③
息を吸い込んで背筋を伸ばしてから、再び鍵盤を叩き始める。
空に展開していた『彼ら』による二つのVの字が崩壊を始めて、動揺が全体に伝わっていく。
それでも翔機の群れが接敵のために加速を続けることはやめなかったが、それよりも――相手のほうが早かった。
今、魔道士はその場に留まっていた。
翼竜たちを、先行させたのだ。
翼竜たちの翼が空を切る。
悲鳴のごとき咆哮をひだ状の喉の奥から轟かせ、奴らはこちらに向けて飛翔してくる。
赤い燐光が撒き散らされて、一気に距離が近づく。
胎内に表記されたマーカーが大きくなってくる。
その姿がいよいよ、赤い点でなく、実体を伴うほど鮮明になり始めたときには既に、何らかの判断を下す余裕はなくなっていた。
翼を持った怪物たちが、隊列を乱した黒い棺たちに向けて、一気呵成に襲撃を始めた。
◇
灰色のキャンバスの上で、黒と銀の二つの塊がぶつかりあい――混沌の戦場が、幕を開ける。
隊列を頑なに死守しながら接敵する『彼ら』に対して、翼竜たちの動きはより自由だった。
それぞれが意思を独立して保ちながら、それぞれの殺意と戦意でもって戦いに挑み始めた。
翼竜たちは牙を剥き、食いかかる。
真下から真横から、あるいは死角から。
散開せよ――そのメッセージが全員で共有されたときには既に遅かった。
今まさに、彼らの細胞のひとかけらが、翼竜の一匹に食いつかれ、羽根を噛みちぎられ、最後には機体内部に直接炎を流し込まれて撃墜された。
地上に墜落して小さな炎となったそれを一瞬だけ瞳に焼き付けると、翔機たちは弾かれたように、それぞれ猛然と、自身に一番手近な翼竜たちを迎撃しはじめた。
もはや隊列は大きく乱れていた。
己の後方部分が死角とならぬよう、互いの軌道をクロスさせてかばい合いながら、異形の者たちを追走する。
奴らはもてあそぶように不規則に飛び交い、野生動物そのものとなって、その殺意を、嗜虐心を、空中というオードブルに散らされた黒点たちに向けてくる。
その無邪気ともいえる攻撃性に、負けるわけにはいかなかった。
その時点で、空の上では彼らと奴らが複雑に絡み合い、互いをペアにした舞踏会のような状態になっていた。
複雑な風切り音が、火線が一斉にまじわる。
まるで互いの糸が絡み合うように。
レーザーが発射される。
炎が翼を焼く。
互いが互いを追いかける。
◇
小夜子は感じる。客席側で、動揺が広がっている。
理由は明白。
演奏はテーマを失い、不協和音の連なりになっているからだ。
鍵盤は主題を離れ、ぐちゃぐちゃとした子供のいたずらのような音の羅列を奏でている。
無論それも譜面通りではあるのだが、中心になる音階がなくなると和音も消失してただの音の重なりにしか聴こえなくなってしまうのだ。
プリセットされた様々な音色が、鍵盤の振動に合わせて、乱雑に打ち鳴らされる。
賓客たちは薄暗い席の上で不安になり、互いの顔を見合わせている。
それによって、戦場から統率が失われていることを悟る。
小夜子は鍵盤を叩きながら、その貴族たちの顔をちらりと一瞥する。
そして耳から、
彼らは混乱している。
滅びた街の上で、彼らは逃げ惑っていた。
一度統率が乱れてしまえば、そこからは攻めに転じることが難しくなる。
翼竜が追ってくる。背中を見せぬようにする。
なんとか砲口を彼らに向ける。
逃げられる。
その合間を縫って、遠くの
アリの巣に水をかけた時のように、際限なく動揺していた。
彼らは待っていた。次の秩序を、チャンスを。
誰も、この不協和音を歓迎していない。
かつてであれば、演奏ひとつひとつの技巧に耳を澄ませることもできただろう。
その音色ひとつから、新たな楽曲の展開が生み出されることもあっただろう。
だが今は、小夜子ひとりだった。
楽譜も一つだった。
だから音楽はこれ以上広がらない。それを期待しても仕方がない。
賓客達は首をかしげ、そして下層の街では、日々の暮らしで疲れ切った者たちが街頭のスピーカーを、あるいは公共施設の小さなモニターを見つめて、この現状が一刻も早く変化することを求めている。
はやく、逆転を。勝利を――快感を。興奮を。
はやく、はやくはやく。
やることは明白だった。
音楽にメリハリをもたらすこと。
次の展開を告げること。
そして小夜子は再び、その指を鍵盤にそわせて、次なる主旋律を紡ぎ始めた。
その時、一斉に他の音色が……追従をはじめた。
◇
「死んだ、死んだ。俺たちの同胞が」
「彼らはよく生きて、よく死んだ」
「彼らに、続け」
互いに発したその言葉が一斉に共有された。
