「ところで、俺が外国で暮らしてたって、お前に話した覚えないんだが」
「嘘。言ってましたよ」
「根なし草だとは言ったけど、洋行巡りしてたとは言ってない」
「……藪蛇でしたか」
失言に気付いた唄が、可愛らしく舌を出す。だが、弁明しようとはしない。探りを入れていることを、遙真に隠す気がないのだ。足下を見られている。
執拗にまとわりつかれ、探られるというのは、気分がいいものではない。
「新参者なんざに興味ないだろ。俺に付きまとうな」
「それがあるんです。私、あなたに興味津々なんです」
「成績上位者の常連〈
聞き込みの収穫をそらんじる。唄は口角を片側だけ上げ、
「一日で調べましたか。行動が早い」
「荷解きが半日で済んで、時間が余ってたんだ」
「いらない手間をかけましたね。私の個人情報くらい、私に直接訊いてくれれば、大抵は教えてあげたのに。三位寸法は乙女の秘密ですが」
「なら、教えてもらう。校長さんは俺をどうしろって?」
「私は自分の意思でここにいます。比奈くんとお近付きになりたくて」
唄がぐっと身を乗り出し、笑顔で握手を求めてくる。
「比奈くん、私と友達になってください」
「嫌だ。断る」
応じない。唄は両手で顔を覆い隠すと、人目をはばからずに泣き出した。泣き真似だとはわかっている。遙真は慌てず騒がず、白湯をひと口飲んだ。
「う、嘘泣きをするな。あと、変な呼び方もやめろ」
指摘したかった点に触れる。唄は泣き真似を打ち切って、
「えー、この呼び名、しっくり来るでしょう」
「どこがだ。人をひよこみたいに……」
「わかりにくかったですか? 『朝比奈』だから『比奈くん』です」
「それは言われなくてもわかる」
「名で呼ぶなと言うので、考えてあげたのに。我がままなことで」
「誰も頼んでねえよ!」
掴みどころのなさに掻き乱され、会話がなかなか進展しない。このまま続けても、埒が明かないだろう。しくじった。関わらなければよかった。
「もう一度言う。金輪際、俺に付きまとうな。お前と友達にはならない」
食べかけの蕎麦を膳に載せて、遙真は他の席へ移ろうとした。
これで唄が密偵を断念する――とは思っていない。いざというとき、見張りがいたのでは、邪魔される恐れがある。対策を講じなければ。
遙真は思考に気を取られ、注意力が散漫になっていた。引いた椅子が誰かとぶつかる。「ひゃあっ」と声を上げて、相手の女子学生がよろめいた。間が悪いことに、彼女も昼食の膳を持っていて、載っていた食器はひっくり返った。
白米と煮物がこぼれ落ち、スカートに味噌汁がかかる。……やらかした。
「ごめんな。ぼうっとしてて――」
謝罪しかけて、遙真は仰天した。女子学生が涙ぐんでいる!
「あ、あ、すみませんっ。
すみませんっ、すみませんっ、と壊れた録音機のように連呼する。
おさげに結われた髪は、明るめのチョコレート色。身長は遙真の肩ほどで、幼い顔つきが愛らしい。制服を着ていなかったら、迷子かと誤解していた。
傍目からは子供を虐めている構図だ。背徳感が凄まじい。
「そっちが謝ることない。俺の不注意だ。ごめん」
「そうですよ。月乃ちゃんに非はありません」
「――唄先輩?」
口を挟んできた唄を見て、女子学生が涙を引っ込めた。
「唄先輩! 帰ってきてたのですね!」
泣き顔から一転。幼子のように顔を輝かせる。
「いつ帰ってきたのですか? 帝都を出ていたようですが」
「昨日ですよ。学校長の使いをしてまして」
二人が親しげに言葉を交わす。遙真の調べによれば、唄は大半の学生たちにとって、畏怖や嫉妬の対象だった。だが、孤独であるわけではないようだ。
「月乃……後輩って言ったか。これ、昼飯と制服の弁償代」
遙真はがま口を開き、月乃に小銭を差し出した。師の仕送りが寮に届いていたため、先日より懐にいくらか余裕がある。無駄遣いは禁物だが。
おろおろ、と挙動不審にしながら、月乃は首を横に振った。
「いいのです。お気持ちだけで十分です」
「受け取ってくれ。じゃなきゃ、俺の気が済まない」
「で……でも……」
「やれやれ。では、こうしましょう」
気遣いのなすり合いを見兼ね、唄が折衷案を打ち出した。
「比奈くんと月乃ちゃん、二人は友達になってください。それで解決です」
「……お前は何を言ってるんだ」
突拍子がなさすぎる。どういう思考回路をしていれば、その善後策にたどり着くのか。理解に苦しむ。月乃も目をぱちくりさせ、疑問符を浮かべている。