パルスになって、網目状に広がって。
同時に、新たな音楽が虹色のケーブルを通じて脳内に響いてくる。
先程よりもずっとおおきなおと。
先程よりもずっと激しくて、勇気が湧いてくる。そんなメロディ。
確かに前触れはあった。女神はそれに答えてくれた。
恐慌が、勇気に変わる。
あたたかなものが彼らの胸中を満たす。
胎内でビクビクと身体を震わせて、流れてくる情報に一瞬痙攣した。
しかし次の瞬間には――順応する。
「こちらの番だ」
選んだのは後退だった。
一斉に発された無意識の号令によって、彼らは竜の追撃を中断、ひらりと身を翻しながら後ろへ、後ろへ下がった。
胎内の互いを黒いボディの向こう側に幻視しながら、再び大きなVの字を組み直す。
三人いなくなった。残りは十七。
その意味を噛み締めながら……正面を向いた。
翼竜たち。憎しみを音楽に乗せる……。
一秒置いて、再突撃開始。
Vの字の半数が、翼の角度を僅かに傾斜させて加速。
後方の残りがレーザーで援護する。
女神の音楽と同胞への思いを載せて、再び竜を撃ち落とす戦いが幕を開ける。
再び、彼らと奴らの軌道が混じり合い、絡み合いはじめる。
その合間に互いを援護するためのレーザーが、火線が差し込まれ、舞踏を複雑に彩っていく。
破棄された高速道路の谷間を縫いながら追撃し合い、その後方でいくつもの廃墟が破壊されていく。 黒い棺の先端から桃色のレーザーが発射され、竜の銀翼が焼かれる。
制御を失い、甲高い悲鳴を上げて、錐揉み回転しながら撃墜されていく。
一、二、三。
追うものと追われるものが逆転する――竜は、狩られる側となった。
廃墟の街に、いくつもの花が咲く。
彼らの意思はひとつだった。自分たちの欠片が失われた。
それは悲しみ以上に名誉と、誇りの気持ちを与えた。
だから彼らは戦えた。
合間に何度も、長射程の火線が狙っていた。
彼らは揉み合いながら、それらを避ける。
雲を切り裂くその光条を。
どこからだ。もっと遠く。
そして、ビルの一角がその射撃にさらされて崩れ落ちた時、彼らは次の行動をとった。
彼らのうち数機が、竜たちの群れを超えて、前方に突出する。
そして、その向こう側へ加速をはじめた。
行け、行け。こちらはこちらで食い止める。
そんな同胞たちの声。
僅か三機で編成された者たちは、その声を背中に受けながら、全身を泡立たせて――この空をいくつも超えた先に居る魔道士に向けて飛び立った。
◇
そんな彼らの勇姿を、荒い画面上で見ている者たち。
自分たちの苦境を、日々の過酷を銀色の翼竜にぶつけるため、叫ぶ。
酒を酌み交わし、唾を飛ばし。
行け、やれ。怪物どもをひねりつぶせ。
街中の至るところで、そんな声が響いている。
一転、客席では、賓客たちが互いに視線を交わし、ニッコリと微笑んでいる。
「いつ聞いてもいいものですな」
「音楽はこうでないと」
そんな声。小夜子には聞こえない。
しかし、なんと言っているのか分かる。
荘重で、テンポを早めて。
彼らは行く。重苦しい灰色の雲を乗り越えて進む。
その後ろでは仲間たちが翼竜と揉み合いながら死の舞踏会を続けている。
◇
爆発が花開き、いくつもの竜が撃墜されて死んでいく。
しかし同じぐらい、彼らもまた死んでいく。
ある者は翼を食い破られて、またあるものは焼き尽くされて。
それでも彼らは同胞の三人を信じている。
その先にある勝利を願って。
そして、自分たちを守り、駆り立ててくれる音楽に、女神に祈りを捧げて。
大丈夫だ、おれたちは絶対に勝てる――。
小夜子もまた、一種のトリップ状態に陥りながら演奏を続けている。
それは彼らの情報が耳に流れてくることで、まるで彼らと一緒に演奏しているように思えるからだった。
そうなれば、音楽は独立し、決められた譜面通りにしか演奏されないということを忘れずに済む。
ああどうかこのまま、このまま――……。
その時だった。状況が、一変した。
レイの傍らで、一機が撃墜された。
その残骸がずぶずぶと斜め下に崩れ落ちて、地面の近くで爆発して四散した。
情報が胎内に表示された。
――たった今死んだのは、レイに押し花の栞を渡した者だった。
それは胎内で、頼りなさげに揺れていた。音楽の興奮が頭から剥がれ落ちた。
真上の黒雲を引き裂いて、別の敵が残った二機に踊りかかる。
ずっと隠れていたのだ。
今まさに、その牙がレイに差し向けられる――。
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