唄は間に割り入ると、慎ましい胸を張って、嫌みたらしく言った。
「何を言ってるんだ、はこちらの台詞です。可愛い後輩と親しくなれて、へまも赦してもらえるんです。絶賛ぼっちの比奈くんには、願ったり叶ったりでは?」
「誰がぼっちだ! 否定できねえけど! 後輩も御免だろう?」
「御免だなんて。とんでもないのです」
同意されると思いきや、真逆のことを言われた。
気恥ずかしそうに視線を落とし、月乃は途切れ途切れに呟いた。
「月乃は昔から人見知りで、存在感も薄かったので、お友達が上手くできなくて……。お友達になっていただけたら、とても、とても嬉しい……のです」
「今しがた会ったばっかの、得体の知れない奴だぞ」
「唄先輩のお友達の方なら、信頼できる人だと思うので」
「友・達・じゃ・ねえ!」
「はうっ!? すすすみませんっ! 月乃なんか……御免ですよね……」
「違う違う違う! そうじゃなくてだな!」
「駄目……ですか?」
落胆で一杯の涙目で項垂れ、上目遣いに遙真を見上げる。
気不味い沈黙が続くことしばし。遙真は悩んだ末に、月乃の細い手を取り、小銭を握らせた。「受け取れません!」と戸惑う月乃に、気さくな調子で言う。
「遠慮はなしにしよう。友達ならさ」
「――え?」
「朝比奈遙真だ。よろしくな」
月乃はきょとんとした。しかし、遙真の含めた意味が伝わると、ぱあっと表情を明るくする。よほどの嬉しさなのか、上気した頬が紅くなっていた。
「一年の
腰を九〇度に折り、深くお辞儀する。幾度もお辞儀を反復する姿は、鹿威しのようで微笑ましい。遙真は可笑しくなって、何とはなしに笑みをこぼす。
学友を作りに来たのではない。だが、作らない理由もなかった。
無論、二心や下心がない者、という前提はつくが。
「ぼっち卒業、おめでとうございます、比奈くん」
成り行きを静観していた唄が、遙真の脇腹を肘で小突く。馴れ馴れしい。
「もっと喜んだらどうです? 思春期の男の子の夢、両手に名花ですよ」
「お前は人の話を聞け。お前とは友達にならない。なりたくもない」
「照れちゃって~。むっつり? むっつりなんですか?」
「て、て、照れてねえし!」
「思春期の男の子は頑固ですね。比奈くんと月乃ちゃんが友達。私と月乃ちゃんが友達。ゆえに、私と比奈くんも友達。筋の通った理屈でしょうに」
「屁理屈じゃねえか! 筋がぐにゃぐにゃだ!」
怒りを通り越し、遙真は辟易した。名門校の優等生だけあって、唄は口達者で頭の回転も速い。息を吐くかのごとく、神経を逆撫でしてくる。
ごり押しは効きが薄いと見て、唄はやり口を切り替えてきた。
「どうしても、駄目ですか……?」
上目遣いでしおらしい声を出す。宿場町でしていた演技は、月乃を参考にしたのか。猫被りと知っているのに、強気に出れなくなった。我ながら単純である。
「お、お前の本性は知れてるんだ。だ、騙されるもんかよ」
「落ちませんか。しょうがないですね。――実力行使で行きます」
唄は出し抜けに言って、遙真の胸倉を掴み寄せた。
反応が遅れた。流れるように技をかけられ、木の床へ叩きつけられる。
投げられた! 自分より小柄な女子に! あっさりと!
仰向けで放心する遙真に、少女の影が覆い被さった。
「比奈くん、賭け仕合をしましょう」
中腰の唄が遙真を見下ろし、細く白い人差し指を立てる。
「私が勝ったら、友達と認めてください。認めるだけでいいんです。高望みはしません。無理に仲良くしろとも、私を『唄ちゃん』と呼べとも言いません」
「賭け仕合……喧嘩ってことか。俺が勝ったら?」
「付きまとうのをやめます。半径五米内には近寄りません。約束します」
「賭けになってないぞ。俺に旨みがなさすぎだろ。御免だね」
付き合っていられない。遙真は身を起こし、そっぽを向いた。
「あれれ、逃げちゃいます? 女の子に転ばされ、仕返しもせずに?」
「――――」ぴきっ。
「拍子抜けしました。思いの外、怖がりさんですね」
「――――」ぴきぴきっ。
わかっている。安っぽい挑発だ。乗ってやる価値もない。
「あなたがこの分だと、あなたの後援者の程度も、高が知れるというもの」
「上等だ」
頭ではわかっていた。わかっていたが、遙真は起き上がり、唄へ言い放った。
「表に出ろ。その喧嘩、買ってやるよ」
居合わせた学生がどよめき、月乃が息を呑むのが聞こえた。
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